天空の国は、魔法使いたちの住む国でした。
大昔は地上にあった都市が、魔法の力で空中に浮かび上がり、世界の上をゆっくり回り続けています。
地上の人々にその国の姿は見ることができません。常に魔法でおおい隠されているからです。ただ、天空の国のために戦ったフルートたちだけには、魔法の国もベールを脱いで、その姿をはっきりと見せてくれていました。
天空の国は決まったルートを回っているわけではありません。いつも思いがけないときに空に現れては、少年たちの頭上を通り過ぎていきます。それを見るたびに、少年たちは天空の国にいる仲間の少女を思い出し、風の犬に乗って会いに来るのではないかと期待して待ちました。……何故だか、ポポロはこれまで一度も地上に下りてきてくれませんでしたが。
今も、海の上のはるか彼方に天空の国が見えたとたん、少年たちは同じことを期待しました。ポポロがこちらに向かって飛んでくるのではないかと思ったのです。けれども、天空の国は海上をゆっくり左から右へ移動しながら、また水平線の向こうに遠ざかって行こうとしました。
「ワン! 行ってしまいます!」
とポチがあわてた声を出しました。ゼンがとっさに天空の国へ呼びかけようとします。ところが、そのとたん、フルートが飛びついてゼンの口をふさいだのです。
「フ、フルート……?」
ゼンとポチはびっくりして、金の鎧の少年を見つめました。フルートの顔は真っ青です。そうしている間に、天空の国は水平線の向こうへ飛んでいって、姿が見えなくなってしまいました。
「何しやがんだよ、いったい!」
ゼンがフルートの手をふりほどいてどなりました。
フルートは首を振りました。
「呼んじゃだめだ。呼ぶんじゃない」
「だから、どうして!?」
フルートの言っていることは、さっぱり意味がわかりません。
すると、フルートは、ぎゅっと眉と目をしかめて、何かをこらえるような表情をしました。
「……ポポロが弱いからだよ」
ゼンとポチは、またぽかんとフルートを見つめてしまいました。
「おい、おまえ……今さら何を言ってるんだよ? そりゃ、ポポロは俺たちと違って弱いさ。女の子だからな。力だってない。でも、あいつの魔力のものすごさは、俺たちが束になってかかったって、とてもかなわないじゃないか」
「でも、一度きりだ!」
とフルートは頑固に言い続けました。
「それを使い切ってしまったら、もう彼女には何もできないじゃないか。ぼくたちが守ってあげるしかない。それじゃ、とても戦えないよ!」
ゼンたちはまた呆気にとられてしまいました。とてもフルートのことばとは思えません。
「ワン、フルート。ぼくがいますよ。ぼくがポポロを守ります」
とポチが言いました。心配そうな目をしています。ゼンもうなずきました。
「俺たちはみんな、お互いに助け合ったじゃないか。俺たちだって、ポポロに守られたぞ。だから、魔王が倒せたんじゃないか。おまえ、本当にどうしたんだ? 絶対におかしいぞ」
フルートは、また目をそらしました。その顔つきは、痛みをこらえる人にそっくりでした。
「もう、心配するのが嫌なだけだよ。こっちの身がもたない。ポポロだけじゃない。君たちもだ。今だって、君たちがおぼれ死んだんじゃないかと思ったら――」
少年は一瞬ことばに詰まりました。そむけた横顔の中で、唇が震えています。フルートは大きく息を吸い込むと、吐き出すように言いました。
「こんなに気持ちをかき乱されるのは、もうたくさんなんだよ。一人の方が、よっぽど気が楽さ!」
ゼンは目を見張ってフルートを見つめました。その顔つきが、みるみるうちに険しくなっていきます。
「……つまり、俺たちは足手まといだ、って言いたいのか?」
うなるほど低い声でそう尋ねます。
