事件は突然起きました。
天空城に知らせが飛び込んできたのです。
「大変だ、ユリスナイ! シーラが――!!」
占者のシーラは他の仲間と一緒に風の犬で地上に下りていました。大陸の一つが行くべき方向を占いで見極めるためだったのですが、その彼女が、血まみれになって天空城に運び込まれていました。
「シーラ! シーラ!」
ユリスナイが真っ青になって女占者に飛びつき、ダイダは仲間たちに尋ねました。
「いったい何があったんだ!?」
「それがよくわからないんだ。ぼくたちは大陸に散って、それぞれに回復の魔法を使っていたんだけれど、突然シーラの悲鳴が聞こえて……。獣も敵も、何も見当たらなかったのに」
シーラの着ている灰色の服は血に染まっていました。リグトは青ざめました。あまりにも出血の量が多いのです。早く助けなければ命に関わります。
ところが、医者のソエコトが言いました。
「変だぞ。傷が魔法で治らない」
仲間たちはまた仰天しました。
「どういうこと? ソエコトに治せないって――」
「傷は魔法でふさがるんだ。なのに、またすぐに傷が広がって、出血が始まってしまう。こんなことは初めてだ」
とまどうソエコトの話に、リグトは、はっとしました。魔法で癒してもすぐまた悪化していく怪我――それは闇の毒が作る傷です。怪我を負った者の体内で毒を増やして、その者を死に追いやっていくのです。
すると、シーラが目を覚まして呼びました。
「ユリスナイ」
天空王の女性はすぐにかがみ込みました。
「何、シーラ!? 何があったっていうの――!?」
すると、占者は微笑しました。青と金の色違いの瞳が細められて、ユリスナイを見上げます。
「私はね……占いから罰を受けたのよ……。とても大事なことを占いで見つけていたのに、それをみんなに教えなかったから……」
「とても大事なこと? 何、それは?」
とユリスナイは尋ねましたが、シーラはそれには答えませんでした。
「ねえ、ユリスナイ……」
と代わりに話し出します。
「あなたは本当によく働いてきたわ……。もう、自分の幸せを見つけていい時よ。天空王を他の人に譲りなさい。そして、ダイダと結婚するの……。子どもも生んで……。子どもはかわいいわ。私が言うんだから、間違いないわよ……」
シーラには今年四つになる娘がいました。母親によく似た銀の髪をしています。
シーラ? とユリスナイはまた尋ねました。目の前で、女占者はどんどん弱っていきます。その状態で何故こんなことを話すのか、ユリスナイには理解できませんでした。他の仲間たちも同様です。
すると、一同を見回して、シーラはまたほほえみました。
「ねえ……私のあの子をお願いね……。あの子自身に占いの力はないけれど、私の占者の血は、あの子の中に引き継がれているの……。遠い未来、私の力を受け継いだ占者が、またこの世界に生まれてくるわ。その占者は世界に迫る危機を見抜いて、世界を救う力の一つになるのよ。私がここでそうしたみたいに……。だから、ねえ、みんな……あの子をよろしくね……」
シーラの顔は相変わらず美しく整っていましたが、血の気が失せて、透き通るような顔色になっていました。輝く銀髪は血に染まっています――。
シーラ! シーラ! とユリスナイは女占者の手を握りしめて叫びました。
「死んじゃだめよ、シーラ! ねえ、あなたが見つけた占いってなんだったの!? あなたをこんな目に遭わせたのは何――!?」
けれども、やっぱり占者は何も話しませんでした。ほほえむ目のまま若い天空王を眺め、長い息を吐くと、そのまま力を失っていきました。
彼女の体の下には大量の血が流れていました。どれほどソエコトが魔法で傷をふさごうとしても、どうしても癒すことができなかったのです。ユリスナイと仲間たちが声を上げて泣き出しました。女占者はもう二度と目を開けません。
リグトは愕然と立ちすくみました。シーラの命を奪った闇の毒。それは誰のしわざなんだろう、と考えます。
