「勇者フルートの冒険」シリーズのタイトルロゴ

第3巻「謎の海の戦い」

前のページ

36.現実

 まるで、また悪夢の世界に入りこんでしまっているようでした。

 フルートの目の前で、すべての物事が音を失い、現実感を失って、ただ映像だけが動き回って過ぎていきます。

 黒い水蛇のエレボスが三匹のカツオを食い殺しました。赤い血が広がる水の中、食いちぎられた魚の尾や頭が海底に沈んでいきます。残りの二匹を必死で操って、ゼンが戦車を方向転換させます。メールが同じ戦車の中で頭を抱えてしゃがみ込み、悲鳴を上げ続けているのが見えます。

 と、またエレボスの鎌首が伸びました。今度は戦車をまともにかみます。戦車が揺れ、金属の車体の一部が食いきられて、これもまた海底に沈んでいきます。

 ゼンが腰からショートソードを抜きました。水中なので、得意の弓矢が使えないのです。矢筒には天空王から送られてきた光の矢も入っています。闇の敵には絶大な効果のある武器ですが、それを射ることもできません。

 また、エレボスがかみついてきました。ゼンの剣がひらめきます。けれども、エレボスは素早くそれをかわすと、横からゼンにかみついていきました。

 フルートは思わず息を飲みました。目の前の光景に、悪夢の光景が重なります。エレボスの牙がゼンの頭にかみついて、真っ赤な血が飛び散ります――。

 

 けれども、それは幻覚でした。一瞬早くゼンは頭を下げると、エレボスの牙をやり過ごし、ショートソードを繰り出しました。剣が蛇の体を切り裂き、黒い水が海の中に広がります。が、水でできた魔法の蛇は、次の瞬間にはまた元に戻って、大きな口の頭で振り返ってきました。

 二匹の魚に引かれる戦車は、牛車のように鈍重な動きでした。ゼンが必死で操っても、のろのろと向きを変えるのがやっとです。

 ゼンがうずくまっているメールに何かを言っていました。どなりつけるようにしてメールに取らせたのは、戦車の中に落ちていた長い銛でした。ショートソードを鞘に戻して、銛を手に構えます。

 メールが何かゼンに言っていました。ゼンがそれに答えます。メールが立ち上がってそれに言い返したとき、ゼンがふいにほほえみました。戦闘の場面に不似合いな、とても優しい笑顔です。そして、一言、何かを言うなり、メールの体を力一杯突き飛ばしました。細いメールの体は戦車から飛び出すと、海底に向かって落ちていきました。それを狙って、またエレボスが食いついてきます。

 フルートは思わず悲鳴を上げました。赤い血の色が広がり、メールの姿がエレボスの口の中に消えていきます――。

 

 けれども、やっぱりそれも幻でした。メールに向かって飛びかかるエレボスを狙って、ゼンが力任せに銛を投げたのです。銛はエレボスの左目に突き刺さって、真っ黒な水を海の中にまき散らしました。

 黒い水はすぐにまた集まって、元の蛇の目に戻りましたが、その間にメールは体勢を立て直し、必死に泳いでその場を離れ始めました。メールとエレボスの間をさえぎるように、ゼンの戦車が飛び込んできます。エレボスがゼンに向かって牙をむきます。

 フルートの足下からポチが戦車の外に飛び出していきました。吠えながら海底を走り、まっすぐエレボスに向かっていきます。水中ではポチは風の犬に変身することができません。それでも、子犬は戦うために、小さな体で闇の蛇へ駆け寄っていくのでした。

 ポチ! とフルートは叫びました。だめだ、戻れ! と言おうとしましたが、どうしても声になりません。まるですべてが本当の夢のように、音もなく、声もなく、ただただ移り過ぎていきます――。

 エレボスがゼンにかみついていきます。ゼンはとっさに戦車を急上昇させました。蛇の牙が車体の底を削ります。戦車はゼン一人だけになったので、前より機敏に動くようになっていました。

 駆けつけたポチが海底から銛を拾い上げました。口にくわえてゼンを見上げます。ゼンがそちらに戦車を走らせながら手を伸ばします。

 そこへまた、エレボスが襲いかかってきました。ゼンとポチに大きな口を開き、その鋭い牙で――

 いいえ、それもやっぱり幻です。ふたりは寸前でぱっとエレボスをかわし、エレボスが海底の岩をかみ砕いている間に、ゼンが銛ごとポチを戦車に拾い上げました。頭を上げて追ってくるエレボスの鼻先をかすめるようにして逃げ出します。

