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第2巻「風の犬の戦い」

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60.悪夢

 一面の暗闇の中に、ポポロはたったひとりで立っていました。

 たった今までポポロをがんじがらめにしてた毛は消え失せていましたが、本当に何も見えなくて、どうしらた良いのかわかりません。

「フルート、ゼン、ポチ……ルル……」

 震えながら闇に向かって呼びかけていると、ふいに、足下から声がしました。

「また泣いているの、ポポロ? もっとしっかりなさい。泣いていたって、なんにも変わらないのよ」

 闇の中に茶色と銀の毛並みのルルがいました。けれども、ルルはポポロではなく、まっすぐ、闇の中の何かを見つめていました。

 その方向に、次第に一つの光景が浮かび上がってきました。

 

 そこは、ポポロの家の中でした。黒い服を着たお父さんと、黒い長衣を着た小さな少女が並んで立っています。お父さんの首に闇の首輪はなく、髪にも体にもあたりまえに色がありました。

 お父さんが、小さな少女に向かって言っていました。

「いいかい、十分にイメージして魔法を使うんだ。意識を集中して、あのロウソクに火をつけてみなさい」

 ポポロは、はっとしました。今にも泣き出しそうな顔で父親を見上げた少女は、昔の自分自身だったのです。ふたりの目の前のテーブルには、火のついていないロウソクが一本立っていました。

 ポポロは思わずめまいがしそうになりました。

 この場面は覚えています。もう何年も前に本当にあったことです。

 学校が休みだった日、父親はポポロに魔法のコントロールの練習をさせました。ポポロは、本当は嫌で嫌でしかたなかったのですが、父親に叱られるのが怖くて、言い出せないでいました。そうです。あのときは、同じ部屋の中に犬のルルもいました。

「しっかりなさいったら! 練習しなくちゃ上手にならないじゃない!」

 とルルが言って、小さなポポロに近づいていきました。

 涙目になる娘に、父親は容赦なく言いました。

「さあ、やってみなさい。ロウソクの芯に意識を集中させるんだ」

 やめて! と大きなポポロは思わず叫びました。あたしにそれをやらせないで! と。

 けれども、少女の悲鳴は、部屋の中の人々にはまったく届きませんでした。父親とルルの両方に責められて、とうとう小さなポポロは右手をロウソクに向けました。呪文を唱えます。

「ローエモーローエモレモトヨオノホ……」

 とたんに、木のテーブル全体がボッと音をたてて火を吹きました。激しい炎の中で、ロウソクが一瞬のうちに蒸発していきます。

 それと同時に、すさまじい少女の悲鳴が響き渡りました。

 部屋の中で、ルルの体が突然火だるまになったのです。茶色の毛並みの体が燃え上がり、部屋中を狂ったように転げ回ります。ポポロの魔法に巻き込まれたのです。

「ルル!!」

 幼い少女は悲鳴を上げました。父親が真っ青になって手をかざして、犬の体の火を消しました。愛犬は床に倒れました。全身真っ黒に火傷を負っています――

 と、その場面は幻のように消えていきました。

 

 ポポロは闇の中でがたがたと震えながら立ちすくんでいました。

 二度と見たくない場面でした。

 ルルはお父さんの魔法で一命をとりとめましたが、長い毛の中に、魔法でも消すことができない火傷の痕が残りました。「気にすることないわよ」とルルは言ってくれましたが、ポポロには一生忘れることができない事件でした。

 ここはどこなの? とポポロは混乱する頭で考えました。何故、こんなものが見えてしまうの? どうして、あたしはこんなところにいるの……?

 すると、目の前の闇の中に、また別の場面が浮かび上がってきました。

 

 家の裏手に少女が立っていました。

 前の場面よりもう少し大きくなったポポロです。

 手の中に何かを持って、木の梢を見上げていました。

 梢には鳥の巣がありました。親鳥が交代で卵を暖めています。ところが、親鳥が動いた拍子に、巣から卵が一つ転がり落ちてしまったのです。

 木の下は草むらになっていたので、卵は割れずにすみました。けれども、そのままにしておけば、卵は冷たくなって、中のひな鳥は死んでしまいます。親鳥が巣の上から心配そうに卵を見下ろしていますが、親鳥にもどうすることもできません。そこへ、ポポロが通りかかったのです。

 ポポロは困って梢を見上げていました。卵を戻してあげたくても、ポポロは木登りができません。お父さんもお母さんも、今日は用事があって夕方まで戻ってきません。ポポロは卵を暖めるように一生懸命手の中に抱いていましたが、人間の体温は鳥より低いせいか、どんどん卵が冷たくなっていくような気がしました。早く巣に戻してあげなくてはなりません。

