渦王の島に上陸して砂浜に立つと、目の前に濃い緑色の森が広がっていました。まだ早朝だというのに、日差しが肌を刺すように照りつけてきます。フルートは魔法の鎧を着ているので感じませんでしたが、あたりはすでにかなりの暑さになっていました。
森の中から、何かがひっきりなしに鳴く賑やかな声が響いてきます。フルートは首をひねりました。
「鳥かな……?」
「ワン、虫の声みたいですよ。セミじゃないかしら」
とポチが答えました。
森の中に踏みこんでいくと、いっそう虫の声が大きくなって、梢の上から雨のように降りそそいできました。やっぱり、フルートたちが住む場所のセミとは鳴き声が違います。周りに生える木や草も見慣れない姿形をしていて、ここは遠い異国の島なのだと思い知らされるようでした。
ポチが森の奥を見透かしながら言いました。
「ワン。思ったより深い森ですね……。暗くはないけど、ここを通っていくのは大変でしょうね。フルート、森の外に出ましょう。ぼくが風の犬になります。空から渦王の城を探しましょう」
ところが、ふたりが浜辺に引き返そうとした時、森の奥から大きな音が聞こえてきました。ホーイ、クイクイクイ……! と響き渡ります。それこそ鳥の鳴き声のようでしたが、ポチは耳をピンと立てました。
「人の声ですよ、フルート」
フルートも緊張して身構えました。いつでも剣を抜けるように背中の柄を握りながら、あたりを見回します。
けれども、声はそれ一回きりで、あとはもう聞こえてきませんでした。フルートとポチはうなずきあうと、用心しながら森の奥に進んで行きました。
すると、いくらも行かないうちに突然視界が開けて、明るい空間に出ました。森の中に空き地があって、一面に花が咲き乱れています。赤、青、黄、オレンジ、紫……絵の具箱の絵の具を原色のまま無秩序に塗りたくったような、極彩色の花の群れです。同じ一面の花でも、白い石の丘の周りや天空の国に広がる花野とは、ずいぶん雰囲気が違いました。
フルートたちは目を丸くしながら花畑に進んでいきました。むせかえるような香りが、あたり一面にたちこめています。ポチが顔をしかめてつぶやきました。
「ワン。こんなに匂いが強いと、敵がいてもわからないな……」
フルートは用心を続けながら、花畑の中を横切り、その先の森まで行ってみました。特に変わった様子はありません。
ポチも別の方向の森へ歩み寄りました。懸命に目をこらし、耳を澄まします。けれども、ポチの鋭い感覚でも、人の気配を感じ取ることはできませんでした。
そのとき、ポチの足下で花がざわりとうごめきました。風もないのに、その場所の花だけがいっせいに揺れたのです。ポチは思わず足下に目をやりました。
鮮やかな色の花が、濃い緑の葉の間で揺れ続けています。足下の地面からは何の振動も伝わってきません。ただ花だけが、まるで生き物のように揺れ続けています。
ポチは背中の毛を逆立てました。動物の直感が子犬に危険を告げます。ポチは一足飛びにその場所から飛びのこうとしました。
とたんに、ざあっと雨が降るような音をたてて、花が緑の茎から落ち始めました。ポチは何もしていないのに、周り中の花がひとりでに花首から折れて、地面に落ちていったのです。ポチは目を丸くしました。
すると、次の瞬間、花が地面からふわりと宙に浮き上がり、ポチの周りを取り巻きました。何百、何千という花が、虫か鳥のように、子犬の周りを飛び回り始めます。ポチは思わず後ずさり、後ろにも花の群れが飛んでいるのを見て立ちすくみました。周り中、どこにも逃げ場がありません。ポチは吠え始めました。
「ワンワンワン……フルート! フルート!」
そのとたん、花はまた雨のような音をたて、いっせいにポチめがけて襲いかかってきました――
ポチの声で振り向いたフルートは、極彩色の花がポチに向かって飛びかかっていくのを見て、思わず立ちすくみました。こんな光景は今まで見たことがありません。茎を離れた花たちが、まるで生き物のようにポチに群がっていくのです。あっという間に、子犬の姿は花の中に消えてしまいました。
「ポチ!!」
フルートは大声を上げて駆け寄っていきました。
「ワンワン、フルー……」
花の奥からポチの声がして、突然、何かに口をふさがれたように途絶えました。
