海王の城は東の大海の、暖かい海の底にありました。
明るい緑の海には一面にサンゴとウミユリの森が広がり、重なり合ったテーブルを思わせるサンゴの棚が続いています。岩場ではヒトデやイソギンチャクが色とりどりの花を咲かせ、鮮やかな色合いの魚の群れが、岩の間を泳ぎ回っています。
海王の城は、その海の森の真ん中に、白い岩山のようにそびえていました。古い石灰岩でできた自然の尖塔です。岩壁に無数に開いた窓にガラスはなく、魚や海の生き物たちが、自由に城を出入りしていました。
渦王の軍勢は海王の城までたどりつき、このサンゴの森で休息を取っていました。あくまでも隊列は崩しませんが、食事を取り、途中の激しい戦闘で負傷したものは、傷の手当てなどをしています。
軍勢の中に渦王の姿はありませんでした。ギルマンをはじめとする数名の重臣を連れて、海王の城に行っていたのです。城の魚に案内されて渦王たちが通されたのは、城の最上階にある大広間でした。
水中の大広間には、海藻を織って作った色とりどりのカーテンがひるがえり、壁に寄り集まったウミホタルが、シャンデリアのように明るく輝いていました。広間を美しい魚の群れがすいすいと横切っていきます。この魚たちは、放し飼いにされた小鳥のように、城の中をどこでも自由に泳いでいくことを許されているのです。
大広間の周りには、大勢の海王の家臣が集まっていました。青い髪の海の民、ウロコにおおわれた半魚人、魚や海の生き物に似た姿の海の民、そして、人のことばを話す本物の魚たち……。
けれども、大広間は驚くほどの静けさでおおわれていました。誰も口をきこうとはしません。なぞなぞの呪いは、この家臣たち全員にも及んでいます。口を開けば、意に反して謎かけのことばしか出てこない自分を恥じて、誰も声を出そうとはしなかったのです。静まりかえった大広間に、城の中を海水が風のように通り抜けていく音だけが、遠くから海鳴りのように響いていました。
一段と高くなった場所に玉座が二つ並んでいました。白と薄紅の巨大なサンゴを削りだして作った椅子です。その紅いほうの玉座に、一人の女性が座っていました。青い豊かな髪を結い上げ、波を思わせる青いドレスをまとった、この世のものとも思えないほど美しい人です。まるで彫刻のように微動だにせず椅子に座っていますが、その二つの瞳だけは、強い熱い光をたたえながら、広間に立つ西の王たちを見つめています。それが、青い貴婦人――海の王妃でした。
渦王が王妃に向かってうやうやしく頭を下げました。
「大変お久しぶりでございます、義姉上。このたびは兄上の一大事に我々の軍勢をお呼びくださったこと、心から嬉しく思っております――」
とていねいな口調で言って、王妃を見上げます。王妃は青い瞳をいっそう輝かせると、何かを言おうと口を開きました。
が、その時突然、大広間へ続く通路から騒々しい音が響いてきました。剣や武器が打ち合う金属音、そして、何かが猛烈な勢いで水中を突進してくる音です。
即座に渦王の親衛隊長のギルマンが矛を構え、他の臣下もそれぞれに武器を手にして、王を守るように身構えます。海の王妃にも大勢の家臣が駆け寄ってきました。
大広間の入り口から戦車で飛び込んできたのは、フルートたちでした。城の衛兵が群れをなして追いすがり攻撃してくるのを剣で防ぎながら、つむじ風のような勢いで大広間に駆け込んできます。
「渦王!」
とフルートは叫びました。相手に怪我をさせないよう苦労しながら剣をふるってきたので、本物の戦闘よりも疲れ切って、息を切らしていました。
「渦王――!」
それ以上、ことばが続きません。
メールが戦車の中から叫びました。
「父上!」
渦王は、娘の姿を見ると、ほんの一瞬、目を輝かせました。進軍の途中で行方知れずになった娘が無事に戻ってきたことを喜んだのです。
けれども、次の瞬間、渦王は雷のような勢いで子どもたちをどなりつけました。
「この馬鹿者ども!! ここは海王の城、海の王妃の御前であるぞ! そこに戦車で乗りつけるとは、無礼にもほどがある!!」
その迫力には、子どもたちだけでなく、居合わせたものたち全員が思わずすくんで何も言えなくなりました。追いかけて攻撃していた衛兵が、はじかれたように戦車から離れ、大あわてで通路へ逃げていきます。
渦王は王妃の前に片膝をつくと、兜を脱いで深々と頭を下げました。
「義姉上、とんでもないご無礼をお許し下さい。なにぶん、まだ子どものこと故、礼儀作法がよくわかっておりません。なにとぞ、寛大なご厚情のほどを……」
「父上!」
「渦王、そいつは――!」
メールとゼンが同時に声を上げました。目の前にいる海の王妃こそ、彼らを陥れようとしている裏切り者だと知らせようとします。
けれども、とっさにフルートが二人の腕をつかんで、目で黙らせました。今はまだ、王妃は王妃としてそこにいます。ここで告発しても正体を現さないでしょう。王妃が尻尾を出すのを待たなければなりませんでした。
フルートは戦車から飛び下りると、渦王に習って兜を脱ぎ、並んで王妃に膝をついて見せました。
