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第1巻「黒い霧の沼の戦い」

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22.地底湖

 地底湖は岩壁に囲まれた巨大な空洞の中に広がっていました。

 薄暗がりの中に水が黒くよどんでいます。どこまで続いているのか、対岸は闇の中で見えません。空気のそよぎひとつない地底で、湖は不自然なくらいしんと静まりかえっています。

 湖の岸の岩がぼんやり光って見えるので、フルートが不思議に思っていると、ゼンが教えてくれました。

「湖の岸に沿って、灯り石とヒカリゴケを埋め込んであるんだよ。何百年もかけてドワーフがやってきたのさ。ここで漁をしやすいようにな」

 光る石がなくても見通しがききそうだったので、フルートはランプを通路の出口に近い岩の上に置きました。

「水が真っ黒だ」

 とゼンが水辺に立って言いました。

「フルートの言っていたとおりだぜ。黒い雪が水になって、ここに流れ込んでいたんだ」

「やっぱりグラージゾは黒い霧の邪気の影響を受けたんだね」

 とフルートもゼンと並んで水面を眺めました。水は、淡い光の満ちる洞窟の中で、どろりとした黒い液体のようでした。

 ゼンが厳しい顔になりました。

「ちょっとばかり厄介だぞ。ヤツが近づいてきても姿が見えないんだからな。ヤツのことだ、きっと突然水の中から現れて――」

 そう言った瞬間。

 ザバァァッ!!!

 本当にグラージゾが目の前に現れました。前足を高々と上げてゼンへ振り下ろします。

「うわっ!」

 ゼンはあわてて飛びのきました。

 代わりにフルートがその場所に飛び込みました。前足めがけて剣をふるうと、グラージゾの右の前足が吹っ飛んでボッと燃え上がります。

 キシィィィィィ……!!

 グラージゾは水に飛び込んでいきました。たちまち、どこにいるのかわからなくなってしまいます。

「危ない危ない。またしびれさせられるところだったぜ」

 とゼンが冷や汗をぬぐうと、その腰に下がった灯り石を、フルートが指さしました。

「それだよ、ゼン! あいつはその光を見つけて来たんだ!」

 ゼンはあっと声を上げると、すぐに灯り石の籠を放り出しました。

「ちきしょう! なんてドジなんだ、俺は! 親父に知れたら大目玉だぞ!」

 すると、フルートが言いました。

「ねえ、それをわざと湖の岸辺に掲げたらどうかな? グラージゾが寄ってくるんじゃない?」

 おっ、とゼンも目を丸くしました。

「罠か。使えるかもしれないな。よし、やってみよう」

 そこで、ゼンは矢筒から木の矢を二本取ると、腰の袋から細い紐を取りだして、一本の矢羽根の先にもう一本の矢を縛り付けました。そうやってできた長い矢の先に、紐で灯り石の籠をぶら下げます。

 ゼンはそっと湖の縁に近寄ると、岸辺の泥の中に矢尻を突き立てました。矢の先につるされた灯り石の籠が、水際でゆらゆら揺れます。

 灯り石の罠から少し離れたところで、フルートは炎の剣を構えていました。ゼンも鋼の矢を弓につがえます。

 さあ、グラージゾはやってくるでしょうか……。

 

 黒くよどんだ水の中を、赤い小さな光が六つ、ゆっくりと近づいてきました。そして――

 ザバァァァッ!!!

 激しい水音と共に、またグラージゾが飛び出してきました。赤い小さな光が、赤く輝く六つの目に変わります。一本だけになってしまった前足が、矢につるされた灯り石めがけて振り下ろされます。

「はっ!!」

 かけ声と共にフルートが炎の剣を振りました。

 バシュッ!

 ゼンの弓から鋼の矢が離れます。

 炎の弾と矢は同時にグラージゾに命中しました。節だらけの体に深々と矢が突き刺さり、上半身が炎に包まれます。グラージゾは悲鳴を上げると、大きな水しぶきを上げて湖の中に倒れていきました。

