その日からテリーはまたリーンズの元へ来なくなりました。これで三度目ですが、友人が急に姿を消したので、さすがにリーンズは心配になっていました。毎晩客引きに立ちながら、実際には客よりテリーの姿を通りに探してしまいます。
そうするうちに、通りのあちこちに不審な人影が潜んでいることに気がつきました。地味な恰好をして、人目に付かない街角や道ばたから、じっとこちらのほうを見ています。あいつらは誰だ? とリーンズは考えました。ひょっとしたら、今までずっとこんなふうに見られていたのかもしれない、とも思います。見張られていたのは、おそらくテリーのほうです。彼がまたリーンズのところに姿を現すのではないかと思って、ずっと張り込んでいるのでしょう。
「テリー、おまえ、何者なんだ?」
とリーンズは思わずつぶやきましたが、それに答えてくれる友人は、いつまで待っても現れません――。
そうするうちに季節は進み、秋も終わりに近づいてきました。
エスタとの全面戦争の気配はいっそう濃くなり、国王や諸侯はどんどん兵を募って軍隊を増強していました。商人たちは麦を大量に買い占め、農民たちは倉庫に作物や干し草を蓄え、誰もが開戦に備えます。
何も備えができない貧しい庶民は、教会へ足を運んで、戦争回避を神に祈りました。戦争が始まれば彼らの生活はいっそう苦しくなって、国が戦いに勝つ前に飢え死にするかもしれないのです。教会では司祭が戦争の愚かさと平和の尊さを説き続けていましたが、それを聞きに集まってくるのは庶民ばかりで、貴族や戦争で利益を得る大商人は、教会へまったく足を向けなくなっていました。
そんな中、リーンズも教会に行きました。開戦へなだれ込んで行きそうな状況に、彼もとうとう酒場の主人から首にされてしまったのです。神でも誰でもいいから、とにかくこの戦争をやめさせてくれ、と腹をたてながら礼拝に向かいます。
都の中心にある大教会では、礼拝を知らせる鐘が鳴り、大勢の人々が入口に続く階段を昇っていました。皆、質素な身なりの人々ですが、階段の両脇には、それよりもっとみすぼらしい恰好の人々が並んでいて、目の前を通っていく参拝者に呼びかけていました。
「旦那様方、奥様方、どうぞお恵みを」
「神の施しを哀れな者にお与えくださいまし――」
庶民よりさらに貧しい物乞いたちでした。差し出した袋や皿に信者が貨幣を投げ込むと、旦那様にどうぞ神のお恵みがありますように、と頭を下げます。
そんな物乞いの一人が、リーンズの上着の裾を捕まえました。汚れきった布をコート代わりに何枚も巻き付け、冷たい石の階段に直接座り込んだ男です。リーンズに向かって呼びかけてきます。
「哀れな者たちにどうぞお恵みを旦那様。ここには親のない子どもたちが大勢並んでいるんでございます。……素通りなんて冷たいじゃないか、リーンズ」
物乞いの口調がいきなり変わったので、リーンズはびっくりして振り向きました。男はまだリーンズの上着をつかんでいました。汚れた布の間から、テリーの顔が彼に笑いかけています――。
「テリー!! 何やってるんだよ、こんなところで!?」
とリーンズは大声を上げて飛びつきました。とたんに汗の匂いと野菜の腐ったような匂いが鼻をついて、思わず彼を突き放してしまいます。
「おい、臭いぞ! どうしたんだよ、その恰好は!?」
「ずっとここで物乞いをしていたのさ。この子たちに仲間に入れてもらってね」
とテリーはいたずらっぽく笑って自分の横を指さしました。そこには同じように汚れた布や服をまとった四、五人の子どもたちが並んでいました。礼拝に向かう人々へ、どうぞお恵みを! と呼びかけています。
「貧民街の子どもたちじゃないか。なんでこんな連中と一緒にいるんだよ?」
とリーンズは眉をひそめて尋ねました。貴族の中には下々の生活を真似て喜ぶ道楽者もいますが、それにしても度が過ぎている、とあきれます。
すると、テリーが言いました。
「君に言われたことを実行しているんだよ。教会に礼拝に来る人を、よく見てよく聞いて、どんな人物か観察しているんだ」
「なんのために?」