 

 フルートは自分の胸元をかきむしりました。胸が苦しくて息ができません。幾度も幾度も、目の前の光景に悪夢の場面が重なります。血のひらめきと仲間たちの悲鳴が今まさに現実になるような気がして、不安と恐怖で今にも心臓が止まりそうでした。

 やめろ! やめろ! とフルートは声にならない声で叫び続けていました。だめだ、やめろ! と。けれども、それを仲間たちに向かって言っているのか、蛇に向かって叫んでいるのか、自分でもよくわかりませんでした。

 蛇は執拗にゼンたちを追っていきます。長い鎌首がついに戦車に追いつき、後ろからまともにかみつきます。車体が大きく砕け、破片が飛び散って、海の底へ沈んでいきます。

 かろうじて残った戦車の前半分に、ゼンがしがみついていました。もう一方の手に銛とポチを抱いています。ポチがもがいて何かを言い、ゼンがそれに首を振っているのが見えます。そこへまた、黒い水蛇が襲いかかりました。今度はまともにふたりめがけてかみついていきます。

 ゼン! ポチ! とフルートは叫びました。蛇の牙とふたりの間をさえぎるものは、もう何もありません。今度こそ本当に、悪夢が現実に変わります――。

 

 ところが、そのとき、岩陰から黒い弾丸のようなものが飛び出してきました。それはすさまじい勢いでまっしぐらに突き進むと、今まさにゼンたちにかみつこうとしていた蛇の頭に激突しました。弾丸が頭を突き抜け、黒い水がばっとあたりに飛び散ります。

 その隙に蛇の牙を逃れた戦車に、黒い弾丸が追いついてきました。それは、大きな一匹のマグロでした。流線型の体で海の中を突き進み、ゼンたちの戦車に並びます。

「大丈夫ですか、勇者様!」

 とマグロが言う声が、フルートにもはっきり聞こえてきました。――それは、魔の森の泉に、一番最初にフルートたちを呼びに来た、もの言うマグロの声でした。

「おう、おまえか! 助かったぞ!」

 とゼンがそれに答える声が聞こえてきます。ワンワン、とポチが吠えました。

「どうしてここにいるんですか!?」

「勇者様たちをお迎えに。お探ししている間に黒い水蛇を見つけたので、後をつけていたのです」

 けれども、彼らが話している間にも、黒い水はまた寄り集まり、蛇の頭が復活していました。蛇がまた戦車にかみついてきます。ゼンはきわどいところで床を蹴り、ポチと一緒に戦車の外に飛び出しました。体の中ほどまで裂けた蛇の口の中に、戦車がカツオごと消えていきます――。

 フルートは思わずまた悲鳴を上げました。今は自分の声もはっきり聞こえます。それは、自分自身でも驚いてしまうほど、子供じみたすすり泣きの声でした。

 返す蛇の頭が、今度はゼンとポチをその口の中に飲み込みます。

 が、その幻影をまたマグロが突き破りました。蛇の目の前をひらめくように通り過ぎながら、ゼンとポチに叫びます。

「つかまってください!」

 ゼンがポチを抱えたままマグロの背びれにしがみつき、彼らは弾丸の勢いで蛇の前から逃げ出しました。

 黒い水蛇のエレボスが、後を追って首を伸ばします。海底をするすると黒い体が動いていきます。

「上から近づけ!」

 とゼンがどなり、マグロが方向を変えました。彼らのかたわらでエレボスの大きな口が、ばくりと水をかみます。それに真上から急降下しながら、ゼンは抱きかかえていたポチをいきなり横に放り出しました。

 

「キャン!」

 ポチが一声鳴いて海中を沈んでいきます。

 ゼンはエレボスに迫りながら、手に構えた銛を頭にたたき込みました。ばっと頭がまた黒い水になって霧散します。

 その中を突き抜けながら、ゼンがまた叫びました。

「上だ!」

 マグロが海底すれすれで急転回します。ゼンは背中の矢筒に手を伸ばしました。光の矢を抜き取ります。それをしっかり構えると、復活しかけているエレボスの頭に、下から槍のように突き刺します。