フルートは唇をかむと、黙ってうなずき返しました。
ゼンは、かっとなると、いきなりフルートの鎧の胸ぐらをつかみました。ゼンは怪力のドワーフです。フルートの小柄な体が軽く宙に浮きました。
「もう一度言ってみろ! その足手まといな俺たちに数え切れないほど助けられたのは誰だ!? 俺たちがいなかったら、おまえはどの敵だって倒せなかったじゃないか! それともなんだ、本当は自分一人だけで全部やっつけられたとでも言うのか!?」
すると、フルートがゼンをにらみ返すように見つめました。
「ぼくには魔法の金の石がある。石が守ってくれたさ」
ゼンはことばを失いました。ポチも驚いてフルートを見上げています。
ゼンは突然フルートを砂の上に放り出しました。
「勝手にしろ! 自分一人で立派に戦えるって言うんなら、やって見せろ! 見事やりとげたら、拍手喝采してやらぁ!」
吐き捨てるようにそう言うと、怒りに肩を震わせながらその場を離れていきます。
フルートはそっぽを向いていました。唇が真一文字に結ばれています。
ポチは、二人の少年をかわるがわる見上げて迷ったあげく、浜辺を歩いていくゼンのほうを追いかけていきました。
砂浜の途中に黒い岩が大きく突き出た場所がありました。波に削られて丸くなった岩には、あちこちにフジツボや貝殻がへばりついています。満潮のときには、そこまで海が押し寄せてくるのです。
岩陰まで歩いてきたゼンは、ふいにくるりと向きを変えると、岩にこぶしをたたきつけました。人間ならこぶしを傷めるような勢いでしたが、ドワーフのゼンはびくともしません。逆に岩にひびが入りました。
「あの馬鹿っ!!」
ゼンがわめきながら、また岩を殴りつけました。岩が大きく砕けて、大小のかけらが飛び散ります。
それを避けながら、ポチが話しかけました。
「ワン……フルートは気にしているんですよ。悪夢で見るみたいに、ぼくたちが敵に殺されてしまうんじゃないか、って。だから、わざとぼくたちをついてこさせまいとしてるんです」
「そんなこと、わかってる!!」
とゼンはどなると、また力まかせに岩を殴りました。岩の角が粉々になって崩れ落ちます。そのまま、しばらく肩で荒い息をついてから、ゼンはようやくまた口を開きました。
「あいつが考えそうなことくらい、俺にだってわかってる。あいつは、俺たちを心配してあんなことを言ってるんだ。泉を出発するとき、本気で俺を置いていこうとしやがったからな」
「ぼくがマグロさんにしがみつけない、って言ったときにも、フルートはぼくに『残れ』って言おうとしてました……。それがわかったから、ぼく、さっさとリュックサックに入っちゃったんだけど」
「ったく、あの大馬鹿野郎!!」
とゼンはまたわめきました。
「俺たちがいなくて何ができると思ってやがるんだ! あいつは、いつだって人のことばかり考えて、自分を守ることを忘れてるんだ! あんな危なっかしい戦い方するヤツが生き残れるもんか! いくら金の石や魔法の鎧でも守りきれないぞ! なのに……!」
ゼンは悔しそうに歯ぎしりをしました。
すると、ポチがそっと言いました。
「ゼンは、フルートが夢を見ているところを知らないから」
そう言う子犬の目は、ひどく悲しそうでした。
「ものすごくうなされるんですよ。寝言を聞いていると何を夢に見ているかわかるんだけど、ポポロだけじゃなく、ゼンが死んでしまうことも、ぼくが死んでしまうこともあるみたいで……いつだって、ぼくたちの名前を泣きながら呼ぶんです。あれを聞いていると、ぼく……」
ふっと、ポチが口ごもりました。しょんぼりうなだれながら、ことばを続けます。
「ぼくたちを心配するのがつらいっていうのも、本音じゃないかな、って思うんですよ。ぼくたちはフルートが何て言ってもついていっちゃうけど、本当は、フルートにはそれが負担になってるのかもしれないんです」
