メールは入り組んだ深い森の中を獣のように通り抜け、やがてなだらかな斜面に出ました。そこも雪と木々におおわれていましたが、巨大な木が一本、森から頭を出していました。真冬にもたくさんの葉を茂らせているので、ひときわ黒い影のように見えます。
木の下に入ると森の中はいっそう暗くなって、足元がまったく見えなくなってしまいました。さすがのメールもそれ以上進めなくなって、立ち往生してしまいます。
すると、あたりがぽうっと明るくなって、雪がまたきらきらと輝き始めました。メールは振り向き、ゼンが白く光る石を掲げているのを見て笑顔になりました。夜目の利くゼンにこの程度の暗さはなんでもありません。彼女のために灯り石を出してくれたのです。
メールは行く手にぼんやり見える巨木を指さして言いました。
「あたいたちを呼んでるのって、あの木だよね? なんなのさ、あの木。ものすごい迫力だよ。周りの木がみんなあの木に敬意を払ってるんだ」
ゼンは面白そうに、にやにやしました。
「んなことまでわかるのか──。あれは王様の樹だ。俺たちはそう呼んでる。俺たちには王様なんかいねえけどよ、あの木の近くを通ると、なんでだか無視できねえ気がして、必ず挨拶に立ち寄るんだ。狩りの途中や狩りの後、山の中を見て回るとき、何か大きな出来事があったときにも報告に行く。そんな気持ちにさせる木だから、王様の樹と呼ばれてるんだ」
ふぅん、とメールは言うと、両手を後ろに組んで王様の樹を眺めました。ゼンが掲げる灯りはあまり強くありませんが、光が雪に反射するので、奥まで届いて木を照らしていました。信じられないほど太い幹が大地から伸び上がって、空一面に枝を広げています。
「それってすごく正しいよ。あの木は山の他のどの木より年を取ってて大きいんだ。だから、あの木は山のもの全部を見守ってるし、他の木もみんなあの木を敬ってる。この山の上のことならなんでも知っている、って木が言ってるよ。ゼンたちにもそれがわかってるんだね。王様の樹かぁ。ぴったりの呼び名だね」
「来い。俺たちも王様の樹に挨拶しようぜ」
とゼンは片手に灯り石を掲げ、もう一方の手でメールの手を引きながら、巨木の根元まで行きました。雪の中からもつれた大蛇のようにのぞいている根の間に立って、メールと木を見上げます。
「俺たちはこの木にいろんなことを報告するぜ。天気のこと、季節のこと、その日の獲物のこと、地下の洞窟であったこと……。特に大事なことが起きたら、必ず報告に来る。親父も俺が生まれたときに報告に来て、俺が元気に育つように見守ってくれ、って頼んだらしい」
「その通りになったじゃん」
とメールはくすくす笑いましたが、急に真顔になって木を見上げました。
「え──なに?」
「王様の樹がなんか言ったのか?」
とゼンは聞き返しました。
「うん。急にさ、おめでとう、って……なんでそんなこと言うんだろ? 今夜は何か特別な日なのかい?」
それを聞いて、ゼンはちょっと苦笑しました。自分も王様の樹を見上げて言います。
「本当に、この木にはなんでもわかっちまうんだよな。俺がなんのためにおまえをここに連れてきたのか、ちゃんと知ってるんだ」
メールはますます意味がわからなくなって、きょとんとしました。王様の樹を見上げますが、木はその時には何も言おうとしませんでした。
すると、ゼンがまったく関係なさそうな話を始めました。
「メール、おまえ、いくつになった?」
「え、あたいの歳? そんなの、ゼンもよく知ってるじゃないか。十七だよ。ついこないだ誕生日が来たんだからさ」
「だよな。で、俺も十七だ。俺は一月が誕生日だった」
やっぱりゼンが何を言おうとしているのかわからなくて、メールはゼンを見つめてしまいました。彼が何かをためらっていることに気がついて、急にじれったくなってきます。
「なにさ!? 言いたいことがあるなら、うじうじしてないではっきり言いなよ!」
どなるように言うと、ゼンもたちまちどなり返してきました。
「馬鹿言え、誰がうじうじしてる! 俺はただ、ドワーフのしきたりの話をしようとしてたんだよ!」
「しきたりって、どんなしきたりさ!?」
「ドワーフは十八から結婚できるが、婚約は一年前の十七でできるってことだ!」
あれ、とメールは目を見張って顔を赤らめました。ちょっとうろたえながら言い返します。
「な、なんで今さらそんなこと言い出すのさ? あたいたち、もうとっくに婚約してるじゃないか。あたいたち海の民は十四で結婚できるけど、ドワーフは十八にならないと結婚できないから、それまで待てって言っただろ……」
