地底湖は岩壁に囲まれた巨大な空洞の中に広がっていました。
薄暗がりの中に水が黒くよどんでいます。どこまで続いているのか、対岸は闇の中で見えません。空気のそよぎひとつない地底で、湖は不自然なくらいしんと静まりかえっています。
湖の岸の岩がぼんやり光って見えるので、フルートが不思議に思っていると、ゼンが教えてくれました。
「湖の岸に沿って、灯り石とヒカリゴケを埋め込んであるんだよ。何百年もかけてドワーフがやってきたのさ。ここで漁をしやすいようにな」
光る石がなくても見通しがききそうだったので、フルートはランプを通路の出口に近い岩の上に置きました。
「水が真っ黒だ」
とゼンが水辺に立って言いました。
「フルートの言っていたとおりだぜ。黒い雪が水になって、ここに流れ込んでいたんだ」
「やっぱりグラージゾは黒い霧の邪気の影響を受けたんだね」
とフルートもゼンと並んで水面を眺めました。水は、淡い光の満ちる洞窟の中で、どろりとした黒い液体のようでした。
ゼンが厳しい顔になりました。
「ちょっとばかり厄介だぞ。ヤツが近づいてきても姿が見えないんだからな。ヤツのことだ、きっと突然水の中から現れて――」
そう言った瞬間。
ザバァァッ!!!
本当にグラージゾが目の前に現れました。前足を高々と上げてゼンへ振り下ろします。
「うわっ!」
ゼンはあわてて飛びのきました。
代わりにフルートがその場所に飛び込みました。前足めがけて剣をふるうと、グラージゾの右の前足が吹っ飛んでボッと燃え上がります。
キシィィィィィ……!!
グラージゾは水に飛び込んでいきました。たちまち、どこにいるのかわからなくなってしまいます。
「危ない危ない。またしびれさせられるところだったぜ」
とゼンが冷や汗をぬぐうと、その腰に下がった灯り石を、フルートが指さしました。
「それだよ、ゼン! あいつはその光を見つけて来たんだ!」
ゼンはあっと声を上げると、すぐに灯り石の籠を放り出しました。
「ちきしょう! なんてドジなんだ、俺は! 親父に知れたら大目玉だぞ!」
すると、フルートが言いました。
「ねえ、それをわざと湖の岸辺に掲げたらどうかな? グラージゾが寄ってくるんじゃない?」
おっ、とゼンも目を丸くしました。
「罠か。使えるかもしれないな。よし、やってみよう」
そこで、ゼンは矢筒から木の矢を二本取ると、腰の袋から細い紐を取りだして、一本の矢羽根の先にもう一本の矢を縛り付けました。そうやってできた長い矢の先に、紐で灯り石の籠をぶら下げます。
ゼンはそっと湖の縁に近寄ると、岸辺の泥の中に矢尻を突き立てました。矢の先につるされた灯り石の籠が、水際でゆらゆら揺れます。
灯り石の罠から少し離れたところで、フルートは炎の剣を構えていました。ゼンも鋼の矢を弓につがえます。
さあ、グラージゾはやってくるでしょうか……。
黒くよどんだ水の中を、赤い小さな光が六つ、ゆっくりと近づいてきました。そして――
ザバァァァッ!!!
激しい水音と共に、またグラージゾが飛び出してきました。赤い小さな光が、赤く輝く六つの目に変わります。一本だけになってしまった前足が、矢につるされた灯り石めがけて振り下ろされます。
「はっ!!」
かけ声と共にフルートが炎の剣を振りました。
バシュッ!
