渦王の島に夜明けが来ました。
夜中吹き荒れた嵐も、今はすっかり止み、雨と風にたたかれた森や城を、水平線から昇ってくる朝日が照らし出します。
フルートは誰もいなくなったコロシアムの一番上の座席に座って、日の出を眺めていました。一晩中嵐の中にいて全身ずぶぬれでしたが、気にする様子もなく、じっと森の向こうの海と水平線を見つめています。その足下には、金の兜とダイヤモンドの盾が無造作に転がっていました。
太陽が水平線の上にすっかり姿を現してきます――
コロシアムにゼンとポチがやってきました。こちらも、嵐に打たれてびしょぬれです。観客席の一番上に座るフルートを見つけると顔を見合わせ、やがて、ゼン一人がフルートのところまで上ってきました。
「よう……」
と声をかけますが、フルートは水平線を見つめたまま振り向きません。横顔も何の表情も浮かべません。ゼンはちょっと困ったような顔になりました。
「その、さ……おまえ、本当に気がついてなかったのか……? あいつが女の子だって」
「全然気がつかなかったよ」
とフルートが答えました。堅いそっけない声です。ゼンは思わず首をすくめましたが、それでもめげずに続けました。
「でもよ、普通は気がつかないか? あいつは俺にも同じ格好で現れたけど、俺でさえ一発でわかったんだぞ。あんなに綺麗な顔をした男がいるなんて――」
と言いかけて、ゼンは気がついて苦笑いしました。
「いるか。おまえ、そんな綺麗な顔をしているのに男だもんな」
じろり、とフルートがゼンをにらみました。その表情は、お世辞にも女の子のようには見えません。ゼンはまた首をすくめました。
二人の間に沈黙が流れました。
やがて口を開いたのはフルートの方でした。水平線を眺めながら尋ねます。
「どうやって無事だったのさ。人魚の涙を吐き出しちゃっていたんだろう?」
ゼンは驚いたように目を見張りました。
「知ってたのか?」
フルートは海を見たまま返事をしません。ゼンはまた、困ったように頭をかきました。ようやく自分がフルートをひどく心配させていたことに気がついたのです。
「ええと……ノームのじいさんが強化してくれたこの青い胸当てのおかげなんだ」
とゼンは話し始めました。
「覚えてるか? カルティーナの都でこれを強化してもらった時、ノームのじいさんが言っていたんだよ。『今回の敵には役に立たないかもしれないが、ちょっとしたおまけも付けておいた』ってな。そのおまけのおかげで助かったのさ」
フルートがゼンを見ました。何も言いませんが、それは? と顔が尋ねています。
「この胸当てや盾は魔法のサファイヤでメッキされてるんだ。俺の山では採れない石だから知らなかったんだが、このサファイヤは水と仲がいいんだな。別名が水のサファイヤとか言うらしい。こいつを身につけていると、水には絶対溺れないんだとさ――」
フルートはまた海の方を向いてしまいましたが、ゼンはかまわず話し続けました。
「水蛇のハイドラは、本当は勇者のおまえを連れに砂浜に現れたんだ。渦王の命令でな。ところが、水の生き物のヤツには、水のサファイヤの防具を着た俺の方が、おまえより格が上に見えたらしい。俺をおまえと勘違いして、この島まで連れてきたのさ。事情がわかって、渦王は平謝りさ……。なあフルート、今まで聞いてきた話と事情はずいぶん違うみたいだぞ。渦王はマグロたちが言っていたような恐ろしい王じゃない。島の連中にも西の大海の連中にもすごく信頼されている、立派な王様だ。しかも偉ぶらないしな。渦王自身が言っていたとおり、東の大海に呪いをかけたり、海王をさらったりするわけがないんだ」
海が朝日を浴びて青く輝き始めていました。彼らの頭上を海鳥が一声鳴きながら飛びすぎて行きます。目の前の森は、目覚めた小鳥たちのさえずりでいっぱいになっていました。
やがて、また口を開いたのはフルートでした。相変わらずゼンの方を見ようともせずに尋ねます。
「勝ち残った方がメールと結婚できるとかいう、あれは? どういうことだったのさ?」
とたんにゼンは顔を赤くしました。
「あれは、そのぉ……つまりだな、この島の女は十四歳から結婚できるんだ。婚約は十三歳からできる。メールはあと二か月で十三歳になるんで、渦王が心配して、いい結婚相手を見つけようとしているわけだ。渦王の条件ってのが、他のどの男よりも強い男であること。で、王の抱える連中の中でも特に強いヤツらと戦って勝ち抜いたヤツがメールと婚約して、あいつが十四になったら結婚できるってわけだ。俺もこの島に連れてこられた時、おまえと同じ相手と戦って勝ち抜いたんだよ。おまえ同様、そんな約束になってるなんて全然知らなかったけどな」
