フルートは赤ん坊を見つめました。
小さな体がどんどん重さを増していって、フルートには抱いていられないくらいになってきます。その上に、鎧の隙間から金の光が降りそそいでいました。金の石が放つ聖なる光です。闇のものであれば、たちまちその体が溶け出してしまいます。
ところが、赤ん坊には何も変化が起きませんでした。小さな手を拳に握り、顔を真っ赤にして泣き続けています。それを見て、フルートは赤ん坊を抱き直しました。
「闇の敵はこの子じゃない! どこか近くにいるんだ!」
またぐっと赤ん坊が重たくなります。
すると、ルルが背中の毛を逆立てて言いました。
「闇の匂いよ! 出てくるわ! みんな、気をつけて――!」
その声が終わらないうちに、足下の砂浜から一本の手が現れました。後足をつかまれてルルがキャン、と悲鳴を上げます。ポチが駆けつけて手にかみつくと、たちまち悲鳴が上がって手が引っ込みました。
「地面の中だ!」
とゼンはどなって背中からエルフの弓を下ろしました。メールはすばやくあたりを見回します。自分に使える花を探したのです。丘の上の林に花が咲いているような気がします……。
フルートは必死で赤ん坊を抱き続けました。落とさないようにこらえるのがやっとで、敵に立ち向かうことができません。赤ん坊がますます重くなるので、両足が砂にめり込んでいきます。
すると、その砂の中から人の頭が現れました。しわだらけの痩せた顔をしていて、髪の毛はほとんど抜け落ちています。あまりしわだらけなので、男か女か見極めることもできません。大きな目玉でフルートたちを見回して、ケケケと笑い声を上げます。
「いた、いたァ……! ンまそうな人間たちが……いたァ!」
フルートたちはぎょっとしました。砂の中から同じような頭がいくつも現れてきたからです。続いて砂をかき分けて体が現れます。それはどれもひどく痩せこけていました。腕や足は骨と皮ばかり、肋骨の一本一本まで浮き出て見える体の下で、腹部だけが異様に大きくふくらんでいます。
とたんに、ポチがウゥーッとうなりました。
「この匂い……こいつら、グールですよ!」
死肉食いと呼ばれる闇の怪物で、腹を減らしたときには集団で生き物に襲いかかることもあります。
「グールだぁ!? だが、それにしてもずいぶん貧相な連中じゃねえか! 飢え死に寸前に見えるぞ!」
とゼンがどなりました。グールならこれまでにも何度か戦ってきましたが、今目の前にいる怪物は、それよりもずっと痩せて、異様な姿をしていたのです。たちまち十数匹に増えて、彼らの周りを取り囲みます。
「ケケケ、久しぶりの人間、人間」
「ンまそう、ンまそうだぁ!」
「食ゥてやる、腹いっぱい食ゥてやる」
「でもよォ、いくら食っても、腹ァいっぱいにならねえんだよなァ」
「だから食ってやるのさ。何でもかんでも、骨でも歯でも、爪でも服でも、髪の毛一筋まで残さねェで、全部食ってやるゥ」
痩せこけた背中を丸め、よだれを垂らしながら迫ってきます。
フルートは汗を流しながら赤ん坊を抱き続けていました。金の石は聖なる光を放ち続けているのに、赤ん坊が重くてペンダントを外に引き出すことができないのです。この赤ん坊もやっぱり闇の仲間かもしれない、と考えて、思わず赤ん坊を投げだそうとします。
とたんに赤ん坊がひときわ大きく泣きました。とたんに、フルートは、はっとして、また赤ん坊を抱き直してしまいました。赤ん坊の声はまるで助けを求めているようだったのです。どれほど赤ん坊が重く感じられても、懸命にそれを支えます。
赤ん坊の声をグールも聞きつけました。落ちくぼんだ眼窩の奥で、ぎょろっと目玉を動かして言います。
「あんなところに赤ん坊だァ」
「いいな。赤ん坊は柔らかくてンまいぞォ」
「まずはあれからいただこォ」
いっせいにフルートめがけて襲いかかってきます。
フルートはとっさに赤ん坊をかばいました。赤ん坊の重みで今にも倒れそうになりながら、鎧を着た体でグールの攻撃を防ぎます。
「気をつけろ、フルート! グールは毒を持ってるぞ!」
ゼンがどなりながら矢を放ってきました。狙ったものは絶対に外さない魔法の矢です。怪物とフルートが接近していても、怪物だけに突き刺さって、フルートや赤ん坊は傷つけません。
グールが悲鳴を上げ、すぐに矢を引き抜いて捨てました。闇の怪物は驚異的な回復力を持っているので、傷はみるみるふさがり、怒り狂ってゼンに飛びかかってきます。
とたんにザーッという音が湧き起こりました。砂浜の横の丘からゼンの目の前に、大量の花が降ってきたのです。生きた虫の群れのようにグールに襲いかかって、花の中に包み込んでしまいます。
