「くそっ……!」
フルートは思わず石の窓枠を拳で殴りつけました。
渦王は石にされ、彼らの目の前で魔王に奪われていきました。エレボスはあっという間に泳ぎ去って、どこへ行ったのか見当がつきません。
すると、足下に駆けつけてきたポチが、伸び上がって窓の外を見て声を上げました。
「フルート、見てください!」
言われて、はっと外の景色に目を向けたフルートは、愕然としました。一面の世界から色が消えていました。色とりどりのサンゴの森も、花のようなイソギンチャクの群れも、その間で束の間の休息を取っていた渦王の軍勢も、すべて残らず灰色に変わり、堅く凍りついています。魔王の魔法は大広間の中だけでなく城の周辺にも広がり、そこにあったあらゆるものを冷たい石に変えてしまったのです。
万単位の渦王の兵士たちが、石の像になって海底に林立しているのを見て、フルートは思わず背筋が寒くなりました。すさまじい魔力です。あの一瞬で、これだけのものをすべて石に変えたのかと思うと、空恐ろしい気がします。
海王の城は怖いほどの静寂に包まれていました。音をたてるものは何もありません。何一つ動くものもありません。海藻さえ、石の薄い板に変わって、海底に立ちつくしています。ただ、城や岩の間を海水が流れていく音だけが、ずっと海鳴りのように聞こえ続けていました。
「メール……」
とゼンの声が大広間の中から聞こえました。フルートとポチは振り返り、思わずどきりとして目をそらしてしまいました。ゼンは泣いていました。水の中では涙は見えません。けれども、ゼンは肩を震わせ、泣き顔でメールが変わった緑の貝を握りしめていたのです。仲間たちが初めて見た、ゼンの泣いている姿でした。
フルートが、ぎゅっと拳を握りました。エレボスが泳ぎ去った彼方をにらみつけ、部屋にいる仲間たちに呼びかけます。
「魔王を追いかけよう! あいつは自分が完璧になってから相手をするって言っていた。海王の力を奪っただけでなく、渦王の力まで自分のものにしようとしてるんだ。あいつは海全部を支配しようとしてる。止めて――メールや渦王たちを元に戻すんだ!」
けれども、ポチがとまどったような顔をしました。
「ワン、でも、どうやって……? 魔王がどこに渦王を連れ去ったのか、わからないんですよ」
フルートは戦車につながれているマグロを見ました。大広間中灰色の石に変えられた中で、フルートたちの戦車と戦車を引く魚たちだけは、金の石の光に守られて無事だったのです。
「マグロくん、君は聞いていないかい? 海の王妃は魔王が化けていたんだ。海王が連れ去られている場所について、何か匂わせるようなことを言っていなかった?」
マグロは申し訳なさそうに頭を振りました。魔王は抜け目がなく、自分の隠れ家の場所は誰にもこれっぽっちも明かしてはいなかったのでした。
フルートはまた拳を震わせました。唇をかんで、ゼンの手の中の緑の貝を見つめます。
すると、その時、どこからか細い小さな声が聞こえてきました。
「なぞなぞ……なぞなぞ……なぞなぞ……」
石に変わった家来や家具の間から、一匹の細長い魚が泳ぎ出てきました。腹と背に白い筋がある黒い魚です。なぞなぞ、と繰り返しながら、フルートたちの周囲を泳ぎ回ります。
「コバンザメです。魔王の石の魔法をまぬがれたんですね」
とマグロが言いました。どこか投げやりな口調です。海王の力を奪った魔王が、渦王の力も奪おうとしている今、海は魔王の手に落ちてしまうものとあきらめてしまっているようでした。懸命に泳ぎ回るコバンザメに向かって、つぶやくように言いました。
「もう無駄だよ……。王様たちは連れ去られてしまった。もうどうしようもないんだよ……」
ところが、とたんにゼンが跳ね起きました。声を上げてマグロを叱りつけます。
「馬鹿野郎! 戦う前からあきらめてどうする! とにかく――とにかく、追いかけるんだ! ちきしょう! 絶対に元に戻してやるからな!」
手の中の緑の貝に向かって、そう叫びます。
「なぞなぞ! なぞなぞ!」
コバンザメが長い体をくねらせながら、必死で繰り返していました。その様子に、ふと、フルートは首をひねりました。
「待てよ……。魔王の魔法は、物陰だろうがなんだろうが、城とその周り中のものを全部石に変えているよね。どうしてコバンザメだけは無事だったんだ……?」
フルートはコバンザメをまじまじと見つめました。すらりと長い体の、頭の上に楕円形の吸盤が付いています。フルートの表情が真剣になりました。
「マグロくん、コバンザメって、どうやって生活している? この頭の吸盤はなに?」
「コバンザメは泳ぎがあまり得意じゃないので、他の大きな魚に吸盤で吸い付いて海の中を移動するんです。私たちマグロにくっついてくることもありますが……」
それがなにか? と聞き返すマグロに、フルートは言いました。
「このコバンザメは、さっきからここに並んでいた海王の家来じゃないよ。魔王が石の魔法をかけた後に、外からこの大広間に入ってきたんだ」
「ワン、いつの間に?」
「……ってことは、まさか」
驚く仲間たちにフルートはうなずき返すと、コバンザメに向かって尋ねました。
