城下町に夕暮れの気配が漂い始め、通りに人が増えてくると、彼は石の階段からおもむろに立ち上がりました。黒いフェルトの帽子をかぶり、かたわらに置いていた籠を取り上げて、つぶやきます。
「さて、そろそろ始めるか」
籠の中に入っているのは、洗いさらしのナプキンに包まれた数本のワイン瓶です。
通りはさまざまな恰好の人たちであふれていました。道具袋を下げて職場から帰っていく職人、夕食のパンを籠に入れて家路を急ぐ主婦、これから街へ遊びに繰り出そうとする青年たち……。
彼は大工道具を背負った職人に目をつけました。さっと追いかけて近寄っていくと、気さくに話しかけます。
「こんばんは、親方、今日もお仕事お疲れさまです。この先の店に、うまいワインが入ったんですよ。試してみませんか?」
と籠の中から瓶とコップを取りだして、大工の目の前で注いでみせます。とまどったように足を止めた大工は、はいどうぞ、とコップを差し出されて、ついそれを受けとってしまいました。中で赤い液体が宝石のように光っています。
「えらく綺麗なワインだな。上物だろう」
と大工が言いました。コップを眺めていますが、呑もうとはしません。
彼はにっこり笑ってみせました。
「一昨年当たり年だったルルドーラの赤ワインです。利き酒だけなら無料ですから遠慮なくどうぞ」
無料ということばに大工の心が動きました。ちょっとためらってから、ぐっと一息で呑み干します。小さなコップだったので、ほんの一口分だったのです。口ひげに着いた液体を舌でなめてから、うーむ、とうなります。
「確かにうまいな。これと鶏の煮込みで一杯やったら最高なんだが、値段も最高だろうからな」
「いいえ、親方が心配するほどの値段じゃありませんよ。この年、ルルドーラでは上等なブドウがたくさん穫れたから、上等なわりに手頃なんです」
と彼は言って、大工にワイン一杯の値段を耳打ちしました。
「なんだ、そんなもんか!」
と大工は声を上げ、確かめるように彼の籠をのぞき込みました。
「本当にそのワインが店にあるんだろうな? 利き酒だけ上等なのを持ってきてるわけじゃないだろうな?」
「やだな、親方、疑わないでください! ユリスナイ様にかけて、正真正銘、店にある酒ですよ! 俺がこの手で店の樽から瓶に詰めてきたんだから。値段だって店の旦那から聞いてきたから間違いありません。店でルルドーラって言ってくれれば、すぐ出してもらえます。それに、うちの鶏の煮込みはめちゃくちゃうまいですよ」
ほほぅ、と大工は声を上げました。
「うまい鶏もあると聞いたら、行かなくちゃならんな。おい兄ちゃん、その店はどこにあるんだ?」
「この先の角を右に曲がって四軒目の、ケイルーって店です。入口にブドウとカップの看板が掛かってるから、すぐわかりますよ。まいどありぃ!」
彼の元気な声に送られて、大工はいそいそと酒場に向かっていきました。すぐ先の角を右へ曲がっていきます。
大工の姿が見えなくなると、彼はすぐに後ろを振り向きました。
「まず一人。次はと――うん、あれだな」
と今度は買い物籠を下げた主婦に目を付けて、近づいていきます。
「奥さん、奥さん、今夜のおかずは何? もし魚だったら、ぴったりの白ワインがあるんだけど、どうかな?」
あら、と主婦は足を止めました。
「当たりよ。旦那がヒメマスの唐揚げを食べたいって言ってね。でも、ワインはいらないわ。うちの旦那は下戸(げこ)なの」
「へぇ。奥さんの料理をワインと一緒に食べたら、もっとおいしくなるだろうにね。奥さんは呑まないの?」
と彼は話し続けました。
「呑まないわけじゃないけど、旦那を差し置いて、あたしだけ呑むわけにはいかないじゃない。叱られちゃうからね」
「厳しい旦那様だね。じゃあさ、こっちのはどう? 薬草入りの甘いやつで、夜寝る前に呑むと体が温まって、ぐっすり眠れるんだけどね。血の巡りが良くなるから、肌が綺麗になって美容にもいいんだよ」