「婚約式はやってねえだろうが。できなかったんだよ。俺もおまえもまだ十七になってなかったからな」
灯り石に照らされたゼンの顔が意外なくらい真面目だったので、メールはますます赤くなりました。冗談まじりの憎まれ口で返そうと思ったのですが、ことばが出てきませんでした。急に胸がどきどきしてきて、ゼンと向き合ったまま立ち尽くしてしまいます。まるで初めてゼンから結婚の話を切り出されたときのようです──。
「洞窟のドワーフたちは鍛冶の神の祠(ほこら)で婚約式をするんだが、俺たち猟師は鍛冶の神は信じてねえ。だから、この王様の樹に婚約を報告に来るんだ。俺の親父とおふくろも、結婚を決めたときにこの木の前に来て結婚を約束したんだとよ。それが婚約式なんだ。俺たちはどっちも十七になった。ちょうどいい機会だから、王様の樹に報告に来たんだよ」
そこまで話して、ゼンも急に照れくさそうな表情に変わりました。顔を赤くしながら聞き返します。
「やっぱり今さらか? 実際には二年も前から婚約してたわけだもんな。おまえら海の民なら、とっくに結婚して子どもも生まれてるような歳なのに、ここまで引き延ばして待たせてるわけだしよ……」
メールは急いで首を振りました。
「ううん、いいよ。素敵だよ。二人で王様の樹に報告しよう。それが正式だもんね」
「おう」
ゼンが嬉しそうに笑ったので、メールも嬉しくなって笑顔になります──。
二人は王様の樹の前に立つと、手をつないだまま梢を見上げました。
先にゼンが口を開きます。
「王様、こいつが俺の婚約者のメールだ。俺たちはこれから闇の竜や闇の軍勢と戦う。たぶんこれが最終決戦だ。どのくらい時間がかかるか、今はわかんねえけど、戦いが全部終わって十八の歳になったら、俺たちは結婚するぜ。必ずだ」
それを聞いてメールは吹き出してしまいました。驚くゼンに言います。
「やだなぁ、その言い方。そんなふうに言って最終決戦に向かったヤツって、結婚できずに死んじゃうのが定石なんだよ。縁起でもないじゃないか」
ゼンはむっとした顔になりました。
「なんだよ、定石って。こっちは真面目に報告してんのに、縁起でもねえのはそっちだろうが」
「そんなに構えることないって言ってるんだよ。相手は木なんだからさ。もっと素直に言えばいいんだ。ほら──」
メールはつないでいたゼンの手を引いて、大木の幹に一緒に掌を押し当てました。あの優しい声で話しかけます。
「王様、あたいたちは十八になったら結婚するからね。だから祝っておくれよね」
ゼンは肩をすくめると、メールに続いて言いました。
「ってことだ。戦いが終わったら絶対に結婚するから、見ててくれよな」
「もう! 戦いのことなんか、今は言わなくていいんだってばさ!」
とメールがまた叱ります。
すると、そんな二人の目の前に、小さな何かが落ちてきました。木に押し当てていた手の上にちょうど載って止まります。
それは薄緑色の細い枝を編んだ二つの指輪でした。とても小さな指輪と、ひとまわり大きな指輪があります。
「こんなもん、どっから来たんだよ?」
とゼンは驚きました。指輪が落ちてきたあたりには、太い枝や重なり合った葉が見えるだけです。
すると、黙って木を見上げていたメールが言いました。
「あたいたちの婚約指輪だよ。王様からの贈り物だってさ。こんなことは滅多にやらないんだけど、あたいたちには特別だって」
ゼンは目を丸くすると、赤くなって頭を掻きました。
「そういや、婚約には指輪が欲しいんだったな。すっかり忘れてたぜ……ありがとうな、王様」
そこで二人は木の枝を編んだ指輪を取り上げました。ゼンはメールの左の薬指に、メールはゼンの左の薬指に、それぞれ指輪をはめます。
すると、二人の指の上で指輪が見えなくなっていきました。確かにそこにある感触はするのですが、目には何も映らなくなってしまいます。
「魔法の指輪か」
とゼンがまた驚いていると、メールが聞き耳を立ててから言いました。
「この指輪の枝は生きてて聖なる力を持ってるから、闇の敵からあたいたちを守ってくれるってさ。あたいたちが結婚指輪をかわしたときに、役目を終えて枯れていくんだって」
「そうか」
ゼンはメールの左手に自分の左手を重ねて、また木の幹に押し当てました。黒々と広がる夜空のような梢を見上げて言います。
「約束する。俺たちは必ず勝って結婚する。そしてまた王様に報告に来るからな」
「うん、あたいも約束するよ。またここに来るからね。それまで見守ってておくれよね」
とメールも言います。それが二人の婚約の誓いでした。
そっとかわされた口づけに、王様の樹がきらめく夜露を散らしました──。