フルートは走りながら炎の剣に手をかけ、次の瞬間、思い直してロングソードを引き抜きました。花の中にポチがいます。切ったものを燃やす炎の剣では、ポチまで巻き込んでしまいます。
花はポチをすっかり取り込んで、目にも鮮やかなまだら模様のボールになっていました。その表面で花びらが揺れ、花粉が細かい霧のようにあたりに飛び散っています。フルートはまっすぐ駆け寄ると、力任せに剣で切りつけていきました。
「やあっ!!」
ばっと花びらが散り、ボールの一カ所が大きく裂けました。
が、花はまた勢いよく集まってきて裂け目をふさぎました。もう一度切りつけても同じです。ちいさな花の集まりは、切られるたびに飛び散っては、またすぐに寄り集まってしまいます。ポチの姿は花の奥に隠されていて、ちらりとも見ることができません。
フルートは剣を構え直すと、花のボールに飛び込んでいきました。宙に浮く花を切り捨て道を切り開きながら、ポチを助け出そうとします。
すると、フルートにいくつもの花が飛びついてきました。まるで蝶か何かのようにフルートの腕の上に舞い下りると、見る間にその下から細い緑のものを伸ばし始めます。草のつるです。あっという間に何十センチも伸びて、フルートの両腕に絡みつき、剣を持つ手をがんじがらめにしてしまいました。
「な……!?」
フルートは驚いて必死で振り切ろうとしました。けれども、草のつるは針金のように丈夫で、いくら力をこめても断ち切ることができません。
その間に目の前の花が、またいっせいに動き出しました。音をたてながら位置を変え、あっという間に、ボールから鳥のような形に変わります。無数の花が寄り集まってできた大きな鳥です。
色鮮やかな翼が空き地いっぱいに広がり、鳥が空に舞い上がりました。ポチをその中に閉じこめたまま、高く飛び上がります。
「ポチ! ポチ!」
フルートは大声で呼びました。花の鳥が森の向こうに見えなくなっていきます。
すると、フルートの腕を絡め取っていたつるが急に枯れて、花が地面に滑り落ちていきました。花がなくなって緑の茎と葉ばかりになった野原に、光るものが落ちています。銀の糸を編み上げて緑の宝石をはめ込んだ、ポチの風の首輪でした。フルートは首輪を握りしめると、また空に向かって叫びました。
「ポチ――!!」
返事はありません。鳥の姿も見えません。
ただ、森の中でセミたちがうるさいくらいに鳴き続けています……。
フルートはその場に座りこむと、思わず拳を地面にたたきつけました。全身が激しく震えだします。ゼンもポチも、自分の目の前で奪われていきました。フルートは、何もできませんでした。本当に、何一つ手出しできなかったのです。
フルートはまた地面を殴りました。
「何が……なにが金の石の勇者だ!!」
ぼくは仲間ひとり守ることもできなかったじゃないか! と自分自身をののしります。悔し涙がこみ上げてきて止まりませんでした。
ポチが連れ去られた先はわかっています。ゼンと同様、渦王の城です。そして、そこには闇の敵も潜んでいるのです。
フルートは唇をかむと、ポチの首輪を固く握りしめました。待ってろ、絶対に助け出すから、と心につぶやいて顔を上げます。
とたんに、フルートは二つの青い目に出くわしました。
一人の少年が、目の前にしゃがみ込んで、フルートをのぞき込んでいました。その距離わずか三十センチという近さです。わっ、とフルートが思わず驚いて飛びのくと、少年は目を丸くして、すぐに、くくっと笑いました。馬鹿にするような笑い方でした。
「あんた、何やっているんだよ? 変なやつだな」
「き、君は誰だ!?」
とフルートは体勢を整えながら尋ねました。こんなに近くにいたのに、フルートは少年の気配をまったく感じませんでした。ただの人間ではありません。背中の剣をいつでも引き抜けるように身構えます。
すると、少年はちょっと肩をすくめて、また笑いました。
「なに構えてるんだよ。俺が何をするって言うのさ」
そう言いながら立ち上がった少年は、若木のようにすらりとした姿をしていました。緑色の服を着て茶色の布を頭に巻き付けています。布の下に、驚くほど整った綺麗な顔がありました。
「俺はシルヴァ。この島の、森の子どもさ」
と少年は名乗って、頭をそらしました。布からのぞく緑の髪の毛が、風に吹かれてなびいていました――。