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第2巻「風の犬の戦い」

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56.白い犬

 「ぼうや……ぼうや、こっちよ……」

 優しい女の人の声が後ろから呼びかけていました。

 暗闇の中で途方に暮れていたポチは、思わず振り返って目を見張りました。

 闇の中に、白い雌犬が立っていました。きれいな毛並みを光らせて、黒い瞳でじっとポチを見つめています。

「お母さん……?」

 とポチは信じられない顔でつぶやきました。

 

 すると、突然あたりが明るくなりました。

 そこは見知らぬ草原でした。名前もわからない小さな花が、あちこちで風に揺れています。頭上には抜けるような青空が広がっています。

 ポチが驚いて周りを見回していると、白い雌犬が近づいてきて、温かい舌でポチの顔をなめまわしました。

「ああ、やっと会えたわね、私のぼうや……。ずっと、ずっと探していたのよ……」

「お母さん……」

 ポチは本当に驚いて、何も言えなくなりました。

 自分の母親は、とうの昔に死んだはずです。あたり一面に氷と霜の花が咲く朝、自分を守るように抱きしめたまま、凍え死んでしまったのです。

 けれども、懐かしそうにポチを見つめてなめ続ける雌犬は、どう見ても、ポチの母親に違いないのでした。

「お母さん、生きていたの……?」

 とポチはおそるおそる聞きました。

 自分が死んでしまって、お母さんがいる天国に来てしまったのだろうか、とも思ったのですが、それにしてはお母さんにも自分にも、実在感があるような気がしました。

 すると、母犬が笑うように目を細めました。

「そうよ、ぼうや……。あの寒い朝ね、お母さんは本当にもう少しで凍え死ぬところだったの。半分死んでしまっていたのでしょうね。でも、ぼうやが行ってしまってから、人間が通りかかって、お母さんを家に連れ帰って暖めてくれたの。それで、お母さんは息を吹き返したのよ。……ずうっと、ぼうやを探したわ。ひとりきりで、どうしているんだろう。餌を食べることができているのかしら、ものを言う犬だと知れて人間からいじめられていないかしらって、そればかり心配でいたの。無事で本当に良かったわ。こんなに大きくなって……」

 そして、母犬はまた、嬉しそうにポチの体中をなめました。

 ポチは、そっと近づいて、母親の体に鼻先を押しつけてみました。

 懐かしいお母さんの匂いがします。もう二度とかぐことはないと思っていた、甘く優しい匂いです。

「お母さん……!」

 ポチは母親にむしゃぶりつきました。泣きそうな声で何度も繰り返します。

「お母さん……お母さん……お母さん……!!」

「ぼうや!」

 二匹の犬は絡み合い、草の上に倒れて、互いに相手をなめ合いました。

 

 風が草原を吹き渡っていきました。太陽が柔らかな日差しを投げてよこします。

 日だまりの中でじゃれ合った犬たちは、しまいに、寄り添い合って横になりました。

 ポチは、遠い昔にやっていたように、母犬の胴を枕にしていました。お母さんの匂いが、日差しと同じくらい暖かく包み込んでくれています。ポチは、うっとりと目を閉じると、そのまま眠りに落ちていこうとしました。

 すると、そんな我が子を優しくなめながら、お母さんが言いました。

「行きましょう、ぼうや。おうちに帰りましょうね……」

 ポチは、眠りかけていた目を開けて、頭を上げました。とまどって母親を見ます。

「帰るって……どこに?」

 ポチは、もの言う犬とわかった時にご主人から殺されそうになって、母親と一緒に屋敷を逃げ出してきたのです。以来、ずっと人に飼われない野良犬として生きてきました。帰れる家など、ないはずなのです。

 すると、母犬は言いました。

「お母さんが今いるところよ。命を助けてくれた人間たちが、そのままお母さんを飼ってくれているの。とても優しい方たちよ。ぼうやがもの言う犬だとわかったって、絶対に、殺そうとなんてなさらないわ。きっと、珍しがって喜んでくださるわよ」

 ポチはますますとまどって、お母さんを見つめ返しました。

 それをどう受け取ったのか、お母さんは話し続けました。

「人間はね、恐ろしい人たちばかりじゃないのよ。人のことばをしゃべる犬だって、驚かないで、ちゃんと受け止めてくれる人たちもいるの。だから、もう逃げる必要はないのよ。私たちにも、新しいご主人とおうちが見つかったのよ……」

 ポチは、まばたきをしました。あまりに急なことに、まごつきながら口を開きます。

「ぼく、人間が全部いじわるじゃないのは知っていたけど……優しい人たちにも出会ってきたから……」

 フルートやゼン、ポポロ、フルートの両親といった人たちの顔が思い浮かびます。みんな、ポチがもの言う犬でも少しも恐れず、友だちや家族として受け入れてくれていました。

 

 すると、突然、ポチは、はっとしました。自分が今まで何をしていたのか思い出したのです。

 自分たちは天空の国の城で戦っていたはずです。力尽きた自分を守って、フルートとゼンが魔王に立ち向かっていました。目の前に黒馬に乗った人のような怪物が現れて、闇に包まれたと思ったとたん――