「やっつけたかな?」

 とフルートが期待して言うと、ゼンは首を横に振りました。

「まだだ。あれくらいでくたばるようなヤツじゃない。また襲ってくるぞ」

 灯り石の罠はグラージゾに粉々にされていました。ゼンは口をへの字に曲げました。

「ったく、馬鹿頑丈なヤツだぜ……。でも、節と節の継ぎ目だけは、ダイヤモンドがついてないのがわかったからな。今度こそ急所にこの矢をお見舞いしてやる」

 と、また鋼の矢を弓につがえます。

「近づいてくるときに赤い光が見えたよね」

 とフルートは水面に目をこらして言いました。

「ああ。あいつの目は興奮すると赤く光り出すんだ。黒い水の中でも見えていたな。よく見張れよ、フルート。きっとまた、どこかから近づいてくるぞ」

 しん、と不自然なほどの静寂があたりをおおいました。何も音がしません。フルートとゼンも、息する音さえ潜めながら、じっとグラージゾを待ち続けました。張りつめた時間が過ぎていきます。

 

 すると、ゼンが急に水面に矢を向けました。黒い水の中を、小さな赤い光がゆっくりと動いています。

 フルートとゼンは黙ったままうなずき合い、光が到着しそうな岸辺へ静かに移動していきました。グラージゾが水の中から現れる瞬間を待って、剣や矢を構えます。赤い光が近づいてきます──。

 そのとき、フルートの視界の隅で、ちらりと赤いものが動きました。水中をゼンの方向へすうっと移動して、すぐに見えなくなります。

 フルートは、はっとして叫びました。

「危ない、ゼン!」

 ゼンがぎょっと身を引いたとたん、その目の前の水中からグラージゾが飛び出してきました。思いもしなかった場所です。ゼンは必死で体をひねり、毒の前足の攻撃をかわしました。

 フルートは炎の弾を撃ち出しました。かわされたので、駆け寄って切りつけようとします。すると、グラージゾはまた水中に飛び込んで見えなくなってしまいました。

 がぼり、と音を立てて、水中から一本の流木が浮き上がってきました。地表にできた割れ目から地下水流に落ちて、この地底湖まで流れてきたものです。流木の真ん中あたりには、赤く光る小さな石がいくつも並べて埋め込まれていました。

「赤い灯り石だ」

 とゼンはあっけにとられました。二人がグラージゾの目だと思って見張っていたのは、この灯り石の光だったのです。

「仕返しにヤツもおとりを作ってきたんだ。あいつは頭に泥をかぶって目を隠してやがった。くそっ、なんてヤツだ……!」

 と歯ぎしりをして悔しがります。

 そう、グラージゾは、自分の目に見立てた流木をおとりにして、子どもたちを罠にかけようとしたのでした。フルートが寸前で気がつくことができたのは、グラージゾの目をふさいでいた泥が、泳ぐうちに一カ所だけ水に押し流されてしまったからでした。

 一方フルートは黙って必死に考えを巡らせていました。

 このままでは勝てません。しかも、グラージゾはゼンのほうを集中的に狙ってきます。あくまでも狙いはドワーフなのです。先手を打ってグラージゾを倒さなくては、いつかゼンがやられてしまいます……。

 フルートは急に回れ右をすると、地底湖の出口に向かって駆け出しました。もちろん怖じ気づいて逃げ出したのではありません。フルートが目ざしていたのは、出口近くに置いてきた灯り石のランプでした。

「ゼン、湖から離れていて!」

 とフルートはどなると、ランプを持って駆け戻ってきました。

「フルート、何を……?」

 いぶかるゼンに、フルートは、しっ、と言うと、ランプを掲げたまま湖に駆け寄りました。そのまままっすぐ水の中に入っていきます。

「フルート!?」

 驚くゼンに、フルートは振り返って首を振ってみせました。黙っていて、と言うのです。左手にランプを掲げ、右手に炎の剣を構えます。

「あいつ──」

 とゼンは言いかけて、あわてて声を飲み込みました。フルートが自分自身をグラージゾのおとりにしていることに気がついたのです。

「こんちくしょうめ」

 ゼンは自分だけに聞こえる声でつぶやくと、弓に鋼の矢をつがえて、フルートの近くに狙いを定めました。

 

 また、緊張した時間が流れていきました。

 フルートはランプの光を掲げたまま、湖の中でじっと待ち続けました。

 すると、ふいに、ゆるりと黒い水が流れたように見えました。

 フルートが、はっとした瞬間、フルートの右足が何かにがっちりはさまれ、ものすごい力で宙につり上げられました。

 ザザザザーーッ……

 水が周囲に流れ落ちていく音が響きます。水中を忍び寄ってきたグラージゾが、フルートの足に食いついて水中から飛び出したのです。フルートが逆さづりにされます。

 ビュン……ガキン!