「誰が戦争に反対しているか、見極めるためにさ。市民の多くは反対している。これはよくわかる。問題は貴族たちだ。戦争は国益にならない、と誰が本気で考えているのか、確かめてみたかったんだよ」
それを聞いて、リーンズは本当にあきれてしまいました。この友人の思考ややり方には、どうにもついていけない部分があります。
「で? そんな気骨のある貴族は見つかったかい? こうやって集まってくるところを見ていたって、貴族なんか全然いないみたいだけど」
「そうでもないさ。おおっぴらに来ればとがめられると考えて、人目につかない時を選んで、こっそり礼拝や献金に来る貴族たちもいたよ。大貴族より小貴族が多かったな」
「戦争になったら参戦しろと言われている小貴族だろう? 戦支度(いくさじたく)をする金がないし、広くもない自分の領地を戦争で荒らされるから、戦争なんか起きないほうがいいと思っているんだ」
「うん、そんな話を司祭たちとしていたな。どうせ勝っても自分たちにはほとんど恩恵がないんだから、それなら戦争なんか起きないほうがいい、って――」
テリーがそこまで話したとき、急に階段の下から騒ぎが聞こえてきました。三人の男たちが大声を上げながら階段を昇ってきたのです。拳を振り上げ、礼拝に向かう人々をどなりつけています。
「おらおら、誰だよ、国王陛下のご意志に逆らっているヤツは!?」
「戦争に反対している不届きな連中め!」
「俺たちが不敬罪でしょっぴいてやるぞ!」
言っていることはまるで警察か憲兵のようですが、いかにも乱暴そうな集団で、腰の剣を半分引き抜いて刃をちらつかせては、げらげら笑っています。人々は身をすくめて階段の端に寄りました。あわてて駆け上がって教会に逃げ込んでいく人々もいます。
「まずい、あれはドール侯爵の子飼いのごろつきだ。反戦の礼拝を邪魔しに来たんだぞ」
とリーンズは言いました。侯爵の命令を受けて都のあちこちで恐喝や乱暴を働く連中だったのです。テリーは眉をひそめました。
「ドール侯爵の? どうして直接侯爵がやってこないんだ?」
「大貴族がわざわざそんなことをしに来るかよ。教会に手を出せば、教会や信者ともめるのはわかっているから、自分は屋敷の中から命令を下すだけなんだ。連中はいつだってそうだ。自分たちは安全な場所にいて、自分の手を汚そうとはしないんだよな」
リーンズの話にテリーは黙り込みました。階段を昇ってくる男たちを見据えます。
すると、ごろつきの一人が急にどなりました。
「なんだ、貴様! 乞食(こじき)のくせに俺たちの邪魔をしようっていうのか!?」
それはテリーに向かって言ったことばではありませんでした。物乞いの子どもの一人が、袋からこぼれた銅貨を追いかけて、男たちの前に飛び出してしまったのです。
「ふてぇガキだ!」
「こんなゴミ屑はさっさと排除しなくちゃなぁ!」
銅貨を拾い上げた子どもは、恐怖に目を見開きました。男たちが笑いながら迫ってくるのを見て、動けなくなってしまいます。男たちの腰の剣が、ぎらりと光りながら鞘から引き抜かれ、立ちすくむ人々の間から悲鳴が上がりました。リーンズも、子どもが切り殺される場面を想像して、思わず目をつぶってしまいました。
すると、リーンズの隣でいきなり声が上がりました。
「よせ! やめろ!!」
驚いてリーンズが目を開けると、テリーが駆け出していました。物乞いの子どもをかばって抱きしめ、ごろつきたちをどなりつけます。
「こんな子どもに卑怯な真似をするな! 恥を知れ!」
ごろつきたちは、おっと驚き、先より大声でどなり出しました。
「恥を知れだとよ! ゴミ溜めの恥知らずの乞食のくせに!」
「ガキの親父かぁ? しつけがなってねえぞ! 親子まとめてお仕置きだ!」
「国王陛下の粛正(しゅくせい)だぜ――!」
「国王がそんなことを命じるものか!!」
とテリーはどなり返しました。男たちが剣を振りかざして迫ってきても、相手をにらみつけたまま、謝ろうとも逃げようともしません。
リーンズは思わずその場から飛び出しました。子どもを抱いた友人の前で手を広げ、階段に膝をついて、ごろつきたちに嘆願します。
