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第3巻「謎の海の戦い」

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第11章 海王の城

41.思い出

 緑の髪の少女は、タペストリーが下がる城の一室に入っていきました。入り口に扉代わりに下がっているカーテンを、小さな体で何枚も押し開けていきます。その奥には、いつものように母が座っていました。大きな木の椅子にゆったりと寄りかかり、膝の上に見事な図案の刺繍の布を広げ、せっせとそれに糸を刺しています。

「母上」

 と小さな少女は呼びかけました。くりっとした青い瞳が勝ち気そうですが、将来はさぞ美人になるだろうと思える顔だちをしています。

 椅子の母が顔を上げました。少女そっくりの豊かな緑の髪に、深い緑の目をしています。やはりとても美しい人でしたが、少女が見せる強い輝きとは、また別の種類の美しさを持つ人でした。

「どこへ行っていたの、メール?」

 と緑の髪の女性は娘に尋ねました。その声は梢を吹き渡る風のようです。幼いメールは、ぷん、とすねた顔になりました。

「父上の出発を見送ってきたんだ。でも、父上ったら、やっぱりあたいを連れて行ってくれないんだよ!」

「まあ、メールったら」

 森の姫、と呼ばれるメールの母は、あきれたように娘を見つめました。

「あなたが戦争に行けるわけはないでしょう? それに、その言葉づかい。あなたは渦王の王女なのよ。どこで、そんな乱暴な言い方を覚えてきたのかしら――」

「いいじゃないか、そんなの。あたいはこっちの方が話しやすいんだもん」

 と海の王女は持ち前の負けん気の強さをのぞかせて言い切りました。メールの母は、困ったようにほほえみました。

「本当に、あなたはお父様にそっくりだこと。言い出したら絶対にきかないんだから……」

 そして、刺繍の布と針をわきに押しやると、娘を抱き寄せて、その緑の髪を優しくなでてやりました。

「メールはお父様が大好きなのよね。だから、ずっとそばにいたいのよね。でもね、戦いについていくことだけは、だめですよ。あなたは小さくて力もないのだから。お父様の足手まといになってしまうだけです。お父様はあなたが心配で、存分に戦えなくなってしまわれるわ」

 メールはますますすねた顔になると、ドレスを着た母の膝を拳で打ちました。

「あたいはもう強いよ! 昨日の槍の稽古でも、ギルマンがほめてくれたんだ! 筋がいい、って! ちゃんと父上と一緒に戦えるんだよ!」

「メールったら……」

 母はますます困った顔になって、娘を抱きしめました。

「お父様を困らせてはいけませんよ。お父様のお手伝いをしたいなら、もっともっと稽古をなさい。戦士として絶対相手に負けないくらいになるまでね。それには長い時間がかかりますよ」

 それを聞いてメールは顔を上げました。幼い顔には不似合いな、ちょっと大人びた笑いを浮かべます。

「母上は、あたいが剣の稽古をしたって反対しないんだよね。みんな、不思議がってたよ」

「まあ、みんなって誰のことかしら?」

 と森の姫も笑い声を上げると、声を潜めて娘にこっそり言いました。

「昔は私も戦いましたからね。花を使って、島の平和のために。私の父上と一緒にね」

 メールは青い瞳をきらっと輝かせました。

「父上の軍と戦ったんだろ? 島を占領しようとする軍勢を、森でさんざんな目にあわせたんだ」

「そうですよ。渦王の兵士は、海での戦いにはたけていても、森での戦いには全然慣れていませんでしたからね」

 と森の姫がおもしろそうに低い声で話し続けます。いたずらっぽく笑うその顔は、おてんばな小さな娘にそっくりでした。

 メールはそんな母を、不思議そうに見上げました。

「ねえ、それなのにどうして母上は父上と結婚したのさ? 父上は島を襲った敵の大将だったのに」

 すると、母親はまたほほえみました。今度は深く穏やかな、湖のような笑顔でした。

「あなたのお父様は立派な方ですよ……。それがわかったから、今では島の森の民はみんな、お父様を信頼しているの」

 けれども、その説明では幼い娘は納得できませんでした。しばらく口をとがらせて考え込んでいましたが、やがて、今度はこんなことを聞いてきました。

「母上。母上はさ、父上と一緒に戦いに行こうとは思わないの? 父上は東の大海から攻めてくる奴らを追い返しに行くんでしょう? 海の敵が相手なら、母上の力を思い知らせてやれるじゃないか」

「海の上に花はありませんよ」

 とメールの母は静かに言いました。

「それにね、メール、お父様は私に城にいてほしいと思っていらっしゃるの。お帰りを信じて待つことも、とても大事な役目なんですよ」

 小さな娘は、やっぱりそれも納得がいかなくて、ますます口をとがらせました。

「あたいは嫌だなぁ! ただ待っていたら、あたい、体が爆発しちゃうよ! あたいは絶対に一緒に戦いたい! うんと稽古をして、そして、いつか必ず父上に一緒に連れて行ってもらうんだ! 絶対に強くなってやるんだから!」

「まあ。本当に、この子ったら……」

 メールの母は半分困り顔、半分は面白がるような表情をすると、また、優しく娘を抱きしめました――。

 

 ふうっ、とメールはため息をつきました。もう十二才の現在のメールです。戦車は海上を走り続けています。その縁にもたれて海をのぞき込みながら、メールは昔のことを思い出していたのでした。

