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第3巻「謎の海の戦い」

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第9章 海底の戦い

35.岩陰

 岩山の陰から動き出した小さな戦車に、ゼンが飛び込みました。

 仰天するメールの細い体を片腕で抱くと、手でその口をふさぎ、もう一方の手で戦車の手綱をつかみます。そのまま思い切り手綱を引くと、五匹のカツオたちは驚いて大きく向きを変えました。車体が傾き、岩にぶつかりそうになります。

 ゼンはとっさに片足を戦車から突き出すと、迫ってくる岩を蹴って突き放しました。車体はかろうじて激突をまぬがれると、大揺れに揺れながら岩山から離れていきました。ゼンとメールが戦車の中に倒れます。

 一方、ゼンが飛び出していったフルートの戦車も、岩山に突っ込みそうになっていました。フルートは車体にしがみついて震えるばかりで、戦車を御することができません。目の前に岩山が迫ってきます。

 すると、ポチが飛び上がって、水中にひらめく手綱をくわえました。小さな体をいっぱいにはずませて、力の限り手綱をひっぱります。カジキたちも岩山の直前で向きを変え、戦車は大きくUターンしました。ポチとフルートは振り飛ばされて、車体の壁にたたきつけられました。

 

「あ……」

 ようやくフルートが我に返りました。戦車の中に倒れたまま、信じられないように自分の手を見つめます。何もできませんでした。黒い水蛇の姿を目にし、あれはエレボスだとポチが言う声を聞いたとたん、頭の中が恐怖でいっぱいになって、動くことも考えることもできなくなってしまったのです。見つめる両手は、自分でも驚くほど大きく震えていました。

「フルート、大丈夫ですか……?」

 とポチが立ち上がりましたが、そのとたん、赤いものが水中にぱっと広がりました。ポチは車体にたたきつけられた時に怪我をしたのでした。横腹のあたりから赤い血が海中にあふれ出しています。

 それを見たとたん、フルートはやっと本当に正気に戻りました。あわてて首から金の石のペンダントを外すと、石をポチに押し当てます。みるみるうちに傷は治って消えていきました。

 そこへ、メールを抱きかかえたまま、ゼンが戦車を寄せてきました。

「大丈夫か?」

 とささやくような声で心配そうに尋ねます。フルートは青い顔のままうなずきました。

「うん……ごめん……」

 エレボスの姿にあれほど恐怖を感じてしまったことが、自分でも信じられませんでした。ナイトメアが繰り返し見せてきた悪夢は、フルート自身も気がつかないうちに、深く深くフルートの心の中に根を張り、闇の蔓を伸ばして、フルートの心をがんじがらめにしていたのです。正気に戻った今でも、体や腕が小刻みに震え続けています。

 ゼンは岩山の向こうの様子をうかがいました。黒い水蛇がこちらに気づいた気配はありません。ゼンは仲間たちにささやきました。

「ここはヤツに近すぎる。離れよう」

 そこで、カツオとカジキが引く二台の戦車は、静かにその場から離れていきました。フルートは、絶対に後ろを見ないようにしながら手綱を握っていました。振り返ってエレボスの姿を見てしまったら、また身動きがとれなくなりそうでした。

 

 ようやく安全と思われる場所まで来ると、一行は小さな岩陰に戦車を寄せて、ほっと安堵の息をつきました。フルートが青ざめた顔のまま戦車の中に座りこみます。

 すると、ゼンが突然、いてっ! と悲鳴を上げました。メールが自分の口をふさいでいる手にかみついたのです。

「いつまでやってんのさ、まったく!」

 とゼンの腕をふりほどき、青い瞳でにらみつけてきます。

 ゼンは血がにじんだ手のひらを振りながらどなり返しました。

「だからって、かみつくことはないだろうが! ったく、命の恩人になんてことしやがる!」

「あたいは助けてなんて言った覚えはないよ!」

「俺たちが駆けつけなかったら、今頃おまえはエレボスの胃袋の中だぞ! あいつはただの水蛇じゃない。ドラゴンが変身してるんだ。俺たちだって、自分だけじゃとても立ち向かえない。そいつに一人でかかっていこうとするなんて、おまえは馬鹿か!」

 とたんに、メールは青い瞳をかっと燃え上がらせました。

「あたいが弱いって言うのかい!? あたいだって戦えるんだよ! 足手まといになんてなるもんか!」

 とゼンの手から戦車の手綱をもぎ取ろうとします。またエレボスのところへ向かっていこうというのです。

 ゼンはそれを突き飛ばしました。女の子相手に、まったく容赦ありません。頭の上からどなりつけます。

「いい加減にしろ! おまえが弱いなんて一言も言ってないだろうが!? エレボスが強いんだ! 作戦を立てなかったら、絶対に勝てない! そんなことも考えずに勝手な行動をとろうとするヤツに、一緒に戦う権利なんかないぞ! 『最大の敵は勝手な仲間』――俺たち猟師のことわざだ。覚えとけ!」

 すると、メールは憎らしそうにゼンを見上げて歯ぎしりをしました。

「みんな、いつだってそうなんだ……! あたいが女だから! 力がないから! 海の民じゃないから! だから戦えないって決めつけてるんだ! あたいは渦王の娘さ! あたいの力はこんなもんじゃないんだよ!」