「君は外から『あるもの』と一緒に入ってきたんだよね。君が一緒に来たのは、誰?」
「なぞなぞ!」
とコバンザメは声高に叫ぶと、はっきりした声で言い始めました。
「残酷な水、生きた水、流れて集まり夜の色。うねりくねって闇の王に従う。なぞなぞ、なぞなぞ、これは何!?」
やはり思った通りでした。フルートはまたうなずき、仲間たちを振り返りました。仲間たちにも、今のなぞなぞでコバンザメが一緒に来たものの正体がわかりました。
「エレボスにへばりついてきたのかよ……すごいヤツだな」
半ばあきれたようにゼンがつぶやきます。三十メートルを越す水蛇の前では、コバンザメなど小魚のようなものです。巨大な口に一飲みにされて、それっきりのような気がするのですが。
あたり、あたり、と繰り返すコバンザメを見ながら、マグロが言いました。
「コバンザメは大きな魚のひれや腹にくっつくことが多いんです。そこなら大きな魚の目が届かないから。エレボスも、自分の顎の下につかれたら、そこにいることさえわからないでしょう」
「ということは」
とフルートは目を輝かせました。
「コバンザメくん、君はいつからエレボスと一緒だった? もしかしたら、君は魔王の隠れ家の場所を知っているんじゃないの!?」
すると、コバンザメは細く高い声でなぞなぞ、と叫んで、またこんなことを言い出しました。
「流れに囲まれた死んだ海。風は死に絶え、波も死に、死者は集って海の底。海の底には紅い城。呪いに充ちた黄泉(よみ)の城。なぞなぞ、なぞなぞ、ここはどこ?」
フルートたちは思わず顔を見合わせました。なんとも気味の悪いなぞなぞです。すると、マグロがぶるっと大きな体を震わせました。
「大藻海の幽霊城のことだ……間違いありません……」
とたんに、コバンザメがまたあたり、あたりと叫び出しました。
「だいそうかい――? それはどこにあるの?」
とフルートはマグロにかがみ込んで尋ねました。マグロは目に見てわかるほどはっきりと震えていました。
「私たちが乗ってきた海流の、そのちょうど中心に当たる場所です……。そこは海流の流れから取り残された場所なので、流れもなければ、海上に風も吹きません。だから、波もほとんどありません。海底と言わず海中と言わず、たくさんの死の藻が生えて漂っている、本物の死の海です」
「死の藻?」
とフルートはまた聞き返しました。
「悪魔の海藻です。とても貪欲で、その中に入りこめば、人も魚も食われてしまいます……。その真ん中の海底に、大昔の海王の城が建っているのです。もちろん、今は誰も住んでいません。あるのは、空っぽの城だけです。だから幽霊城と呼ばれているのですが……」
「なんでそんな場所に城を建てたの――って聞きたいところだけれど」
と言いながらフルートは立ち上がりました。
「今は魔王たちを追いかけるのが先だ。マグロくん、君はその幽霊城の場所がわかるね? お願いだ、ぼくたちをそこまで連れて行ってよ」
マグロは少しの間、返事をしませんでした。おびえた様子を見せています。けれども、フルートが重ねて頼むと、少し考えて、きっぱりと言いました。
「わかりました。全力で皆様たちをお連れしましょう。私を戦車から外してください。手綱だけにして……。戦車がなければ、私は自分に出せる限りの速度で泳げます。きっと、魔王たちに追いついてみせましょう」
マグロは泳ぎの速い魚です。その中でも、魔法から生まれたこのマグロは特に泳ぎが得意で、海王の家来の誰よりも速く泳ぐことができるのでした。
子どもたちはあわただしく準備を始めました。マグロを戦車の引き具から外し、さらに三匹のカジキも自由にしてやります。カジキはマグロの泳ぐ速度についてくることはできません。
「ここでお別れだよ。ここまで本当にありがとう」
とフルートがカジキたちに言い、ポチがそれを通訳しました。なぞなぞを言うコバンザメも、海王の城に残りました。泳ぎの不得意なコバンザメは、実際の戦いでは何の役にも立てないからです。後に残る魚たちは、フルートたちの周りをぐるぐる泳ぎ回り、無事を祈るように、何度も体をすり寄せてきました。
フルートとゼンは、マグロにかけられた手綱をつかみました。ポチはフルートのリュックサックにもぐり込みます。まるで、マグロに呼ばれて、魔の森の泉から旅立った時のようです。一つだけ違うのは、ゼンが手の中に大切に握りしめている緑色の貝の存在でした。
ゼンが手を開いて、貝をじっと見つめました。フルートも黙ってそれを見つめます。何も言わなくても、少年たちの想いは同じでした。
ゼンは貝を青い胸当ての内側の、服の胸ポケットにそっとしまいました。そこならば、そう簡単に攻撃されることも、なくしてしまうこともないでしょう……。
ゼンは顔を上げて言いました。
「さあ、行こうぜ! 魔王のヤツをぶっ飛ばして、何もかも全部、元に戻させてやる!」
フルートも行く手を見て、一言叫びました。
「出発!」
とたんに、マグロが弾丸のような勢いで泳ぎ出しました。子どもたちを背中にしがみつかせたまま、あっという間に大広間の窓から飛び出していきます。カジキとコバンザメが窓に泳ぎ寄った時、その姿はすでにどこにも見えなくなっていました――。