 ポチはあわててまたあたりを見回しました。フルートもゼンも、どこにも見あたりません。ただ、穏やかな草原の景色が広がっています。

「どうしたの、ぼうや?」

 と母犬は不思議そうな顔をすると、ぺろりとポチの顔をなめて、おもむろに立ち上がりました。

「さあ、行きましょうね。おうちはこのすぐ近くなのよ。ご主人様たちが待ってらっしゃるわ」

 けれども、ポチは必死で言いました。

「ダメ。今はダメなんだよ、お母さん。ぼく、フルートやゼンやポポロを助けなくちゃいけないんだもの。みんな、天空の国で魔王と戦ってるんだ。ぼくも行かなくちゃ」

「行くって、どこへ?」

 とお母さんが穏やかに尋ねてきました。まるで日差しそのもののように暖かくて優しい声です。

 けれども、ポチは出口を探して夢中であたりを見回し続けていました。

「天空城に。みんなのところに……! ああ、どうしよう! どこからみんなのところに戻ったらいいんだろう!?」

 草原には、どこにも出口らしいものは見あたりません。

 すると、母犬が突然泣き出しそうな声になって言いました。

「行かないで、ぼうや! やっとまた会えたのよ。今離れてしまったら、きっともう二度と会えないわ。お母さんにはそれがわかるの。行かないでちょうだい、お願いよ……」

 ポチは、どきりとして母親を振り返りました。もう二度と会えなくなる、ということばが胸を刺したような気がしました。

 お母さんが言い続けます。

「一緒にいらっしゃい、かわいい私のぼうや。もう怖いことなんて何もないのよ。お腹が空くことも、寒いこともないの。おうちに帰れば、もう大丈夫なのよ。お母さんと一緒にいらっしゃい……」

 お母さんの声は甘く柔らかです。

 けれども、ポチは答えました。

「フルートたちをほっとくわけにはいかないんだ! みんな、ものすごく強い敵と戦っているんだもの! ぼくも行って、助けなくちゃいけないんだ! そうしないと、みんな、死んじゃうかもしれないんだもの!」

「あなたが殺されてしまうわ! そんなことになったら、お母さんも生きてはいられないのよ!」

 とお母さんが叫びました。

「ああ、ぼうや! かわいそうな子! お母さんのところに戻ってきてちょうだい。おうちに帰りさえすれば、怪我をすることも、恐ろしいことも、もう何も起こらないのよ! 一緒に帰りましょう……!」

 母犬はポチを頭で引き寄せ、草原の向こうに見えている一軒家に向かって押していこうとしました。そこが、お母さんの言う「おうち」なのだと、ポチにはわかりました。

 ポチは四本の足に力をこめて踏ん張ると、驚く母親に向かって言いました。

「お母さん、ぼく、今は行けないよ。フルートたちを助けなくちゃ。それにね、お母さん……ぼくはもう、全然かわいそうじゃないんだよ。だって、人のことばをしゃべれるおかげで、フルートたちと一緒に戦えるんだもの。ぼく、今では自分がもの言う犬で本当に良かったって思ってるんだよ」

 

 そのとき、背後から何かが聞こえたような気がしました。

 草原の彼方から少女の呼び声が聞こえてきます。ポポロの声です。

 ポチは振り返ると、声高く吠えました。

「ワンワンワン……! ポポロ、ぼくここです! どこにいるんですか!?」

 すると、ポポロの声がもっとはっきりと聞こえてきました。少女は、今にも泣き出しそうな声で、フルートやゼンやポチを呼び続けていました。

「ワン、今行きます! 待っててください!」

 ポチは声に向かって駆け出しました。

 すると、母犬が叫びました。

「行かないで、ぼうや! 行かないで……!」

 けれども、ポチは立ち止まりませんでした。ポポロの声のする方へ、まっすぐに走っていきます。

 すると、母犬の声がふいに変わりました。

「行かないで……行くな……行かせるものか……!!」

 うなるようなしゃがれ声です。

 ポチは、ぞくりと振り返って、驚いて立ち止まりました。

 母犬の白い姿がかすみに包まれたと思うと、ふくれあがるように大きくなって、真っ黒な犬の姿に変わったのです。三つの頭、蛇の尾を持つケルベロスです。母犬の優しい姿は、もうどこにもありません。

 ケルベロスが激しく吠えたてながら、どなりました。

「行かせるものか! かみ殺して、細かくかみ砕いて、骨も残さず食ってやる!」

 ポチの後を追って走ってきます。

 ポチは我に返ると、一散に走り出しました。

 ひたすらポポロの声がした方へ駆けていくと、ふいにあたりがまた真っ暗になりました。ポチの犬の目でも、何も見ることができません。振り返ると、闇の中を追いかけてくるケルベロスの大きな姿だけが見えています。

 闇の彼方から、またポポロの声が聞こえてきました。

「フルート! ゼン! ポチ――!!」

 ワンワンワンワン……! とポチは激しく吠えました。走る足に力をこめて、さらに早く走ります。

 

 すると、突然、闇の中からフルートとゼンが現れました。剣と弓矢を構えて、それぞれ、別の方向の闇の中から飛び出してきます。

「ポチ! ゼン!」

「やっほう! やっぱりポチの声だった!」

 仲間と合流して、フルートとゼンが歓声を上げます。

 ポチは走り続けながら言いました。

「ポポロが呼んでます! 早く行かないと!」

「わかった!」

「おっと、ありゃケルベロスじゃないか!?」

 ゼンが後ろに向かって光の矢を放ちました。矢は、まっすぐ飛んでいって魔犬を撃ち抜きました。怪物が霧と消えていきます。

 ポチは思わず振り返ってそれを食い入るように見つめ――

 それから、また前を向きました。

 行く手に光が見え始めていました。

「ワン! 出口です!!」

 ポチはいっそう早く走りました。フルートとゼンが、それに続きます。

 行く手の光は、どんどん大きく明るくなっていきます。

 ポポロの呼び声が、フルートたちの耳にも聞こえるようになってきました。ポポロは泣いているようでした。

「ポポロ!!!」

 少年たちはいっせいに叫ぶと、光の中に飛び込んでいきました――。

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