 それを聞いて、ゼンは表情を変えました。怒っていた顔から意外そうな顔に、それから、まじめな顔つきになって、じっとメールを見つめます。

「おまえ……それでいつもそんなに無理してたのか? 海の民だと証明したくて。そんなに渦王の娘だと認めてほしかったのか……?」

 メールはたちまち顔を真っ赤にしました。立ち上がって、炎のようにゼンにかみつきます。

「馬鹿言うんじゃないよ! あたいは悔しいだけなんだよ! みんながあたいのことを馬鹿にするから、みんなにあたいの力を見せつけてやりたいのさ!」

 けれども、ゼンは何も言わずにメールを見つめるだけです。その目に深い同情の色を見て、メールは思わずまた、かっとなりました。

「なんだい! あんたに何がわかるってのさ!」

 とわめくなり、ゼンに平手打ちを食らわせようとします。

 その手をゼンは素早く受け止めました。軽くつかんだだけなのに、メールが渾身の力をこめても、まったく手が動かせなくなります。メールが手をふりほどこうと必死になっていると、ゼンが短く答えました。

「わかるさ」

 

 わかるって、何がさ!? とメールがまたキャンキャン吠えると、隣の戦車からフルートが立ち上がりました。まだ青い顔をしていますが、それでも、はっきりした声でメールに話しかけます。

「ゼンも純粋なドワーフじゃないんだよ……。ドワーフと人間の両方の血を引いているんだ」

 メールが驚いたような顔になりました。ゼンをまじまじと見つめます。

 ゼンは笑うように口元をゆがめて見せました。

「タージって呼ぶんだ、人間の血が混じったドワーフをな。俺たちのことばで『白いウジ虫』って意味だ……。小さい頃から、ずいぶん呼ばれたぜ。おまえなんかドワーフじゃない、ってセリフも耳にタコができるくらい聞かされた。そのたびに、えらく悔しかったぜ。俺だってドワーフだ、誰よりもドワーフらしいドワーフなんだ、って、ずっと考えてた――」

 ゼンは思い出すような遠い目になりました。

「ぼくから見れば、君はドワーフ以外の何者でもないよ」

 とフルートが言いました。

「確かにドワーフにしては背が高いのかもしれないけど、力は強いし、勇敢だしね。メールだってそうさ。こうして海の底にいても平気で動き回っているのを見れば、やっぱり海の民の仲間なんだな、とつくづく思うよ。性格もお父さんによく似てるし」

「おう、そっくりだな。二人ともえらく短気だ」

 とゼンが笑いながらメールの手を放しましたが、とたんに、メールにぴしゃりと頬をたたかれて、目を白黒させました。

「短気で悪かったね! あたいは、父上に似てるって言われるのが何より嫌いなんだよ!」

「なんで? 確かに怒りっぽいかもしれないが、いい親父さんじゃないか」

 とゼンが言います。海の王も、ゼンにかかればただの「親父」です。

 メールはそっぽを向くと、また歯ぎしりをしました。

「何が……何が、いい父親さ! 偉大な海の王が聞いてあきれる! あんなヤツ、ただの身勝手な裏切り者じゃないか!」

 森の中でシルヴァを名乗っていた時とそっくりの様子で、メールが言い捨てます。フルートとゼンは、思わず顔を見合わせてしまいました。

「だから、どうしてそうなるんだ? 絶対に誤解だと思うぞ、それ」

 とゼンが言うと、フルートもうなずきました。

「渦王は君のことをすごく心配してたよ。戦いに連れて行こうとしなかったのも、君を危ない目にあわせたくないからなんだ。どうして、それをわかろうとしないのさ?」

 けれども、メールはそっぽを向き続けるだけです。そのかたくなな横顔に、ふと、フルートは気がつきました。

「他にも何かあるの? 人魚たちの噂話だけでなく、お父さんのことを信じられなくなるような、何かが――」

 とたんに、メールがフルートを見ました。はっきりと顔色が変わっています。どうやら図星のようでした。

 それを見て、ゼンは目を丸くしました。いったい何があるっていうんだ? と聞こうとします。

 

 ところが、その時ポチがいきなり後ろを振り向くと、ワンワンワン……! と激しく吠え出しました。

「フルート、ゼン! 来ます! エレボスの匂いだ!」

 子どもたちはぎょっとしました。思わず振り返った目に、岩陰からするすると伸びてくる黒い影が飛び込んできました。闇の色の水蛇です。

 愕然とする少年たちの目の前で、突然、蛇が口を開けました。シャーッと音がして、鋭い牙がむき出しになります。すると、次の瞬間、その口がさらに大きく裂け、体の中ほどまでが口になりました。そこにも、白くとがった牙がずらりと並んでいます。その異様な光景にメールが思わず悲鳴を上げました。

「ち、確かにこいつはエレボスだ」

 とゼンはつぶやき、戦車の手綱を握って、矢のような勢いで岩陰を飛び出しました。

 ところが、もう一台の戦車は動きません。ポチがフルートに飛びついて、必死で吠えていました。

「ワンワン! フルート、フルート! 逃げないと……!!」

 フルートは、突然目の前に現れたエレボスにまた呪縛をかけられて、蒼白な顔で立ちすくんだまま、動けなくなっていたのでした。

「フルート! フルート!」

 ポチは泣き声でした。

「フルート!!」

 とゼンが戦車を返して戻ってきました。黒い水蛇は、フルートの戦車のすぐ後ろに迫っています。

 すると、水蛇が動きました。目にもとまらない速さで鎌首をひらめかせると、フルートではなく、海中を迫ってくるゼンの戦車に向かってかみついていきます。

 戦車を引くカツオが食いちぎられ、真っ赤な血が海の中に飛び散りました――。

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