「お許しを! お許しを、旦那様方! 彼は――彼らはその――」
けれども、それは男たちの怒りを収めるどころか、逆に火に油を注ぐ結果になりました。
「なんだ、乞食の仲間かぁ!?」
「陛下に逆らう国賊どもだ! まとめて成敗(せいばい)してやる!」
剣がリーンズにも振り上げられます。やめろ! とテリーが頭に絡めた布をかなぐり捨てて立ち上がりますが、男たちは止まりません。剣がリーンズやテリーに振り下ろされてきます――。
ところが、剣は直前で別の剣に受け止められました。リーンズたちの前に大柄な男が飛び込んできて、自分の剣で攻撃を受け止めたのです。次々に剣を跳ね返して、響き渡るような声でどなります。
「何をやっている、おまえたち!? ここは教会の入口だぞ! 神聖な場所で刃傷沙汰(にんじょうざた)とは何事だ! 地獄に堕ちたいか!?」
リーンズとテリーは目を丸くしました。助けに飛び込んできた男を知っていたのです。
「ワルラさん!」
とリーンズが思わず言うと、おっ? と男は振り向きました。
「なんだ、誰がもめているのかと思ったら、おまえたちだったのか。どうした、その恰好は? 乞食をするほど落ちぶれているようには見えなかったがな?」
と、ワルラもあきれたようにテリーを見ます。そんなワルラは、今日は鎧兜は身につけていませんでした。普段着に大きな剣だけを腰に下げ、今はそれを抜いて彼らを守ってくれています。
ワルラが後ろを向いている隙に、男たちがまた切りかかってきました。前、前! とリーンズが焦ると、にやりと笑います。
「大丈夫だ。こんなへなちょこ連中にやられはせん」
前に向き直ったとたん、また男たちの攻撃を受け止め、今度は剣を跳ね飛ばしてしまいます。男たちは武器をなくして真っ青になりました。戦うか逃げるか、判断に迷って立ちすくみます。
するとワルラが自分の剣を収めて飛び出しました。
「遅い! そんなことで迷えば、戦場ではたちまちあの世行きだぞ!」
と素手で男たちを殴り飛ばしていきます。吹き飛ばされ、階段を転げ落ちて、男たちはほうほうの体(てい)で逃げ出しました。
「お、覚えていろ! ただではおかねえからな――!」
と捨て台詞だけは忘れずに残していきます。
やれやれ、とワルラはそれを見送りました。周囲の人々がやんやの拍手を送ってきたので、苦笑いで頭を振ります。
「教会にあんな連中がやって来るようじゃ世も末だな。警察さえ来ないんじゃないか」
「来るはずないよ。あいつらは大貴族の息がかかった連中だからね。助けてもらって命拾いしたけど、あんたも俺たちもドール侯爵から目を付けられたな、きっと」
とリーンズが言うと、ワルラは目を丸くして頭をかきました。
「そうだったのか? だとすると失敗したかな。ますます雇ってもらえなくなりそうだ」
「君ほどの腕前の戦士が、まだ軍役に就けないでいたのか?」
とテリーが言うと、ワルラはいっそう苦笑いしました。
「もともと俺はグワン候ににらまれて、故郷にいられなくなった人間だからな。国王陛下なら雇ってくれるんじゃないかと思ったんだが、グワン候から連絡が回っていたようだ。辺境部隊になら雇うと言われて、悩んで神様にお伺いを立てに来たところだったのさ。辺境部隊だと北や南に飛ばされて、ロムドを守る役目にはまず就かせてもらえないからなぁ……」
陽気な顔が一瞬真剣になりました。ひげを生やした口が深い溜息をつきます。
そこへ教会の鐘がまた鳴り響きました。礼拝開始の合図です。
「おっといかん。じゃあな、おまえたち。これからは気をつけろよ」
とワルラは他の信者たちと一緒に階段を駆け上がっていき、後にはリーンズとテリーと物乞いたちが残されました。物乞いたちが、仲間の子どもの無事を喜びます。
テリーはリーンズの隣に立ったまま、教会を見上げていました。低い声でつぶやきます。
「だめだ……この国はこのままじゃだめなんだ……」
リーンズは友人を見ました。言いたいことも聞きたいこともたくさんあったのに、友人があまり真剣な様子なので、口に出すことができません。
礼拝堂の中から、平和を願い神を賛美する歌声が流れてきました――。