「リグトー!」
明るい声に呼ばれて、少年はすぐに草原の中から立ち上がりました。振り向くと、少し離れた場所からユリスナイが手を振っています。
「帰りましょう! もうお昼だわ!」
リグトはすぐに籠を抱えて駆け戻りました。その中身をのぞいて、ユリスナイが笑います。
「あら、ずいぶんたくさん薬草を見つけたわね。偉いわ、リグト」
そう言うユリスナイ自身も、草原から摘んだ薬草の籠を抱えています。リグトの籠の中身より少なかったので、リグトはちょっと得意そうな顔になりました。
リグトがこの世界に飛ばされてきてから、すでに三ヶ月が過ぎていました。相変わらずリグトは話すことができません。呪文が唱えられないので、魔法を使うこともできないのですが、魔法使いの目は使うことができました。今も、その力を使って広い草原から薬草を集めていたのです。
ふふ、とユリスナイが笑いました。
「うん、そうね。今日はあたしの負け。リグトは本当にいい目をしてるわ」
結局、ユリスナイたちはリグトがどこから来たのか突き止めることができませんでした。それでも、ユリスナイはリグトをずっと家に置いてくれたのです。話せないリグトは、ことば以外のもので自分の気持ちや考えを相手に伝えるしかありません。以前はあれほど淡々として無表情だったのに、今ではすっかり表情豊かな少年に変わっていました。特にユリスナイは、顔を見ただけで、リグトが何を考えているのかわかるまでになっていました。
ユリスナイが先に立って歩き出しました。相変わらず赤い髪を後ろで一つにお下げにして、丸い眼鏡をかけています。お洒落などまったくしないのですが、その顔は明るくてチャーミングです。今もにこにこと笑いながらリグトに話しかけてきます。
「この間完成したあの呪文の本、大評判ですってよ。レートが教えてくれたの。世界中にどんどん知られているって。あの本には本を写す呪文も載っているから、自分たちで本を増やすことができるのよね」
ユリスナイの仕事は、彼女自身が言っていたように、光の魔法を作り出すことでした。世界から魔法の力を引き出し、思い通りにコントロールして使うための呪文を見つけて、それを書き留めていくのです。それは未来の世界でリグトたち天空の民が使っている呪文そのものでした。確かに光の魔法は彼女が作ったものだったのです。
だから未来の世界では彼女が光の女神になってるんだ、とリグトは納得していました。天空の国に光の魔法をもたらした女性です。長い年月の間に神格化されて、神と崇められるようになったのです。
とはいえ、本当のユリスナイは、そんな神聖な雰囲気とは無縁でした。とてもおっちょこちょいだし、ものすごい忘れん坊です。今も彼女は歩きながらつまずいて転びかけました。籠を放り出しそうになって、わったっと! とあわてて抱き直します。研究に夢中になってしまうと、忘れ物やうっかりミスがしょっちゅうです。そのたびに、リグトはユリスナイの忘れたものを魔法使いの目で見つけ出し、やり忘れることがないように、そばにいて注意してあげます。口がきけなくたって、それくらいのことはできたのです。
ユリスナイがこんな人だったなんて、天空の民は誰も想像してなかったよなぁ、と考えて、リグトは密かに笑いました。ユリスナイは本当に気取りません。とても庶民的で、身近で――そして、とても優しい人でした。素性もわからない、何一つ話すことができないリグトを、弟のようにかわいがってくれるのです。
リグトは子犬のようにユリスナイに体をすり寄せました。気持ちを表すには態度で示すしかなかったのです。ユリスナイが驚いたように目を見張り、こら、甘えん坊! と言って笑います。リグトも照れ笑いをしながら駆け出します――。
すると、行く手の草原にシーラが立っていました。風に長い銀の髪をなびかせて、色違いの目でじっとこちらを見ています。リグトはとまどって立ち止まりました。占者の女性は、今まで見たこともないほど深刻な表情をしていたのです。
「どうしたの、シーラ?」