「あら、あんた薬酒も持ってるの? そうねぇ、このところ、旦那がよく眠れないって言ってるから、買ってもいいかしらね。美容にもいいって言うなら、あたしもちょっとお相伴できそうだし――」
明らかに後者のほうの目的で、主婦は値踏みするように彼の籠を見ました。彼はすかさず瓶を出してみせました。
「こっちの大きいのは二千ロム。でも、これだけあれば、たっぷり二ヶ月は持つよ」
「ちょっと、やめとくれよ。そんな大金、持ってるわけないじゃないか。いくら体にいいって言ったってさ」
と主婦が渋い顔になると、彼は今度は小さい瓶を出して言いました。
「じゃあ、こっちのお試し用はどう? これなら五百ロムだけど、奥さんは美人だから四百五十――ううん、四百ロムにまけておくよ。これ飲んでもっと綺麗になって旦那さんを喜ばせてあげなよ」
「まあまあ、若いくせに一丁前のことを言って! いいわ、四百ロムなら手持ちがあるから、そっちを買うことにするわ。はい」
「まいどありぃ!」
小さな酒の瓶を籠に入れて、うきうきと立ち去る主婦へ、彼はまた大声で言いました。
「これで二人。さあ、次は――」
と彼がまた通りに客を探そうとすると、道の外れの石段に座る人物と、突然目が合いました。いつからそこにいたのか、じっと彼のほうを見つめていたのです。白いシャツに濃い灰色の上着とズボンを身につけた青年で、淡い銀色の髪を後ろで束ねています。歳は彼より少し若そうに見えます。
「なんか用かい?」
と彼が尋ねると、相手は自分の膝に頬杖をついて、のんびりと言いました。
「不思議だなぁ、と思っていたのさ。ぼくはずっとここに座って君を見ていたんだけれどさ、君が声をかけた人は、ほとんど全員が店に足を運んだり、酒を買ったりしているじゃないか。数えてみたら、成功率は八割五分だ。どうやったらそんなすごいことができるんだい?」
彼は思わず肩をすくめてしまいました。この青年が二、三日前から夕方になるとこの場所に来て、自分や通りの人々を見ていることには気づいていましたが、そんなことを観察していたのか、とあきれてしまいます。
「こっちだって商売だ。客になりそうな人間を見極めて声をかけなくちゃ、しょうがないじゃないか」
と答えると、銀髪の青年は頬杖のまま頭を振りました。
「それだけじゃないだろう。ぼくは街中でワイン売りや客引きを見てきたけれど、君ほど確実に客を捕まえる人間はいなかったからね。何かコツがあるんだろう? 聞かせてもらいたいな」
「コツなんかないさ。忙しいんだから邪魔しないでくれよ」
と彼は青年から離れようとしました。――彼の客引きの腕前は、確かに人並み以上でした。そのことで同業者から妬まれることもあったので、そんな奴らの手先じゃないか、と用心したのです。
すると、青年が言いました。
「仕事の最後に、ぼくにもワインを呑ませてくれよ。客としてなら話をしてくれるだろう?」
「今すぐじゃなくていいのか?」
と彼は思わず振り向きました。青年は相変わらず石段に座って頬杖をついています。
「最後でいいさ。君だって仕事をしなくちゃいけないだろう」
彼は心の中で首をひねりました。どうやらこの青年は商売敵の仲間というわけではなさそうです。着ているものは地味ですが、鷹揚(おうよう)な態度やことばの端々に、上流階級の子息らしい雰囲気が漂っています
「最後でいいならね。でも、遅くなるぞ」
「かまわないよ。どうせ急いで帰ったって、何もすることなんかないんだから」
と青年が言いました。声の中に、わずかに乾いた響きが混じります。
彼はまた心で首をひねりましたが、すぐに現実に引き戻されました。通りは仕事帰りの人たちであふれています。客引きの一番の稼ぎ時を逃すわけにはいきません。別の客に目を付けて、また近づいていきます。
「旦那、今夜一杯やるところをお探しですか? この先にいいワインを出す店があるんですけどね――」
そんな彼を、銀髪の青年は、石段からずっと眺め続けていました。