ゼンの弓から鋼の矢が離れます。
炎の弾と矢は同時にグラージゾに命中しました。節だらけの体に深々と矢が突き刺さり、上半身が炎に包まれます。グラージゾは悲鳴を上げると、大きな水しぶきを上げて湖の中に倒れていきました。
「やっつけたかな?」
とフルートが期待して言うと、ゼンは首を横に振りました。
「まだだ。あれくらいでくたばるようなヤツじゃない。また襲ってくるぞ」
灯り石の罠はグラージゾに粉々にされていました。ゼンは口をへの字に曲げました。
「ったく、馬鹿頑丈なヤツだぜ……。でも、節と節の継ぎ目だけは、ダイヤモンドがついてないのがわかったからな。今度こそ急所にこの矢をお見舞いしてやる」
と、また鋼の矢を弓につがえます。
「近づいてくるときに赤い光が見えたよね」
とフルートは水面に目をこらして言いました。
「ああ。あいつの目は興奮すると赤く光り出すんだ。黒い水の中でも見えていたな。よく見張れよ、フルート。きっとまた、どこかから近づいてくるぞ」
しん、と不自然なほどの静寂があたりをおおいました。何も音がしません。フルートとゼンも、息する音さえ潜めながら、じっとグラージゾを待ち続けました。張りつめた時間が過ぎていきます。
すると、ゼンが急に水面に矢を向けました。黒い水の中を、小さな赤い光がゆっくりと動いています。
フルートとゼンは黙ったままうなずき合い、光が到着しそうな岸辺へ静かに移動していきました。グラージゾが水の中から現れる瞬間を待って、剣や矢を構えます。赤い光が近づいてきます──。
そのとき、フルートの視界の隅で、ちらりと赤いものが動きました。水中をゼンの方向へすうっと移動して、すぐに見えなくなります。
フルートは、はっとして叫びました。
「危ない、ゼン!」
ゼンがぎょっと身を引いたとたん、その目の前の水中からグラージゾが飛び出してきました。思いもしなかった場所です。ゼンは必死で体をひねり、毒の前足の攻撃をかわしました。
フルートは炎の弾を撃ち出しました。かわされたので、駆け寄って切りつけようとします。すると、グラージゾはまた水中に飛び込んで見えなくなってしまいました。
がぼり、と音を立てて、水中から一本の流木が浮き上がってきました。地表にできた割れ目から地下水流に落ちて、この地底湖まで流れてきたものです。流木の真ん中あたりには、赤く光る小さな石がいくつも並べて埋め込まれていました。
「赤い灯り石だ」
とゼンはあっけにとられました。二人がグラージゾの目だと思って見張っていたのは、この灯り石の光だったのです。
「仕返しにヤツもおとりを作ってきたんだ。あいつは頭に泥をかぶって目を隠してやがった。くそっ、なんてヤツだ……!」
と歯ぎしりをして悔しがります。
そう、グラージゾは、自分の目に見立てた流木をおとりにして、子どもたちを罠にかけようとしたのでした。フルートが寸前で気がつくことができたのは、グラージゾの目をふさいでいた泥が、泳ぐうちに一カ所だけ水に押し流されてしまったからでした。
一方フルートは黙って必死に考えを巡らせていました。
このままでは勝てません。しかも、グラージゾはゼンのほうを集中的に狙ってきます。あくまでも狙いはドワーフなのです。先手を打ってグラージゾを倒さなくては、いつかゼンがやられてしまいます……。
フルートは急に回れ右をすると、地底湖の出口に向かって駆け出しました。もちろん怖じ気づいて逃げ出したのではありません。フルートが目ざしていたのは、出口近くに置いてきた灯り石のランプでした。
「ゼン、湖から離れていて!」
とフルートはどなると、ランプを持って駆け戻ってきました。
「フルート、何を……?」
いぶかるゼンに、フルートは、しっ、と言うと、ランプを掲げたまま湖に駆け寄りました。そのまままっすぐ水の中に入っていきます。
「フルート!?」
驚くゼンに、フルートは振り返って首を振ってみせました。黙っていて、と言うのです。左手にランプを掲げ、右手に炎の剣を構えます。
「あいつ──」
とゼンは言いかけて、あわてて声を飲み込みました。フルートが自分自身をグラージゾのおとりにしていることに気がついたのです。
「こんちくしょうめ」
ゼンは自分だけに聞こえる声でつぶやくと、弓に鋼の矢をつがえて、フルートの近くに狙いを定めました。
また、緊張した時間が流れていきました。
フルートはランプの光を掲げたまま、湖の中でじっと待ち続けました。
すると、ふいに、ゆるりと黒い水が流れたように見えました。
フルートが、はっとした瞬間、フルートの右足が何かにがっちりはさまれ、ものすごい力で宙につり上げられました。
ザザザザーーッ……
水が周囲に流れ落ちていく音が響きます。水中を忍び寄ってきたグラージゾが、フルートの足に食いついて水中から飛び出したのです。フルートが逆さづりにされます。
ビュン……ガキン!
