「なんだ、ずいぶん坊やが驚いてるじゃないか?」
とダイダがリグトを見て言いました。少年は真っ青になって立ちすくんでいます。ユリスナイは首をかしげました。
「本当にどうしたの? 何をそんなに驚いているの?」
リグトは尋ねようとしました。
今はいつ? ここはどこ? あなたたちは――いったい誰?
ところがことばが出てきませんでした。さっき呪文を使おうとした時と同じです。声がまったく出なくなっていたのです。
リグトは咽に力を入れて息を吐きました。音になりません。自分の首に手を当て、強く押さえ、声を振り絞ろうとします。やっぱり声は出てきません。
リグトはうろたえ、自分の胸をたたきました。強く息を吐き出し、咳払いをしてみようとします。どうしても息は声になりません。かすれ声やうめき声さえ出てこないのです。
それを見て、女性と青年は顔を見合わせました。
「しゃべれないんだわ、この子……」
「ことばを持ってないのか?」
「ううん、違うわ。必死でしゃべろうとしてるじゃない。元々はしゃべれたのよ。何か原因があって急に話せなくなったのね。かわいそうに」
女性が目を細めて手を伸ばしてきました。まるで自分が痛みを感じているような表情で少年を見て、そっとその髪に触れます。
「ローデヨエコー」
話せるようになる呪文をかけてくれます。
ところが、それでもやっぱりリグトは話せるようになりませんでした。まるで咽から声を出す器官が取り除かれてしまったようです。
「ユリスナイの魔法でもしゃべれるようにならないなんて、どういうことだ?」
とダイダが驚きました。ユリスナイも考え込みます。
リグトはとうとう立っていられなくなりました。膝が情けないほど震えて、体を支えることができません。その場にしゃがみ込んで、うずくまってしまいます。
とたんに、涙がどっとあふれてきました。どんな時でも冷静で落ち着いていたはずの自分なのに、怖くて怖くて、全身が震えます。ここは自分がいた時代から数千年も昔です。自分を知っている人は誰もいません。声を出すこともできません。話すことも、魔法を使うこともできないのです。本当に、どうしていいのかわかりません――。
すると、ふわりとリグトの体が抱きしめられました。ひときわ濃い草の香りが少年を包みます。ユリスナイがリグトに両腕を回して抱きしめてくれていました。優しい声で話しかけてきます。
「怖がらなくていいのよ。ちゃんと、あたしたちがいてあげるからね。大丈夫、なんにも心配いらないわ……」
堅くこわばったリグトの体を柔らかく何度も撫でてくれます。ダイダもそのすぐそばに立って、一緒に少年を見ていました。腕組みしたまま何も言いませんが、だからといって彼らを置いて離れていくわけでもありません。
ついに、リグトは彼女にしがみつきました。わあわあと声を上げて泣いたつもりでしたが、やっぱり泣き声は出てきません。ただ大粒の涙が頬の上を流れていきます。
そんなリグトをいっそう強く抱きしめて、ユリスナイは繰り返しました。
「大丈夫よ。大丈夫。なんにも心配ないわ。あたしたちはそばにいるから。だから、大丈夫よ……」
そのことばは、どんな慰めの呪文よりも、リグトの胸にしみました。子守歌のように耳に心地よく響きます。泣きながら、すがりながら、いつかリグトはユリスナイの腕の中で眠ってしまいました。寝入りばなに、赤ん坊になった自分が母親に抱かれている夢を見ましたが、不思議なことに、その母親は赤いお下げ髪をして、丸い眼鏡をかけていました。その夢も、リグトが深く眠るとそれきりとぎれ、後はもう思い出すことさえありませんでした――。
次に目を覚ました時、リグトはまたベッドに寝かされていました。一人の女性が自分をのぞき込んでいたので、思わずぎょっとしてしまいます。女性はユリスナイではありませんでした。もう少し年上で、輝くような長い銀髪をしています。とても美しい顔立ちですが、その瞳は右が青、左が金の不思議な色合いをしていました。
女性のすぐ後ろにユリスナイが立っていました。銀髪の女性に話しかけます。
「どう? 何かわかった、シーラ?」
銀髪の女性が振り返って首を振りました。
「だめね、何も見えないわ。不思議な子。普通だったら、この子の来た場所も未来の姿も見えるはずなのに、この子のことは何もわからないのよ。占えないわ」
この人は占者だ、とリグトは気がつきました。ユリスナイが、うーん、と首をかしげます。
「シーラにも占えないってのは相当よね。本当に、この子どこから来たのかしら。もしかしたら、この世界とは別の場所から来たのかしらね?」
ある意味、それは当たっていました。リグトは今いる時代から数千年も後に生まれる人間なのですから……。
同じ部屋の中には他にも大勢の大人たちがいました。ダイダもいましたが、その隣に、見上げるような男が立っていました。がっしりした体格をして、茶色の髪とひげをしています。とても背が高いのですが、どことなくダイダと似た顔立ちや雰囲気をしています。
