渦王の島は大騒ぎになりました。
城で、浜辺で、海中で、海底で、数え切れないほどの兵士たちが出撃の準備をしています。青い髪の海の民はもちろんのこと、半魚人や怪物のような姿をした海の一族、果ては魚や海鳥といった生き物たちまで、それぞれに合わせた防具を身につけ、武器の点検に余念がありません。城も島の周りの海も、武具がたてる騒々しい音でいっぱいでした。
その落ち着かない雰囲気の中を、フルートとゼンとポチは、所在なくうろついていました。渦王たちと一緒に東の大海へ向かうつもりでいましたが、もともと彼らは武器も防具も身につけているので、特に準備をするようなことは何もなかったのです。
城にいても、ひっきりなしに誰かが通路を通り、あわただしく部屋を出入りします。とうとう城にいるのも邪魔になるような気がして、フルートたちは城の外へ抜け出していきました。
城の中庭は濃い緑でおおわれています。その中に張り巡らされた水路のほとりで、ゼンが言いました。
「ここから海に出ようぜ。森の中を歩いていくより、ずっと早く海辺に出られるんだ」
と、先に立って水路の中に飛び込んでいきます。ポチもためらうことなく水にダイビングします。フルートはあわてて後を追いかけました。
水に入ると、体がまっすぐ沈んでいきます。
砂を敷き詰めた水路の底にたどりつくと、ポチが言いました。
「ワン、本当に体が浮かないんですよね。なんだか慣れないなぁ」
彼らには泉の長老の魔法がかけられているので、水の中での感じが普段と違うのでした。
「たぶん、水の抵抗を少なくする魔法なんだよね。だから、水の中でも楽に動けるんだけど、その分、水に支えてもらえなくて、体が浮かないんだ。空気の中でぼくたちが泳げないのと同じなんだよ」
とフルートが言うと、ゼンがにやりとしました。
「でも、魔法がかかってなくても、おまえは泳げないんだよな」
フルートは思わず顔を赤らめました。
「それはゼンだって同じじゃないか」
「長距離は自信がない、と言っただけだ。少しは泳げるぞ。山の川や淵で水浴びはするからな」
ゼンにやりこめられて、フルートはちょっとふくれっ面になりました。本当に、もうかなり元気でした。
水路の底を歩いていくと、足の下で白い砂が小さく舞い上がります。天井のように見える水面から日の光が差し込んで、水路の中は明るく輝いています。石の壁には貝やヒトデがいくつも取りついて動き回り、水の中をたくさんの魚や海の生き物が泳いでいきます。
すいっと泳ぎ寄ってきた魚が話しかけてきました。
「ゼン様、おはようございます。どこもかしこも、本当に賑やかですね」
「明日の朝、渦王が出撃するからな。おまえは行かないのか?」
とゼンが答えます。
「私は非力ですので、戦いのお役には立てません。皆様の出発の様子を見送らせていただきます。ゼン様も行かれるのですね?」
「おう、当たり前だ」
「ご武運をお祈りしております」
そう言って魚はゼンから離れていきました。
その後も何匹もの海の生き物がゼンに話しかけ、ゼンが親しそうに答えているのを見て、フルートは思わず感心しました。
「人気あるね、ゼン」
「ああ、なんか、ここの奴らとはすごく相性がいいんだ。俺が水のサファイヤの防具をつけてるせいもあるんだろうけど、気軽に話しかけてくるからな。人間の城や都と違って堅苦しいところがないから、ものすごく居心地いいぜ」
山と海。景色や様子は違っても、同じ自然の中で暮らす者同士、ゼンと海の生き物たちには相通じるものがあるようでした。
やがて、水路の横のトンネルに入ると、あたりはぐっと暗くなりました。光る藻やヒトデだけが道しるべになります。そこもくぐり抜けると、また明るい場所に出ました。自然の岩でできた壁に、上に向かっていくつもの手がかりが作られています。
「上がるぞ」
とゼンが先に岩壁をよじ上り始めました。その後をポチを肩に乗せてフルートが続きます。……水の魔法は彼らを守ってくれますが、浮力まで奪ってしまっているので、水面に向かって泳いで行くということができなかったのです。
水から上がると、そこはもう、海岸に近い岩場でした。くぼみに水がたまるように、今、フルートたちが出てきた泉があります。フルートはまた感心してしまいました。
「本当にもう海に着いた!」
「水路の中を歩いた方が絶対に近いんだ。距離感を考えると変なんだけどな。まあ、魔法の通路だから、こんなもんなんだろう」
理屈で納得するフルートと違って、ゼンは直感派です。あっさりそう言うと歩き出しました。フルートとポチが、それについていきます。
岩場には見上げるような大岩がいくつもあって、岩の壁を作っていました。一カ所だけ岩の間に隙間があって、そこから海が見えています。風が波の音を運んできます。
すると、ふいにゼンが立ち止まりました。