ゼンの放った鋼の矢が、堅い音を立てて水中に落ちました。グラージゾの体のダイヤモンドにはね返されてしまったのです。
「くそ! フルート!」
ゼンは歯ぎしりしながら次の矢を撃ちましたが、それもほんの数ミリの差で急所を外れました。硬いダイヤの殻にはね返されて、水に落ちてしまいます。
フルートはランプを手放すと、炎の剣を両手で握りました。グラージゾの体は宙づりになったフルートの後ろにあります。フルートは体を揺すって勢いをつけると、剣を思い切り後ろに突き出しました。
そのとたん、フルートの足が自由になって、フルートは湖に落ちました。グラージゾが剣を避けてフルートを放したのです。
フルートが水中でもがいていると、グラージゾは今度はフルートの胴をくわえて高々と持ち上げました。くちばしがものすごい力で締まってきます。岩をもかみ砕くグラージゾの顎です。
ぎしぎし、とフルートの鎧が音をたてましたが、鎧はちぎれませんでした。グラージゾに魔法の力で抵抗しているのです。
その隙をゼンは見逃しませんでした。鋼の矢をまたつがえると、体の節と節の間を正確に狙って矢を放ちます。
バシュッ……ズサッ!
矢はグラージゾの頭のすぐ下の関節に突き刺さりました。グラージゾがつんざくような悲鳴を上げます。
キキキキ、キシシシシーーッッ……!!!!!
フルートの体がくちばしの間から滑り落ちていきます。
「ええぃっ!」
フルートは渾身の力でグラージゾに炎の剣を突き立てました。
とたんに、どん、と音がして、グラージゾの体から炎が噴き上がりました。体の表面をおおうダイヤモンドに燃え広がり、巨大な毒虫を包み込んでしまいます。グラージゾの体に剣を突き立てていたフルートも一緒に炎の中に見えなくなります。
「フ、フルート! フルートーっ……!!」
ゼンは真っ青になって呼びましたが、返事はありませんでした。炎はますます大きく燃え上がり、ごうごうという音が聞こえてくるばかりです──。
やがて、炎の中でグラージゾの体は炭になり、折れて水中に崩れていきました。熱い灰が水に落ちると、じゅぅっと音がして白い水蒸気がわき上がります。
その中で、ひときわ大きな水音が上がりました。
バシャーン!!
そして――フルートの声。
「ぷわーっ……ぺっぺっ。水を飲んじゃったよ」
「フルート!」
岸辺で立ち尽くしていたゼンは、歓声を上げて湖に駆け込みました。
フルートが水の中から立ち上がりました。兜の下の金髪から水のしずくが垂れていますが、傷ひとつなく元気です。
「良かった、無事だったんだな!」
ゼンが喜んで飛びくと、フルートは笑ってみせました。
「うん、この鎧は特別製だからね。熱や寒さには絶対負けないんだ」
「てっきりグラージゾと一緒に焼け死んじまったのかと思ったぞ。あんまり心配させるな」
とゼンは怒ったようなことを言いましたが、やっぱり満面の笑顔でした。
グラージゾはすっかり燃え尽きて、湖の中の浅い場所に灰がうずたかく積み重なっていました。水中にあった体も、炎の剣の火勢があまりに強かったので、ほとんどが燃えてしまったのです。
それを見回して、ゼンがしみじみと言いました。
「やっつけたな、俺たち」
「うん、やったね」
とフルートもうなずきます。
すると、灰の中にきらりと光るものが見えました。フルートが拾い上げてみると、それは一抱えもある丸い紅い石でした。つるつるに磨き上げられていて、一点の曇りもありません。
とたんにゼンが声を上げました。
「力のルビーだ! グラージゾが源の間から盗んでいったやつだぞ!」
フルートは目を丸くして、それから、ほっとした顔になりました。
「じゃあ、グラージゾはこれを呑み込んでいたんだ。炎で燃えたり傷ついたりしなくて良かったなぁ」
「それこそ、そいつも魔法の道具だからな。炎くらいじゃびくともしないさ。よぉしフルート、これを町に持って帰ろうぜ! 人間を馬鹿にしていた連中に見せつけてやろう!」
ゼンはまるで自分のことのように喜んでいました。先に立って岸に駆け上がると、底抜けに陽気な声で手招きします。
「さあ行こうぜ、フルート! 町に凱旋だ!」
フルートも笑顔になると、ゼンを追って駆け出しました。
後に残された地底湖は、何事もなかったように穏やかに静まりかえっていました。