とユリスナイが驚いて尋ねると、女性は言いました。
「今すぐここを離れなさい、ユリスナイ。ダイダと一緒に北へ逃げるの。――定めがあなたを捕まえるわ」
ユリスナイは眼鏡の奥で目を丸くしました。いぶかしい顔で占者を見返します。
「なんのこと? どんな予感がしたのよ?」
「世界が裂けるわ」
とシーラは言い続けました。その声はまるでどこか遠い場所から響いてくるようです。
「闇のよどみから生まれた竜が世界を襲うの。人々は血で血を洗う戦いを始めるわ。海は荒れ狂い、山は噴火して、多くの命が失われる。北へ逃げなさい、ユリスナイ。ダイダと、その子を連れて。北の最果ての地ならば、戦火もやってこないわ」
リグトは、はっとしました。占者が何のことを予言したのかわかったのです。リグトたちは学校で天空の国の歴史を習ってきています。その中で、この戦いのことも教わったのです。
闇のよどみから生まれた竜というのは、地上でデビルドラゴンと呼ばれている闇の竜のことに違いありません。世界中を破壊し、人々を全滅させることだけを喜びにする、悪の権化です。リグトの時代にはもう世界の最果てに幽閉されていますが、この時代ではまだ世界に実在しているのでした。
デビルドラゴンと人々の戦いは、世界の歴史の中で二度起こっています。時代と照らし合わせて、最初の戦いのほうだ、とリグトは気がつきました。闇の竜は多くの人々の心に取り憑き、人と人同士を対立させ、世界戦争を引き起こしたのです。
けれども、リグトはどうしてもそれをユリスナイたちに伝えることができませんでした。リグトは文字も書けません。ユリスナイたちの文字を読むことはできるようになったのに、書こうとすると、まったく手が動かなくなってしまうのです。それはちょうど、リグトが何も話せないのと同じことでした。未来を彼らに告げることを、何かがリグトに禁じているようです……。
ユリスナイは真剣な顔で考え込んでいました。
「戦いが始まるの? でも、どうして。今までだって、村同士の小競り合いくらいはあったけど、いつも話し合いで解決してきたでしょう? いくらシーラの占いだからって、そんなものすごいこと――」
すると、そこへ数人の男たちがやってきました。ダイダと弟のカイタ、それに行商人姿のレートです。おおい、と手を振りながら、血相を変えて走ってきます。
「ユリスナイ! レートがとんでもない話を聞いてきたぞ!」
とダイダが言いました。レートがそれを引き継ぎます。
「戦が始まった! ユガナムの人々とアダモラスの人々が争いを始めたんだ。お互いに相手の土地を自分のものだと言い張っている。いや、これは昔からの争いなんだが――連中は君が見つけた呪文を使って戦いを始めたんだよ! 信じられないほど激しい戦いになっていく!」
ユリスナイは真っ青になって立ちすくみました。思わず取り落とした籠の中から、ばらばらと薬草がこぼれ落ちます。
「……嘘……」
とユリスナイは言いました。
「そんなことって……。あれは光の魔法よ。そんな悪い目的に使うなんてことは……」
「魔法自体は聖なるものでも、使う人間はそうではないわ」
とシーラが言いました。相変わらず別の場所から聞こえてくるような、厳かな声です。
「闇の心を持つ者が使えば、光の魔法も闇魔法になる。人の命だって奪っていくわ……。逃げなさい、ユリスナイ。ここももう安全ではないわ」
ユリスナイは激しく首を振りました。
「だめよ! あたしが見つけた魔法だもの――! なんとか止めなくちゃ!」
「みんなが君の家に集まってきている! どうしたらいいか話し合おう!」
とダイダが言い、ユリスナイと一緒に先頭に立って駆け出しました。ユリスナイの家に向かって、全員で走っていきます。
後に一人残ったシーラは、長い銀の髪を風に流しながらそれを見送りました。青と金の色違いの瞳を悲しく細めます。
「定めがあなたに追いつくのに……ユリスナイ」
けれども、風の中に放った占者のつぶやきは、誰の耳にも届くことはありませんでした。