 ばっと黒い水が霧散して、エレボスの顎の一部が消えました。すさまじい蛇の悲鳴が海の中に響き渡ります。闇の生き物は光の武器の攻撃を食らうと消滅してしまうのです。

 けれども、エレボスは巨大すぎました。光の矢が開けた穴に、みるみるうちに周りから黒い水が押し寄せ、跡形もなく消えてしまいます。蛇の頭がまた復活します。

「もう一度だ!」

 とゼンが叫び、マグロがまた向きを変えます。

 ところが、そこへエレボスが襲いかかってきました。目に怒りをひらめかせながら、猛烈な勢いで食らいついてきます。牙が魚の横腹をかみ裂きます。マグロは激しく体をふるわせると、飛びのくように蛇から離れました。そのまま、血を噴き出しながら海に沈んでいきます――

「マグロ!」

 ゼンがその背びれにしがみつきながら叫んでいました。幻ではありません。海中に広がったマグロの血が、蛇の起こした水の流れに乗って、フルートの元にも流れてきました。鉄のような、金臭い血の匂いが漂います……

「ちっくしょう!」

 ゼンが必死で光の矢を構えました。エレボスが口を開けて食らいついていきます。十メートルを越す巨大な口の前には、ゼンもマグロも光の矢も、あまりにもちっぽけで無力に見えます――

 

 そのとたん、フルートが動きました。

 策などなにもありません。ただ、ゼンとマグロが殺される! と思った瞬間、体が勝手に動き出して、戦車と共に岩陰を飛び出していました。自分でも信じられないような大声が、咽の奥からほとばしってきます。蛇やゼンたちが、思わずぎょっとして振り向くほどの声でした。

 フルートは戦車を蛇の真ん前に突進させると、背中の炎の剣を抜きました。力まかせに蛇の首をなぎ払います。

 ジュッと水が一瞬で蒸発する音がして、猛烈な泡がわき起こります。海の中の視界が一瞬白く濁り、何も見えなくなります。

 けれども、その中でフルートはエレボスを見つめ続けていました。切られた首から黒い水が押し寄せ、また頭がつながっていきます。

 それが完全に復活する前に、フルートは戦車を蛇の頭上に走らせました。炎の剣を構えたまま戦車から飛び出し、エレボスの真上に飛び下りると、頭にその刃を突き立てます。

 蛇がまた悲鳴を上げ、激しく頭を振り回しました。フルートの小柄な体が今にも振り飛ばされそうになります。フルートは剣の柄に必死でしがみつき、蛇を突き刺し続けました。

 傷ついたマグロとゼンが海底に落ちました。ゼンが信じられない顔で戦いを見上げます。

「フルート……」

「ワンワン、ゼン!」

 ポチも駆け寄ってきて、一緒に見上げました。

 フルートは炎の剣でエレボスを突き刺しています。どんなに蛇が暴れても、絶対にその柄を放しません。

 すると、エレボスの体の中に白い泡がわき起こり始めました。体中が小さな泡でいっぱいになり、黒い体が灰色ににごり始めます。その泡が次第に大きく激しく動き始めます。渦王の水蛇ハイドラと戦った時と同じように、エレボスも、炎の剣の熱で体が沸騰し始めているのでした。

 エレボスが三度悲鳴を上げ、狂ったように頭を振り回しました。その体のあちこちから、突き破るように大きな泡が飛び出し、海の上へ向かって昇っていきます。

 ついに、エレボスが全身を激しく震わせ、頭を海底の岩にたたきつけました。反動で炎の剣が抜け、フルートが放り出されます。海底に向かって落ちていくフルートは無防備です。

「危ない!」

 ゼンとポチは思わず叫びました。

 けれども、エレボスは煮えたぎった体をくねらせると、そのまま、猛烈な勢いでその場から離れていきました。――逃げ出したのです。

 フルートが炎の剣を握ったまま海底に落ちました。細かい砂と泥が、煙のように舞い上がります。

「フルート!」

 ゼンとポチは声を上げると、フルートに向かって駆け寄っていきました。

素材提供素材サイト「スターダスト」へのリンク