セシルの元へラヴィア夫人がやってきたのは、翌日の午後のことでした。
黒っぽいドレスを着て白い髪を頭の上でまとめた、小柄な老女です。顔はしわだらけで背中も丸く、杖をつきながら歩いていますが、その足取りはしっかりしています。丸い眼鏡の奥からセシルを見上げた目にも輝きがありました。
「初めてお目にかかります、未来の皇太子妃殿下。かつてこの城で礼儀作法の教育係をしていたラヴィアと申します。王女様に城の作法をお教えするよう、陛下からご依頼を受けて参上しました。よろしくお願いいたします」
口調は丁寧ですが、声にも強さがあります。思わず深く頭を下げたのはセシルのほうでした。
「オリバンからあなたの話は伺っていました……。私はロムドの作法を知りません。こちらこそ、お世話になります」
そのやりとりに、白の魔法使いが、そっとほほえんでいました。彼女は昨日からずっとセシルのそばで警護に当たっています。この男装の王女が、実は非常にきめ細かい心遣いができる女性だということに、女神官は気がついていました。今も、九十歳という高齢のラヴィア夫人に、自分から敬意を払っています。
老婦人のほうも、そんなセシルに、にっこりしました。
「王女様をセシル様とお呼びするように、と陛下から言われておりますので、失礼ながら、そのようにさせていただきます。私のことはラヴィア夫人とお呼びください」
「いいえ、先生と呼ばせていただきます――。ご教授のほどをどうぞよろしくお願いいたします、先生」
セシルが再び丁寧に頭を下げました。片手を胸に当てた男性のお辞儀ですが、ラヴィア夫人はそれを怒りませんでした。微笑する顔のまま、穏やかに言います。
「物事には順序というものがあります。セシル様は未来のロムド王妃となられるお方。まずは、このロムド王室について話して聞かせて差しあげましょう。王妃となるためには大切なことです……」
二人の女性が部屋のソファへ移動していくのを見て、白の魔法使いは一礼して姿を消しました。次の瞬間には部屋の外の通路に現れます。礼儀作法の稽古の邪魔にならないよう、席を外したのです。それでもセシルを守ってドアの外に立ち続けます。四大魔法使いのリーダー自らが見張り番なので、さすがに城の衛兵さえ遠慮して、そばには誰も近づきません。
すると、急に声がしました。
「ちょっとよろしいですかな、白?」
何もなかった空間から杖を握った大男が姿を現しました。武僧の青の魔法使いです。
「どうした?」
と白の魔法使いは尋ねました。青の魔法使いは、本当ならば城の守りについているはずの時間です。
「城の内外を見張っているうちに、ちょっと気になるやりとりを小耳にはさみましてな。相談しようと思って、赤に見張りを交代してもらってきました」
「気になるやりとり?」
「城のケールカ侯爵の部屋でよからぬ相談事です。敵国の王女をロムドの未来の王妃にするなどとんでもない、と言っている。陛下が婚約披露の宴を貴族たちに知らせましたからな。その席でセシル様に恥をかかせて、セシル様がロムド城にはふさわしくないと思わせる計画のようです」
白の魔法使いは顔をしかめました。
「陰険な計画だな。いかにも貴族たちが考えつきそうなことだ。トウガリ殿はどうしている?」
こういう陰謀を調べ上げて証拠をつかむのは、間者のトウガリが得意とするところです。
「昼から王妃様とメーレーン様が芝居観劇に出かけたので、それに同行しています。大貴族の中の不満分子がまた動き出しそうだ、と心配されていましたが、案の定ですな」
ふむ、と白の魔法使いは考え込みました。
「わかった。ユギル殿にお知らせしてこよう。ここの守りを頼むぞ」
と青の魔法使いに後を任せて、王の執務室へ飛びます――。
白の魔法使いからの報告を聞いて、ユギルが言いました。
「昨夜、陛下が王都中の貴族たちに婚約披露の知らせを出して以来、城の内外で非常に多様な動きが起きております。メイの王女が皇太子妃になることを不満に思う動きも大きく、あちこちで渦を巻くように力を集めているのです。ケールカ侯爵の企てはそのひとつです。セシル様のお命を狙うのであれば、こちらも手を打てますが、むしろこういう嫌がらせの類は、直接の危害ではないだけに取り締まりがしにくい。やっかいでございますね」
「ケールカ侯爵には妙齢の令嬢がいます。皇太子殿下のお后にする計画でいたのでしょう」
とリーンズ宰相が言います。この時、執務室にいたのはロムド王と宰相とユギル、それに白の魔法使いの四人だけでした。オリバンがこの場に居合わせたら、「いったいなんだそれは?」と困惑したことでしょう。
「セシル姫の誇りを汚させるわけにはいかぬ。どうするのが良い?」
とロムド王に尋ねられて、銀髪の占者は占盤を眺めました。
「ケールカ侯爵だけでなく、セシル様をロムドから追放しようとする動きは、非常に多くの場所で起きております。十四年前、メノア様がこの国の王妃に嫁いでこられたときと同じです。時間がたつほど危険は大きくなっていく、と占盤は言っております。婚礼披露の宴をできるだけ早めるのがよろしいかと存じます」
「どの程度に?」
とロムド王がまた尋ねます。
「あと一週間後に」
「一週間後!」
と声を上げたのはリーンズ宰相でした。頭の中で素早く段取りを計算して、思わず目を回しそうになります。
「そ、それではろくな準備が……招待される方でも、あまり急なことで支度が充分に間に合わないことでしょう!」
「愚かなことを言うな、リーンズ。それこそユギルが狙っていることだぞ」
と王がたしなめました。貴族たちが祝宴に出席する準備に大わらわになるからこそ、よからぬ企てをする暇がなくなるのです。
けれども、白の魔法使いは心配そうな顔をしました。
「貴族たちはそれでよろしいでしょう。ですが、わずか一週間で、セシル様のほうの準備が間に合うでしょうか? ラヴィア夫人との稽古は先ほど始まったばかりなのですが」
しかも、その稽古は王室の歴史を教えるところから始まっているのです。
「大丈夫です。なにしろ、あのラヴィア夫人が先生でございますから」
そう言って、かつて貧民街の悪童だった占者は、貴族のように上品に笑って見せました――。