銀髪の青年は本当に彼の仕事が終わるまで待っていました。
広場の教会で鐘突き男が深夜の鐘を鳴らす中、彼は青年にワインを注いでやりました。
「ほら、これを試してみなよ。口に合えばいいけどな」
青年はそれまでずっと石段に座り続けていましたが、コップを差し出されたので、腰を上げて受けとりました。そうやって立ってみると、身長は彼より少し高いのですが、太っているわけでも痩せているわけでもない、ごく普通の体格をしていました。顔立ちも、醜いわけではありませんが、かといって美男子というわけでもありません。ただ、どことなく育ちの良さそうな上品さが漂う若者でした。今も、小さなコップを受けとると、街灯の明かりにワインを透かしてから、味わうように呑み干します。
「へぇ……確かにいいワインを出す店なんだな。このあたりの人たちは、こんなにおいしい酒を呑んでいたのか」
と感心した青年に、彼は思わず笑いました。
「まさか。これは特級品だよ。貴族とか、貴族の家の召使いに勧める特別な品だから、一般の連中にはとても手が出せないさ。俺は籠の中に何種類か持ち歩いて、その客にとっての『いい酒』を勧めているのさ」
それを聞いて、青年は彼を見つめてきました。
「ってことは、ぼくを貴族だと判断したってことか。どうしてそう思ったんだ?」
彼は肩をすくめました。
「見ればわかるよ、そんなのは。どんな育ち方をしたって、どれほど落ちぶれていたって、貴族は貴族だし平民は平民だ。全然違う。それに、こう見えても、俺だって貴族の出なんだ。小貴族の中の下も下の家柄だし、父親が早くに病気で死んだから、平民より貧乏だけどな。おかげで、学校を出た後は、こうして酒場の客引きをして働いてるってわけさ」
ふぅん、と青年は言いました。
「苦労しているんだな。でも、君が選ぶワインは確かにおいしい。瓶で買うから、もう一杯ついでくれないか」
「瓶は一万ロムだけど……おっと、金貨で即金か。まいどあり。あんたは今日一番の上客だよ」
と彼は笑って言いました。今日は十二人も客を店に案内した上に、薬酒の小瓶が一本と、この高級品が売れたことになります。一日の稼ぎとしては充分すぎるくらいでした。店の主人からも賃金をはずんでもらえることでしょう。
すると、青年がワインの入ったコップを彼に差し出してきました。
「さあ、これはぼくからのおごりだ。さっきの質問に答えてくれないか」
「ああ、どうしてあんなに客引きが成功するのかって? 言っただろう。その客にとっての『いい酒』を勧めているからだよ。その人がどんな気分でいるのか、どんな状態にあるのか、どのくらいならワインに金が出せるのか――そんなのを考えながら、その人の求める上限に近い品を勧めているんだよ」
と彼は答えて、遠慮なくワインを呑みました。商売のために持ち歩いていても、貧乏人の彼には滅多に口にすることができない高級品です。その味を堪能(たんのう)しながら話し続けます。
「例えば、今日一番最初の客になった大工は、ここから七本向こうの通りに店を構えている親方だ。広場の向こうで貴族の屋敷の修理をしていて、今日、その工事が終わったんだよ。そういう大きな仕事を終えたときには、ああ、やれやれ、という気分になるし、ちょっといい酒とうまい料理で祝杯を上げたくなるじゃないか。だから、大工たちが普段呑んでいるのより一段上の酒を勧めたのさ。次の客だった奥さんは、買い物籠に魚を入れていたから、それに合うワインを勧めてみたんだけど、旦那が呑めないって言うから、奥さんのほうに勧めてみたのさ。あの奥さんは四番街では美人で有名な人だから、美容にいいと言えばきっと興味を持つと思ったんだよ。その次のお客さんは――」
「ちょ、ちょっと待て」
と青年が急に話をさえぎりました。彼をまじまじと見ながら言います。
「君の話を聞いていると、今日の客を全員知っているような口ぶりじゃないか。知り合いを見つけて声をかけていたのか?」
「向こうは俺のことなんか知らないよ。俺が向こうを知っているだけさ」
と彼は答えて、ゆっくりワインを呑み干しました。普段なら、商売のことをこんなに詳しく話したりはしないのですが、上等のワインを御馳走になったお礼に、少しだけ手の内を明かして見せます。
青年が眉根を寄せました。さらに確かめるように彼を見てから、尋ねてきます。