すると、そんなリグトの視線に気がついて、ダイダが笑いました。
「俺の弟のカイタだよ。喧嘩が三度の飯より好きな阿呆だ。まったく、俺より三つも年下のくせに、俺より大きくなりやがって」
「力じゃ俺にかなわなくなったからって、ひがむな、兄貴。なぁに。兄貴たちに悪さするような奴が出てきたら、俺が片っ端からたたきのめしてやるよ」
とカイタと呼ばれた大柄な青年が笑います。その笑顔は兄のダイダに瓜二つでした。
「レートは? 行商で歩いてる間に、こういう子を見かけたことはなかった?」
とユリスナイがまた別の人物に話しかけました。彼らよりもう少し年かさの男性です。かたわらに大きな荷物を下ろして、それにもたれかかっています。
「さてなぁ。迷子を捜しているという話は聞かなかったけどな。だいたい、その子のその服。そんな格好をした人を、ぼくは今まで一度も見たことがないぞ。どこから来たのか知らないが、この近辺の人間じゃないことは確かだな」
リグトは星空の衣を着ていました。黒い生地に星のきらめきを抱いている長衣で、その下に同じ生地のズボンをはいています。天空の民としては、ごく当たり前の格好なのですが、確かにこの部屋にそんな服を着ている人はいませんでした。彼らが着ているのは、一枚の布をひだを取りながらまとって、ブローチやベルトで留めつけた、古風な服装です。大昔のエルフたちが着ていたような――。
すると、また別の人物が身を乗り出してきました。ユリスナイのような眼鏡をかけた青年です。リグトの星空の衣をまじまじと見ながら言います。
「実に興味深いよ、この服。魔法の呪文が織り込んであるんだよ。なんの魔法が組み込まれているのかは、調べてみないとわからないけれど、すばらしい技術だ。このやり方がわかれば、すごい服がいろいろ作れるぞ。例えば、強力な魔法から身を守れる服とかね――」
まさしくそれが星空の衣だったのですが、声の出ないリグトには、それを説明することができませんでした。ただ、熱心に自分の服を調べる青年を見つめてしまいます。青年は少し癖のある金髪をしていました。眼鏡をかけた顔は、よく見るととても優しい顔立ちをしていて、なんだか女性のようです……。
ユリスナイが笑いました。
「キータライトったら。こういうことになると本当に夢中になっちゃうんだから、相変わらずねぇ」
え? とリグトはまた思いました。さっきから聞かされる人々の名前に、なんだか聞き覚えがあります。カイタ、レート、キータライト……誰のことだっただろう? と考えるうちに、地上の人間たちが信仰している神々の名前だったことを思い出しました。ユリスナイの十二神と呼ばれる神々です。確か、カイタは武神、レートは商売と旅の守り神、キータライトは学問の神だったはずです……。
リグトはユリスナイを見ました。それこそ、光の女神と同じ名を持つ女性です。どういうことだろう? と考えますが、声を出せないリグトには、質問することもできません。
すると、ユリスナイが少年に言いました。
「ねえ、きみ――きみがどこから来たかはまだわからないんだけどね、それより先に、きみの名前を教えてちょうだい。このままじゃ呼びにくくてしょうがないから」
「どうやって? その子、しゃべれないんでしょう?」
とまた別の女性が言います。とても美しい顔と姿をしていて、長い緑の髪を綺麗に結い上げています。
「大丈夫よ。この子、こっちが言うことはちゃんとわかっているんだもの。まあ、見てて、スピア――」
また神の名前です。ユリスナイ十二神の中の春の女神と同名でした。
ユリスナイがリグトの前に一冊の本を差し出しました。ページを開くと、細かい文字がびっしりと書き込まれていますが、リグトには読むことができませんでした。ユリスナイがうなずきます。
「やっぱり、あたしたちの文字も読めないみたいね。じゃあ、この手でいくしかないわ。いい? これからあたしがいろいろな音を言っていくからね。きみの名前の音が出てきたら、うなずいてちょうだい。それをつなぎ合わせたら、きみの名前がわかるはずよ」
「ええ? いろいろな音って――百五十一音全部言おうって言うのか、ユリスナイ? もし彼の名前が長かったら、とんでもなく大変だぞ」
とキータライトという青年が驚きました。眼鏡の奥で目を見張っています。
ユリスナイはにっこりしました。
「そのくらい、なんてことないじゃない。とにかく、この子の名前を知らなくちゃ。まずはそこからよ」
そして、ユリスナイはリグトに向かって、ゆっくりと発音を始めました。初めてことばを習う子どもに教えるように、一つ一つの音をはっきりと言って、リグトの反応を確かめます。
キータライトが言っていたとおり、彼らが持つ音は、リグトが学校で習ったことばやその音より、ずっとたくさんの種類がありました。それでも、ユリスナイは根気強く発音し、少年のうなずいた音を書き留めていき、とうとう、少年の名前は「リグト」だと突き止めてしまったのでした――。