 ゼンの放った鋼の矢が、堅い音を立てて水中に落ちました。グラージゾの体のダイヤモンドにはね返されてしまったのです。

「くそ! フルート!」

 ゼンは歯ぎしりしながら次の矢を撃ちましたが、それもほんの数ミリの差で急所を外れました。硬いダイヤの殻にはね返されて、水に落ちてしまいます。

 フルートはランプを手放すと、炎の剣を両手で握りました。グラージゾの体は宙づりになったフルートの後ろにあります。フルートは体を揺すって勢いをつけると、剣を思い切り後ろに突き出しました。

 そのとたん、フルートの足が自由になって、フルートは湖に落ちました。グラージゾが剣を避けてフルートを放したのです。

 フルートが水中でもがいていると、グラージゾは今度はフルートの胴をくわえて高々と持ち上げました。くちばしがものすごい力で締まってきます。岩をもかみ砕くグラージゾの顎です。

 ぎしぎし、とフルートの鎧が音をたてましたが、鎧はちぎれませんでした。グラージゾに魔法の力で抵抗しているのです。

 その隙をゼンは見逃しませんでした。鋼の矢をまたつがえると、体の節と節の間を正確に狙って矢を放ちます。

 バシュッ……ズサッ!

 矢はグラージゾの頭のすぐ下の関節に突き刺さりました。グラージゾがつんざくような悲鳴を上げます。

 キキキキ、キシシシシーーッッ……!!!!!

 フルートの体がくちばしの間から滑り落ちていきます。

「ええぃっ!」

 フルートは渾身の力でグラージゾに炎の剣を突き立てました。

 とたんに、どん、と音がして、グラージゾの体から炎が噴き上がりました。体の表面をおおうダイヤモンドに燃え広がり、巨大な毒虫を包み込んでしまいます。グラージゾの体に剣を突き立てていたフルートも一緒に炎の中に見えなくなります。

「フ、フルート! フルートーっ……!!」

 ゼンは真っ青になって呼びましたが、返事はありませんでした。炎はますます大きく燃え上がり、ごうごうという音が聞こえてくるばかりです──。

 

 やがて、炎の中でグラージゾの体は炭になり、折れて水中に崩れていきました。熱い灰が水に落ちると、じゅぅっと音がして白い水蒸気がわき上がります。

 その中で、ひときわ大きな水音が上がりました。

 バシャーン!!

 そして――フルートの声。

「ぷわーっ……ぺっぺっ。水を飲んじゃったよ」

「フルート!」

 岸辺で立ち尽くしていたゼンは、歓声を上げて湖に駆け込みました。

 フルートが水の中から立ち上がりました。兜の下の金髪から水のしずくが垂れていますが、傷ひとつなく元気です。

「良かった、無事だったんだな!」

 ゼンが喜んで飛びくと、フルートは笑ってみせました。

「うん、この鎧は特別製だからね。熱や寒さには絶対負けないんだ」

「てっきりグラージゾと一緒に焼け死んじまったのかと思ったぞ。あんまり心配させるな」

 とゼンは怒ったようなことを言いましたが、やっぱり満面の笑顔でした。

 

 グラージゾはすっかり燃え尽きて、湖の中の浅い場所に灰がうずたかく積み重なっていました。水中にあった体も、炎の剣の火勢があまりに強かったので、ほとんどが燃えてしまったのです。

 それを見回して、ゼンがしみじみと言いました。

「やっつけたな、俺たち」

「うん、やったね」

 とフルートもうなずきます。

 すると、灰の中にきらりと光るものが見えました。フルートが拾い上げてみると、それは一抱えもある丸い紅い石でした。つるつるに磨き上げられていて、一点の曇りもありません。

 とたんにゼンが声を上げました。

「力のルビーだ! グラージゾが源の間から盗んでいったやつだぞ!」

 フルートは目を丸くして、それから、ほっとした顔になりました。

「じゃあ、グラージゾはこれを呑み込んでいたんだ。炎で燃えたり傷ついたりしなくて良かったなぁ」

「それこそ、そいつも魔法の道具だからな。炎くらいじゃびくともしないさ。よぉしフルート、これを町に持って帰ろうぜ! 人間を馬鹿にしていた連中に見せつけてやろう!」

 ゼンはまるで自分のことのように喜んでいました。先に立って岸に駆け上がると、底抜けに陽気な声で手招きします。

「さあ行こうぜ、フルート! 町に凱旋だ!」

 フルートも笑顔になると、ゼンを追って駆け出しました。

 後に残された地底湖は、何事もなかったように穏やかに静まりかえっていました。

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