「ということは、君はこのあたりの人のことを、普段からかなり知っているっていうことか。その上で、今夜呑みたそうな人を選んで声をかけているんだな? いったいどのくらいの人を把握しているんだ」
「夕刻から夜にかけて、ディーラのこの北の通りを利用する人は、だいたい全部覚えているよ。職業も家も、どのくらい金を持っているのかもね。何人ぐらいかって? さあ。少なくとも数百人――ひょっとしたら、千人以上わかってるかもしれないなぁ」
なんでもないことのように彼が言ったので、青年は目を丸くしました。しばらく考えてから、感心したように言います。
「すごい才能だ」
「必要に迫られてやっているだけさ。それに、昔から記憶することは得意なんだ」
「それにしたって、すごいさ。このディーラの人口は二万人だ。その二十分の一以上を君は知っているわけだからな。さあ、もう一杯呑めよ」
とまたワインを彼についでくれます。
彼は、アルコールが回って、ほろ酔い加減になってきました。熱心に聞いてくれる相手がいることも嬉しくて、青年と並んで石段に腰を下ろすと、さらに話を続けます。
「もちろん、知ってる人だけが通るわけじゃない。よそからも大勢ディーラに来るからな。そういう人たちには、服装やことばづかいから、どのあたりからなんのために来たのかを判断して声をかけるのさ。ロムド国内から都見物に来たおのぼりさんには、ディーラの名前の入った酒や名物料理を勧めてみるし、長旅で疲れているような外国人には、故郷の地酒がありますよ、と言ってみる。はずれることもあるけれど、けっこううまくいくことが多いね」
「聞けば聞くほどすごい話だな。ディーラの中だけでなく、他の地方や外国のことまで頭に入れているってわけか。どこでそんなことを教わったんだ?」
「教わってなんかいない。独学だよ。あとは、ひたすら人物観察だ。よく見て、よく聞いて、想像してみれば、けっこういろんなことがわかるからな」
いつの間にかワインの瓶はほとんど空になっていました。青年が彼に勧め続けていたのです。それに気がついて、彼はまた笑いました。
「良かったのかい? あんたの呑む分がなくなっちゃったじゃないか」
「いいさ、君への謝礼だよ。君の話は実に面白い。明日もまた来ていいかな?」
「仕事明けならな。雨が降らない限りは毎晩いるよ。ところで、俺のほうからも聞いていいか? あんたは誰だ? 俺はディーラに住む貴族は顔も名前もほとんど知っているし、そこの子どもたちもけっこう知っているんだけれど、あんたは見たことがなかった。でも、あんたは都の外から来たようにも見えない。どこの家の人間なんだ?」
とたんに、青年は顔つきを変えました。一瞬すべての表情を消し、すぐに苦笑いを浮かべて言います。
「それは言いたくない――。でも、怪しい者じゃないよ」
「疑ってるわけじゃないさ。訳ありなのか。まあ、貴族の家にはよくあることだけれどな」
と彼は言いました。きっとどこかの貴族の隠し子なんだろう、と見当をつけます。彼が存在していることを世間に明らかにできなくて、どこでも姓や親の名を言うことができないのでしょう。
「じゃあ、名前だけでも教えてくれ。いつまでも『あんた』じゃ呼びにくいからな」
と言うと、青年はそれにはすぐに答えました。
「テレンスだ。テリーでいい。君は? なんていう名前なんだ?」
聞き返されて、彼も答えました。
「レフィーだよ。レフィー・リーンズ」
「リーンズか」
と青年はうなずきました。街角のかがり火の光に、青年の淡い銀髪が光ります。彼をのぞき込む瞳は賢そうな深い灰色です。
「じゃあ、明日の夜またここで、リーンズ」
「ああ、また」
と彼は答えて、新しい友人が立ち去っていくのを見送りました。中肉中背の姿が人のいなくなった通りを遠ざかって、角を曲がっていきます。
その時、通りを挟んだ向かいの角で人影が動きました。通りを素早く横切り、テリーという青年の後を追うように、消えていきます。
彼は、はっとして、急いでそちらへ走りました。ところが、角を曲がると、青年の姿はもうどこにもありませんでした。後を追っていた人影も見当たりません。ほんの数十秒の間の出来事です。
「……どうなっているんだ?」
リーンズは茫然とつぶやいてしまいました。