とたんに、ゼンはじろりとポチを見ました。
「こら。おまえまであいつのペースに巻き込まれてどうする? 俺たちがあいつから離れてみろ。真っ先に、あいつがあの世に行っちまうぞ。ったく、なにが金の石の勇者だ! あいつくらい危なっかしいヤツ、いないじゃないか! なのに、こっちの気も知らないで……」
ゼンは、ふーっとため息をつくと、腕組みして空を眺めました。よく晴れ渡った青空です。もうどこにも天空の国は見えません。
「ポポロのことだってそうだ。確かに、あいつは本当に弱いさ。魔法だって一回こっきりしか使えない。だけど、あいつだって勇者の仲間のつもりでいるんだ。フルートが呼ばないせいで、どんなにあいつが悲しむか、考えたことあるのかよ」
クーン、とポチが鼻を鳴らしました。ことばでは何も言えなかったからです。
目の前の砂浜では波が寄せては返していました。少年たちがこんなに言い争っても、波の音と海鳴りは、少しも変わることなく延々と続いています。砂浜に小さな鳥が舞い下りて、二、三歩つつつと歩いてから、またすぐに飛び立っていきました。
それを見るともなく見ていたゼンが、何かに気がついて、はっとした顔になりました。
「くそっ、そういうことだったのか……!」
と突然わめいて頭をかきむしります。
「おいポチ、戻るぞ! 俺たちがいない間に、あの馬鹿が旅立っちまうかもしれない。あいつ、そのためにわざと俺を怒らせたんだ!」
ポチは目をぱちくりさせて、次の瞬間には納得しました。仲間たちを危険な目にあわせないために、仲間を遠ざけておいて自分ひとりで出発する。確かにフルートが考えそうなことです。ゼンとポチは大急ぎでフルートのところへ戻ろうとしました。
ところが、岩陰から出ないうちに、ゼンが突然、咳きこみ始めました。むせたわけでもないのに激しい咳が止まらなくなり、前かがみになって咽を押さえます。急に咽に何かが引っかかったのです。
「ゼン?」
ポチが驚いて振り向いたとたん、下を向いたゼンの口から、ぽーんと何かが飛び出しました。小さな青い粒――『人魚の涙』です。彼らが、あっと思ったときにはもう遅く、魔法の真珠は波の中に飛び込んでいました。
「やばい!」
ゼンは顔色を変えて真珠が落ちたあたりに飛んでいきました。
「ちきしょう。だから、薬を飲むのは苦手だって言ったんだよ……!」
とブツブツ言いながら波打ち際で目をこらします。まもなく、青い真珠が波にもまれて、白い砂の上を行きつ戻りつしているのが見つかりました。
ところが、ゼンが拾い上げようとしたところへ、一匹の黒い魚が泳ぎ寄ってきて、いきなり砂の上の真珠を飲みこみました。そのまま、身をひるがえして、沖に向かって泳いでいってしまいます。
「あっ、こいつ!」
ゼンはあわてて魚の後を追いました。ポチも一緒になって水の中を走りました。長老の魔法のおかげで、陸上と同じくらいのスピードで走れます。じきにポチが魚に追いつきそうになりました。
その時です。
ゼンの目の前で、海の水がぐぐっと盛り上がったかと思うと、突然、海の中から一匹の大蛇が姿を現しました。
青く輝く体は、大木のように太く、高々と持ち上げられた鎌首は、十メートル以上もの長さがあります。それでも、蛇の体の半分以上はまだ海の中にあるのです。鎌首の先で、銀の目がドワーフの少年と子犬を見下ろしていました。
「な、なんだこいつ!?」
「ワン! ゼン、危ない!!」
ふたりが同時に叫んだとたん、蛇が動きました。目にもとまらない早さでゼンに飛びかかると、その太い体にゼンを巻き取ってしまいます。
「うわぁっ!!」
「ワンワン! ゼン、ゼン!!」
ゼンとポチは、また同時に声を上げました――。