「本当に申しわけありません。早く駆けつけなければと思って、あせって戦車でここまで来てしまいました。どうかお許し下さい」
ていねいに謝りながら、フルートは、ちらっと海の王妃の首のあたりに目をやりました。黒い石がはまった鈍色の闇の首輪があるのではないかと期待したのです。けれども、青い薄いドレスで身を包んだ王妃の首に、首輪のようなものは何も見えませんでした。
海の王妃が口を開きました。
「そなたが金の石の勇者ですね。渦王と共にわたくしたちを助けに来てくださったこと、心から感謝しますよ」
王妃の声は、まるで音楽のように美しく豊かに流れました。思わずうっとりと聴き惚れてしまうような声です。ところが、それを聞いたとたん、フルートは何故か、ぞくりと背筋が寒くなるような思いにかられました。
渦王がかたわらから立ち上がりました。フルートもあわてて立ち上がると、王妃に一礼してから、仲間たちのところへ戻りました。いつまでも渦王と並んで立っているのは失礼に当たるからです。
戦車のそばではゼンとメールとポチがそれぞれに海の王妃を眺めていました。ゼンなどは、あからさまにぽかんと王妃を見つめていて、フルートが戻ってくると、すぐにささやいてきました。
「おい、海の王妃ってすさまじい美人だな……。渦王と海王が奪い合ったってのも、わかる気がするぞ」
しっ、とフルートはゼンにささやき返しました。すぐ近くで、メールが立ちつくし、燃えるような目で海の王妃をにらみつけていたからです。メールは、王妃が自分にちらとも目を向けようとしないことに歯ぎしりをしていました。海の王妃が見つめるものはただひとつ――青と白の鎧兜に身を包んだ渦王の姿だけだったのです。
ポチがフルートに抱き上げてもらって、そっとささやいてきました。
「やっぱり変ですよ……あの人。心配そうな匂いがしない。旦那様を魔王にさらわれて、これからそれを助けに行こうとしてるのに、誰かを心配しているような匂いが全然しないんです」
フルートは黙ってうなずくと、そっとあたりに目を配りました。大広間のどこかに魔王の手のものが潜んでいるかもしれません。そいつが襲いかかってきたら、即座に王を守って戦えるよう、心の中で身構えました。
渦王がまた話し出しました。
「して、義姉上、兄上はどこに監禁されておられるのでしょう? 天下の海王を捕らえることができるとは、敵の正体は何者なのです?」
「海王は深い深い闇の奥底に捕らえられています……深すぎて、わたくしどもの手はとても届きません」
音楽のように豊かな声が答えました。フルートはまた、何とも言えない悪寒を感じました。どうしてもこの王妃の声は好きになれません。聞いていると、無理やりに心をこじ開けられて、中に忍び込まれてしまうような気分になるのです。
「兄上はどこです? 我が軍は直ちに救援に向かえる体制でおります。場所をお聞かせ下さい、義姉上!」
渦王が本来の気の短さをちらりとのぞかせました。王妃が王の居場所を言えば、即座に軍を動かす構えを見せます。
すると、海の王妃はそんな渦王をじっと見つめ、ふいに、白く細い腕を差し出すと、まったく違った口調で呼びかけてきました。
「何故、私を義姉上と呼ぶの、リカルド! 昔のようにエリアと呼んではくださらないの!?」
居合わせた者たちは、いっせいにはっとしました。メールが真っ青になって立ちつくします。リカルドというのは、父の本当の名だったのです。
渦王は目を見張って王妃を見つめました。兜を脱いだ顔が、心なしか青ざめたように見えます。やがて、渦王は低い声で答えました。
「あなたは私の兄上の妻だ。私が義姉上とお呼びするのは当然のことです」
すると、海の王妃が玉座の中で激しく頭を振りました。手をもみ合わせ、訴えるように渦王に言います。
「あなたは私の本当の心をご存じないわ……! 私が本当に慕っていた方が誰なのか、あなたはご存じない! 海王の妻になって二十余年、私の本当の心は、いつも別の方のそばにありました! あなたは、それにお気づきになりませんでしたの!?」
王妃の声が熱く強く、聞くものたちの心を打ちました。身分も体裁もかなぐり捨てて、ただひたむきに自分の想いを伝えようとしている王妃を、ただただ見つめてしまいます。
けれども、フルートはまた言いようのない悪寒に襲われていました。王妃の声には魔力がありました。聞く者の心を絡め取ってとりこにしようとする、ねっとりとした響きです。
渦王は立ちつくしていました。玉座から王妃が駆け下りてきます。人目もはばからず渦王に駆け寄り、その胸にひしと抱きつきます。
メールが短い悲鳴を上げました。その顔色は血の気を失って真っ白でした。
海の王妃が震える声で言いました。
「海王がいる限り、永遠に口にできなかったことばを今お伝えしますわ。私が心から本当にお慕いしていたのはあなたです、リカルド。ずっと愛しておりました。ずっとずっと、あなたひとりだけを……」
そして、王妃は渦王の胸に、その美しい顔を埋めてしまいました。