ゼンの横でメールが両手を高くかざしていました。
「花たち! 怪物を突き刺しておやり!」
と手を振り下ろすと、花がいっせいに身震いして茎を伸ばし、怪物の絶叫が響きます。
ポチとルルは風の犬に変身しました。仲間たちの周りを飛んでつむじ風を起こし、グールの群れを吹き飛ばします。
砂の上に転がった怪物は、ふくらんだ腹が邪魔ですぐには立ち上がれません。キィキィと怒った声でわめき、枯れ枝のような手足を振り回してもがきます。
すると、ポポロがフルートに飛びつきました。赤ん坊を抱いたまま身動きできなくなっているフルートに代わって、首の鎖をつかんで引っ張り、鎧の胸当ての中からペンダントを引き出します。とたんに澄んだ光があたり一帯を照らしました。聖守護石と呼ばれる金の石が放つ光です。人や怪物や砂浜を金色に染めます。
金の石の力は絶大でした。グールたちが悲鳴を上げながら溶けていきます……。
砂浜から怪物が残らず消えました。金の石が聖なる光を収め、後にはフルートたちと、フルートの抱く赤ん坊だけが残ります。
ゼンがフルートに駆けつけました。
「いったいどうしたって言うんだよ!? なんなんだ、この赤ん坊は!?」
赤ん坊はその頃にはもう耐え切れないほど重たくなっていました。怪物が消えれば赤ん坊も元に戻るのかと思ったのに、その様子もありません。脂汗を流して支え続けるフルートの腕に、ゼンが手をかけて、ぐっと引き上げます。
とたんに、赤ん坊が泣きやみました。黒い目で自分を抱くフルートをじっと見上げます。フルートたちも思わず赤ん坊に注目します。
すると、赤ん坊が急に、えーっと声を上げました。
フルートたちはいっそう驚きました。赤ん坊は目を細めて笑ったのです――。
いきなり腕の中が軽くなって、フルートはよろめきました。赤ん坊が消えていました。もうどこにも見当たりません。
犬の姿に戻ったポチが、茫然としながら言いました。
「ワン、あの赤ちゃんは今、ありがとうって言ったんですよ。そういう匂いがしました」
一同はますます驚きました。怪物も赤ん坊もいなくなった砂浜に、波と風の音だけが響いています。
すると、やはり犬に戻ったルルが、急に耳を動かしました。ワンワン、と砂浜の奥へ激しくほえ出します。
「そこにいるのは誰!? 出てらっしゃい!」
とたんに、大きな岩の後ろから声がし始めました。
「み、見つかっちゃったよぉ!」
「出ていったほうがいいよ」
「だって、あいつら変な恰好してるぞ」
「でも、あいつら、石ややこを助けたぞ。きっといいヤツらなんだよ――」
いやに幼い声が話し合っています。フルートたちが思わず顔を見合わせていると、岩の後ろから声の主たちがぞろぞろと出てきました。それは五人の子どもたちでした。男の子が三人、女の子が二人で、一番大きな子でもまだ十歳になっていないように見えます。全員が黒髪に黒い瞳で、肌の色はフルートたちより黄色みを帯びていました。丈の短いガウンのような服を着て、腰のところを紐でしばり、足は裸足か草を編んだサンダルばきという、奇妙な恰好をしています。
「君たちは誰? 石ややこって、あの赤ちゃんのことかい?」
とフルートは尋ねました。子どもたちがぴょこん、といっせいにうなずきます。
「そうだよ」
「この砂浜に出てくる妖怪なんだ」
「人間が抱き上げるとどんどん重くなって、そのうち抱いていられなくなるんだ。でも、下におろしちゃうと、石ややこに取り殺されちゃうんだよ」
「石ややこを最後まで抱いてたのって、お兄さんが初めてだ。石ややこはもう出てこないよ。ずっと抱いていてもらって満足したから」
フルートは思わず首をかしげました。重さに耐えきれなくなって下ろすと取り殺される、というのは物騒な話ですが、なんだかいやに淋しい雰囲気の漂う話です。ありがとう、と言って消えていった赤ん坊の笑顔を思い出します――。
すると、足下からポチが口をはさんできました。
「ワン、今、妖怪って言いましたよね? それって、怪物のことですよね?」
犬が人のことばを話しているのに、子どもたちは驚きませんでした。口々に言います。
「妖怪は妖怪だよ」
「いい妖怪も悪い妖怪もいるよ」
「いろんなところにたくさんいるんだ」
「いろんな恰好もしているよ。君は犬の妖怪?」
ポチはフルートたちを振り向きました。
「ワン、ここがどこかわかりました。ユラサイですよ。ユラサイでは、怪物のことを妖怪って呼んでるんです」
と中央大陸の東にある国の名前を言います。
ところが、一番年上の子どもがそれを聞きつけて言いました。
「違わぁ。ここはユラサイなんかじゃないよ。ここはヒムカシの国さ」
ヒムカシの国? とフルートたちは目を丸くしました――。