天空の国の下に広がる地上に、得体の知れない闇の気配がしていました……。
その日を境に、地上で次々と不穏な動きが起き始めました。
せっかく緑に戻った場所を嵐が襲って、木々が残らず倒され、そこに住むものたちが住みかを失いました。大きな地震や噴火が各地で起こり、多くの命をまた奪いました。天候もまた不安定になり、せっかく植え付けた作物が全滅します――。
ユリスナイたちは全力で地上の異常を防ごうとしました。ところが、それらの出来事は、どんなに強力な魔法を使っても好転させることができませんでした。被害はどんどん広がり、家を失い、食べるものもなくなった者同士が、各地で争いを始めました。魔法を使える者も大勢残っていたので、また魔法戦争が始まりそうな気配さえしていました。
「何事なの……?」
とユリスナイは言いました。他の仲間たちも青ざめて地上の様子を眺めるばかりです。
「順調に回復していたはずよ……? それなのに、どうしてこうなっていくの? どうして……?」
けれども、いつもそんな疑問に答えてくれた女占者は、もういません。ユリスナイと仲間たちは、驚き、とまどうばかりでした。
やがて、ユリスナイは地上に下りることをやめました。地上を他の仲間たちに任せて城の一室にこもり、調べ物を始めたのです。それは、昔、光の呪文を作り出そうとしていた頃の様子に似ていました。食事も寝ることも忘れて本を読み、紙に大量の文字を書き付け、ひたすら考え続けます。そんな彼女をリグトはやきもきしながら見ていましたが、リグトや仲間たちがどれほど言っても、ユリスナイは研究をやめようとはしませんでした。
そして、ある晩遅く、ユリスナイは突然声を上げました。
「そう――! やっぱりそうだったのね、シーラ!」
リグトはまだ寝ていませんでした。声に驚いて駆けつけると、ユリスナイは机に向かって座ったまま、蒼白な顔でじっと机の上を見ていました。いったい何が? とリグトは彼女の視線を追いましたが、机の上には何も載ってはいませんでした。
ユリスナイは、黙ったまま何かを見ていました。そこにはない、遠い場所の何かです。堅くこわばった横顔は、石の彫刻のようです。リグトは突然不安になって、ユリスナイにしがみつきました。必死で彼女を揺すぶります。
すると、ユリスナイが我に返ったようにリグトを見ました。丸い眼鏡の奥で、大きな瞳がリグトの姿を映します。その瞳のさらに奥に、迷いと深い苦悩があるように、リグトには感じられました。いっそう不安になってしまって、また彼女にしがみつこうとします。
すると、そんなリグトの体が、ふわりと抱きしめられました。
リグトはびっくりしました。ユリスナイが彼に腕を回してきたのです。昔のように柔らかくリグトを撫でながら、ユリスナイは言いました。
「大丈夫。大丈夫よ、リグト……。あたしがいるから……。あなたたちになんて、手出しはさせないから……」
リグトは目を丸くしました。なんのことを言われているのか、全然意味がわかりません。ユリスナイの顔を見ると、彼女は静かにほほえんでいました。優しい優しい笑顔です。迷いや苦悩はもう見えません。
「ねえ、リグト――あたしちょっと、ダイダの所へ行ってくるわね」
と言われて、リグトはまたとまどいました。もう真夜中です。こんな時間に彼女がダイダを訪ねたことはなかったのに。
すると、彼女はまた笑いました。ほんの少し恥ずかしそうに、こう言います。
「どうしてもダイダに会いたいのよ……今すぐに。明日じゃだめなのよ。先に寝ていてね、リグト」
そして、ユリスナイは出かけていきました。白い布をマントのように絡めた姿が、城の外の闇に消えていきます。
その夜、リグトは眠れませんでした。風の音がするたびに、ユリスナイが帰ってきたのかと、はっとしましたが、とうとうその晩、彼女は城へは戻ってきませんでした。