 朝日が行く手から照らしています。どこまでも青く広がる海原を、彼らを乗せた海流が黒っぽい流れになって走っています。

 思い出は走馬燈のようにめぐり、記憶の彼方から次々に押し寄せてきます。いろいろな場面の母の姿が思い浮かびます。メールはこんな母とのやりとりも思い出していました。

 やっぱり、母は城の奥の部屋に座っていました。

 病は静かに母をむしばみ、森の姫はすっかり細くなってしまった体を椅子の背にもたせかけて、それでも金の針を動かして繊細なレースを編み続けていました。

 メールはカーテンをくぐって母の前に立ちました。幼い頃にはドレスを着ていましたが、十一歳になるこの頃には、ドレスなどはもう見向きもせず、ぴったりした袖無しの上着に短いズボンという、少年のような格好をするようになっていました。母の足下に座りこむと、そのまま黙って自分の短剣を握りしめます。

「どうしたの、メール?」

 と母が尋ねました。その声も、昔よりずっと細く弱々しくなって、今にもどこかへ消えてしまいそうに聞こえました。

「父上はまた出かけていったよ」

 とメールは吐き出すように言いました。

「ほんとに、ちっとも城にじっとしてやしない。母上のことをほったらかしにしてさ。そんなに、海を統べる仕事って大変なのかい!」

 メールの母は編み物の針を動かしながら言いました。

「そうですよ。海はとてもとても広いのだもの……。王でなければ収められない争いごとも、しょっちゅう起こっていますからね」

 メールはまた口をつぐむと、握りしめた短剣をじっと見つめました。どうしても母に聞いてみたいことがありました。けれども、それを口にするのはためらわれる気がします……。

 すると、母がまた尋ねてきました。

「聞きたいことはなあに、メール?」

 メールはどきりとして、母を見上げました。母は、編み物の手を止めて、深い緑の目で娘を見つめていました。娘の心の奥底まですっかり見通してしまっているような目でした。

 メールは思わず目を伏せると、やがて、低い声で尋ねました。

「母上……母上は、青い貴婦人って、知ってる?」

 メールの母は驚いた顔をしましたが、傷ついたようにうつむいている娘を見ると、穏やかな笑顔に変わりました。

「もちろん知っていますよ。海王のお妃様で……お父様が昔愛した方ですよ」

 メールははじかれたように顔を上げました。そんな娘へ、森の姫は静かに話し続けました。

「お父様と海王はね、青い貴婦人と呼ばれる女性と出会って、同時に恋をなさったの。とても激しい恋だったと聞いているわ。でも、どんなに二人が深く想いを寄せても、青い貴婦人の愛はひとつしかありませんからね。どちらかがあきらめて、身を引くしかなかったの。青い貴婦人は海王の奥方になられて、あなたのお父様は西の大海に来られた。そして、私と出会ったのよ」 メールは思わず母をまじまじと見ました。健康的なバラ色に輝いていた頬は、今はもう抜けるように白くなり、病が母の顔に次第に不吉な影を落とすようになっていました。ふいにメールは得体の知れない不安にかられて、口走るように言いました。

「ねえ、母上……! 父上が青い貴婦人を取り返すために、何度も東の大海に軍勢を向かわせてるって話……本当なんだと思う!?」

 森の姫はまた静かにほほえみました。その話が出てくることは予想済みだったのです。

「誰があなたにそんな話を聞かせたのかしらね? 真実と面白い噂話がお皿に載っていたら、それを食べてどうなるかなんて考えもせずに、迷わず噂話の皿の方を選ぶような人たちね。――そんな人たちと、お父様と、あなたはどちらを信じたいの、メール?」

 メールは、はっとしました。静かな母の声に、とても鋭く大事なものを突きつけられたような気がしました。

 けれども、森の姫はあくまでも穏やかな声と笑顔で、娘に向かってこう続けました。

「私はお父様を信じていますよ。そして、お父様が無事でお帰りになるのを、このお城で待っているんです。いつも、いつまでもね――」

 そう言って幸せそうにほほえむ母を、メールは何も言えずに見つめてしまいました。本当に、夫である渦王を信じて揺らぐことのない母の姿でした。

 

 だけど、そんな母上にあいつは……と、メールは戦車に寄りかかりながら考えていました。戦車の下で起こる水しぶきが、白い線を海面に描いています。戦車は飛ぶように東へ、東へと進んでいます。

 思わずまたメールがため息をつくと、その目の前にぬっと片手が突き出されてきました。ゼンです。

「どうした? さっきからため息ばっかりついてるな」

 と言いながら、携帯食をメールに手渡します。

「そら、朝飯だ。食えよ」

「あ、う、うん……」

 メールは思わずどぎまぎしながらそれを受け取りました。

 昨夜の死の海でのやりとりの後も、ゼンはメールへの態度をまったく変えませんでした。何事もなかったように普通に接してくるので、メールは、あれはゼンにからかわれたのに違いないと考えることにしたのですが、それでも、ゼンに話しかけられると、なんとなく鼓動が早くなって、うまく話せない感じになってしまうのでした。

 ゼンの方は、相変わらずひょうひょうとしながら、携帯食の切り身を口に運んでいます。その向こう側にフルートの姿が見えないのにメールは気がつきました。

「フルートは?」

 ゼンは口をもぐもぐさせながら、無言で戦車の先の海を指さしました。そこでは、風の犬に変身したポチに乗ったフルートが、マグロやカジキたちに朝食を配っていました。そうしながら、かなり長い間、マグロと話をしています。ゼンたちが朝食を食べ終わっても、まだ戻ってきません。

「飯も食わないで何してるんだ、あいつ?」

 とゼンがとうとう立ち上がったところに、フルートが戻ってきました。戦車の引き具を外したマグロも一緒についてきたので、ゼンとメールは目を丸くしました。

「今、マグロくんから話を聞いていたんだけどね、なんだか、どうも気になるんだ。一緒に考えよう」

 ポチの背から戦車の中に飛び下りるなり、フルートは仲間たちにそう言いました――。

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