「な、なに……?」
危なくぶつかりそうになったフルートたちに、ゼンは、シッと指を口に当てて見せました。
「メールだ。誰かと話してる」
そっと岩陰からのぞくと、海岸の岩の上にメールが座っているのが見えました。渦王に海底の岩屋から出してもらえたようです。今はもう緑と茶色の森の服ではなく、色とりどりの袖なしのシャツに、ウロコのような模様の短いズボンをはいて、長い緑の髪を後ろでひとつに束ねています。その姿は、とてもほっそりしてはいますが、どう見ても女の子そのものでした。
メールは海に向かって何かを言っていました。海の中からそれに答える声がします。笑いさざめくような女性の声です。そちらを見て、フルートたちはまたびっくりしました。黄金の髪をした裸の娘たちが海の中に何人もいたのです。とても美しい顔をしていますが、その体の下半分は人の足ではなく、ウロコにおおわれた魚の尾をしていました。
「人魚だ……」
とポチがつぶやきました。
「あっちにお行きよ、うるさいね!」
とメールが人魚たちに言っていました。怒っている声です。
美しい娘の姿の人魚たちが、また笑いさざめくような声を立てました。
「そんなに怒るもんじゃなくてよ、渦王のお姫様」
「そうよ、怒りん坊の鬼姫様」
「怒ってばかりじゃ美人が台無し」
「だからもうすぐ十三にもなるのに、恋人のひとりもいないのよね」
と、はやしたてるように口々に言います。人魚の声は音楽のように美しいのですが、とても意地の悪い響きがありました。
「そんなの、関係ないだろ!」
とメールがまた言い返します。人魚たちはいっせいに笑うと、海の中に潜ったり浮かんだりを繰り返しました。黄金の髪と尾のウロコが日の光にきらめき、宙に飛んだしぶきがあたり一面で輝いて、うっとりするほど美しい眺めです。
「そう言えば、鬼姫様にも婚約者候補が現れたのよね」
と人魚たちがまたしゃべり始めました。
「そうそう。ドワーフの男と、人間の男」
「どっちもチビよ。かっこわるいの」
「あらぁ、残念ねぇ、お姫様」
人魚たちがまたいっせいに笑います。メールが、ふん、と頭をそらしました。
「あんな奴ら、こっちからお断りだよ! あたいは結婚なんてするもんか!」
「そうよねぇ。姫様は全然女らしくないもの、結婚なんてできっこないわ」
「男の方で逃げていくわよ」
「そうそう。姫様をお嫁さんにしようなんて物好き、いるわけないわ」
「いっそ男に生まれてくれば良かったわねぇ、姫様」
とたんに、メールの目つきが鋭くなりました。
「それ以上、何か言ってごらん。ただじゃすまさないよ」
と渦王によく似た、低い雷のような言い方をします。けれども、それでも人魚たちはからかうのをやめません。
「怒っても平気よ、鬼姫様」
「あなたは海を早く泳げないんですもの」
「姫様が追いかけてきても、あたしたちはすぐに逃げてしまうわ」
「この岩場には、姫様に使える花は咲いてないしね」
「できそこないの、海のお姫様。思う存分怒るといいわ」
そして、人魚たちはまたきゃあきゃあと声を上げて笑いさざめきました。
メールは人魚をにらみつけたまま、奥歯をぎりりと鳴らしました。青い怒りの炎が目の中に燃えています。
けれども、岩の陰でもう一人、今にも爆発しそうになっている者がいました。ゼンです。顔を真っ赤に染めながらつぶやきます。
「いったいなんなんだ、あいつら……?」
「ワン。人魚はもともと海の魔物の仲間ですからね。綺麗だけど、ものすごく意地悪なんです」
とポチが答えました。
フルートは何も言いませんでしたが、やはり厳しい顔で人魚とメールを見ていました。フルート自身が昔はいじめられっ子だったので、あんなふうに大勢にからかわれたことが何度もあります。メールの胸の内は手に取るようにわかる気がしました。
人魚たちがまた意地の悪いおしゃべりを始めました。
「渦王も大変よね。こんな鬼姫にお婿さんを見つけなくちゃいけないんだもの」
「だから、えり好みしてられないってわけよ」
「ああ、それでチビでもドワーフでも、なんでもいいってわけ」
ゼンの顔がこれ以上ないくらい赤くなりました。握りしめた拳を怒りにふるわせると、岩陰から飛び出していこうとします。
が、それをフルートが押さえました。こんな人魚の話が聞こえてきたからです。
「でも、渦王は東の大海に行くんでしょう? 海の王妃に呼ばれて」
「まあ、それじゃ、いよいよ長年の恋が成就するのね!」
「残念でした、渦王は海王を助け出しに行くのよ。わざわざ恋敵を助け出しに行かなくてもいいのにね」
「そうそう。そのまま海の王妃をさらって来ちゃえばいいのよ」
「きゃぁ、それって素敵!」
「ロマンチックね!」
人魚たちが黄色い歓声を上げて騒ぎ立てます。
フルートたちは岩陰で思わず顔を見合わせました――。