「それで、渦王に言われて、ぼくと君のどっちが強いか、最後の勝負に臨んだわけだ」
フルートの声はこれ以上ないくらい冷たく響きました。
「そんなことをぼくが考えるなんて、本当に思ったのかい? ぼくらはまだ十三歳だぞ。結婚なんて考える歳じゃない。――それとも、ゼン、君が渦王の跡継ぎになりたかったのか?」
「馬鹿言え!」
たちまちゼンは声を荒げました。
「俺は北の峰のドワーフだぞ! 海なんか俺には無縁だ! ただ……ただ……」
ふいにゼンの声が低くなり、その目がとまどうように宙を泳ぎました。
「その……かっとなっちまったのさ。……おまえがメールと一緒にいたもんだから……」
ゼンのことばの最後はつぶやきのようで、ほとんど聞き取ることができませんでした。
フルートが聞き返すようにゼンを見ました。その顔から殴られた傷が消えているのを見て、ゼンは苦笑いをしました。
「金の石が治したんだな。悪かったな、ぶん殴って。あれでも手加減はしたんだが」
それはフルートにもわかっていました。ゼンに本気で殴られたら、それこそ命さえ落としかねないのです。
ゼンの方は、フルートに殴られた痕が鼻の下あたりに残っていて、唇が腫れ上がっていました。
「そっちは?」
とフルートに聞かれて、ゼンはまた苦笑いしました。
「蚊に刺されたほどでもねえよ――と言いたいところだが、実はちぃと効いたかな。油断してたからな。まさかおまえが殴ってくるとは思わなかったぜ」
フルートはまた目をそらしましたが、首から金の石を外すと、それを黙ってゼンに押し当てました。あっという間にゼンの顔から腫れがひいて、傷が治っていきます。
「おう……ありがとよ」
ゼンは面食らったように礼を言いました。
また沈黙になりました。
島の中は鳥のさえずりでいっぱいです。太陽の光が強まるにつれて、いたるところからかげろうが立ち上ってきます。雨に濡れたものが太陽の熱で乾き始めたのです。
ポチがゆっくりとコロシアムの観客席を上ってきました。海を見続けるフルートに近づいていくと、そっと、その体を押しつけます。
「フルート、すみません……結局、本当に心配をかけちゃいましたね……」
フルートがどれほど仲間を失うことを恐れていたか、ポチは知っていました。フルートがどんな気持ちでここまで駆けつけてきたのか、ポチには容易に想像がついたのです。
すると、フルートの手がポチの青い首輪に触れました。これは何? と聞かれている気がして、ポチは答えました。
「ワン、海藻でできた首輪なんですよ。ぼくが風の首輪をなくしてしょげてたら、海の乙女たちがつけてくれたんです」
すると、フルートは背中からリュックサックを下ろして、中から銀の首輪を取り出しました。
「風の首輪!」
ポチは尻尾と耳をピンと立てて目を輝かせました。
「ワン、良かった! ぼく、花に襲われた時になくしちゃったと思ったんです。フルート、早く! ぼくに首輪をつけてください!」
そこで、フルートはポチの青い首輪を外して、銀糸を編んだような風の首輪を元通りつけてやりました。緑の宝石が朝日の中できらめきます。
すると、ぽつり、と冷たいものがポチの上に降りかかりました。
頭上には雨を降らせるような雲も、嵐の名残のしずくを散らすような梢もありません。
思わず上を見たポチは、はっとしました。フルートが、うつむいたまま泣いていたのです。唇をかんで声を殺して――。後から後からあふれ出す涙が、雨のようにポチの上に降りかかってきました。
「フルート……」
ポチは何も言えなくなりました。
ゼンも、フルートが泣いているのに気がつきました。やはり、何も言えなくなって、弱り切って頭をかきます。
すると、突然フルートがポチを抱き上げました。空いている方の腕を伸ばしてゼンの首にしがみつくと、そのまま、ふたりをぎゅっと抱きしめます。
面食らうふたりに、フルートが泣きながら言いました。
「良かった、ふたりとも……無事で、本当に良かった……」
ゼンもポチも、ふいに胸がいっぱいになりました。フルートはふたりを抱きしめたまま泣き続けています。
ゼンが乱暴に言いました。
「この……お人好し! なんでそこで嬉し泣きするんだよ! 普通なら怒ってどなりつけるところだろう?」
けれども、そう言っているゼンの目にも、大粒の涙が浮かんでいるのでした。
「フルート……フルート!」
ポチが懸命にフルートの頬をなめ始めます。
青空から照らしてくる朝日の中、二人と一匹の少年たちは堅く抱き合い、再会を喜び合いました。