 ポポロは長いこと迷っていましたが、とうとう決心すると、卵をのせた手を目の前にかざしました。呪文を唱え始めます。

 すると、卵がふわりと宙に浮きました。ポポロは慎重に慎重に、卵を巣に向かわせました。魔法が暴走してしまわないように魔力を抑えながら、ただ卵と鳥の巣にだけ意識を集中させます。

 ところが、あと少しで卵が巣に戻るというところで、ざわりと梢全体が揺れました。風もないのに枝と葉が鳴り始め、激しく動き始めます。

 ポポロが、はっとして魔法を止めようとした時には、もう手遅れでした。

 大木は突然根元から抜けると、ものすごい勢いで空に飛び上がりました。まるで、見えない巨人が唐突に木を引き抜いたようです。驚いた親鳥が巣から飛び立ちました。

 木はあっという間に空高くまで飛んで行くと、風を切りながら、また空から落ちてきました。地響きをたてて、地面に横倒しになります。ポポロの家の裏口と台所が直撃を受けて、めちゃくちゃになりました。

 すんでのところで下敷きにならずにすんだポポロは、青ざめて立ちすくんでしまいました。

 根こそぎ引き倒された木は、枝が折れ葉がちぎれてひっくり返っています。梢にかけられた鳥の巣は、地面に放り出されて、中の卵も、ポポロが戻そうとした卵も、地面に落ちて全部つぶれてしまっていました。親鳥が上空を飛び回り、耳をつんざくような声で鳴きわめき続けていました――

 

 ポポロは両手で顔をおおいました。

 やめて、もう何も見せないで! 声にならない声でそう叫びます。

 いつだって、ポポロはそんなつもりはないのです。ただ、手助けがしたいだけなのに、みんなと同じように普通に魔法を使いたいだけなのに、どうしてだか、ポポロがやると魔法はたががはずれてしまって、とんでもない威力を発揮してしまうのです。全然そんなつもりはないのに、誰かを傷つけたり、小さな命を奪ったりしてしまうのです……。

 顔をおおった指の隙間から、涙があふれてしたたり落ちていきます。

 

 幻なのか、本物なのか、闇の中から人の声が聞こえてきました。小さな子が泣いているようでした。一生懸命お母さんを呼んでいます。

 ポポロ自身の声が、よその人の声のように聞こえてきました。

「どうしたの……? 迷子になっちゃったの?」

 ポポロは小さな子に話しかけているようでした。子どもはなかなか泣きやみません。

 すると、突然女性の金切り声が上がりました。

「やめて、ポポロ!! うちの子にさわらないでちょうだい! 何もしないでちょうだい!」

 走り去る音が聞こえます。母親が我が子を抱いて逃げていったのです。子どもの泣き声が遠ざかっていきました――。

 

 ポポロは顔をおおったまま泣き続けました。

 自分の暴れ馬のような魔力が有名になるに従って、人々はポポロの周りから離れていきました。逃げるように遠ざかり、そして、安全だと思える場所からポポロをあざ笑うのです。

 次第に、ポポロの胸の内が冷たくなっていくような気がしました。

 ポポロはひとりぼっちです。誰も助けてくれません。誰もわかってくれません。たったひとりの人を除けば……。

 ポポロは泣きじゃくりながら、気がつかないうちにその人を呼んでいました。

 お母さん、と。

 

 ふんわりとポポロを抱きしめてくれた人がいました。

 暖かい腕と胸が少女を包み込みます。

 ポポロには、それが誰なのかわかっていました。お母さんです。

 どんなにポポロが失敗しても、どんなひどい結果を引き起こしてしまっても、お母さんだけは絶対にポポロを叱りませんでした。お父さんからはいつも厳しく注意されるのですが、お母さんだけは、絶対にポポロを責めずに、ただ抱きしめてくれたのです。その胸の中でひとしきり泣きじゃくり、母親に抱かれたまま眠ってしまうのが、悲しい時のポポロの癖でした。

 ポポロは泣き顔を上げて、母親を見上げました。

 母親は、ポポロに負けないくらい泣きそうな顔をしながら、優しくほほえんでいました。濃い金色の瞳は、涙でいっぱいになっていました。

「お母さん――!!」

 ポポロは母親にしがみつき直しました。声を限りに泣き出します。

 すると、お母さんの手に力がこもりました。痛いくらい乱暴にポポロを抱き寄せます。

 次の瞬間、ポポロの背中に衝撃と共に鋭い痛みが走りました。ポポロは目を見張り、思わずうめき声を上げました。お母さんが、手に持っていたナイフでポポロを突き刺したのです。

 お母さんは、髪の色も顔も体も、すっかり真っ白になっていました。

 その首には、鈍色の闇の首輪がありました――。

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