目を覚ました時、リグトはベッドに寝かされていました。草の匂いと柔らかな毛布が体を包んでいます。
少しの間、リグトは何がどうしたのかわからずにいました。ゆっくりと記憶をたどり、自分が魔法の暴走に巻き込まれて、修業の塔から飛ばされたことを思い出します――。
リグトはベッドの上に起き上がりました。天井の高い部屋の中です。壁に細長い窓があって、外の景色が見えています。窓にガラスはなく、外の空気が直接流れ込んできています。広がっているのは一面の草原です。リグトを包む草の匂いは、草原からやってきているのでした。
ベッドの横の床の上にマットがじかに敷いてあって、毛布がたたんでありました。誰かが脇に寝ていたみたいだな、とリグトが考えていると、部屋のカーテンを押しのけて人が入ってきました。赤い髪を後ろで長いお下げに結った、若い女の人です。鼻の頭にちょっとそばかすがあって、丸い大きな眼鏡をかけていますが、なかなかチャーミングな顔をしています。
女の人はリグトが起き上がっているのを見ると、大きな瞳を丸くして、すぐに笑い出しました。
「やっと目を覚ましたわね。きみ、丸一日以上寝てたのよ。大丈夫? 気分は悪くない?」
明るく響く声で、てきぱきと話しかけながら近づいてきますが、とたんにつまずいて前のめりになりました。床のマットに気がつかなかったのです。手にしていた丸い盆を思わず放り出してしまいます。小さなポットとカップが宙を舞い、きゃあ! と女性が悲鳴を上げます。
リグトはとっさに片手を向けました。停止の魔法をかけようとします。
ところが、魔法が発動しませんでした。呪文が出てこなかったのです。手を伸ばしたまま呆然とするリグトの目の前で、ポットとカップが床に落ちて、ガシャン、と音を立てました。ポットの中身が破片と一緒に床やマットの上に飛び散ります。続けて盆も落ちてきて、ガラガランと激しい音を立てます――。
「あーあ、またやっちゃった!」
赤いお下げ髪に丸眼鏡の女性は、床に尻餅をついたまま自分の頭をたたきました。
「どうしてこう、あたしはそそっかしいのかなぁ。きみ、大丈夫だった? お茶がかかって火傷したりしなかった?」
けれども、リグトは返事をするどころではありませんでした。自分の手のひらを呆然と見つめてしまいます。試しにもう一度魔法を使ってみようとしますが、やっぱり呪文は出てきません……。
すると、復元の呪文が響きました。
「レドモニトモーテベス」
床の上に飛び散った破片が一カ所に集まってポットと二つのカップに戻ります。マットに広がった黒い染みも、吸い取られるようにたちまち消えていってしまいます。ポットの中へ戻ったのです。ポットとカップが盆の上に飛び乗り、その盆が女性の手に戻っていきます――。
リグトは呆気にとられてそれを眺めました。一見何気なく見える復元の魔法ですが、ポットにもカップにも割れた痕はまったく残っていないし、マットも真っ白になっています。リグトくらいの実力者になれば、魔法を使う前の状態の痕跡くらい見えるのに、それさえまったくわからなくなっていました。この女性はかなり強力な魔法使いなのです。
すると、その視線をどう受けとったのか、女性が、ああ、と笑いました。
「大丈夫よ、お茶にゴミなんか混ざってないから。さ、熱いうちにいただきましょ。薬草も混ぜておいたから、元気が出るわよ」
屈託なく言って立ち上がり、ベッドの脇のテーブルで茶を淹れ始めます……。
すると、そこへばたばたと足音を立てて、カーテンの向こうから別の人物が飛び込んできました。がっしりした体格の若い男性です。茶色の髪とひげの顔を真っ赤に染めて、いきなり若い女性へ食ってかかります。
「お――お――男を拾ってきたってぇ!? い、いったいどういうつもりだ、君は!!?」
「ちょっと。落ち着いてよ、ダイダ」
と女性があきれて言いました。
「それに、男を拾ってきたなんて、何よそれ? 男って、あの子のこと?」
とリグトを指さして見せます。リグトはベッドの上でまだ呆気にとられていました。
青年は目を丸くしました。黒髪に薄青い瞳の少年をまじまじと見つめてから、女性に聞き返します。
「男って、これのことなのか?」
「それをあたしが聞いているんでしょうよ。誰、そんな変なこと言ったのは? さしずめカイタでしょ。やぁねぇ」
カイタの奴……! と青年がまた真っ赤になって怒り、女性は笑い出しました。
「ほぉんと、兄弟揃って早とちりよね、ダイダもカイタも。この子は昨日、草原の中に倒れていたの。全然目を覚まさなくて、ついさっき、やっと気がついたところなのよ」
ダイダという青年は、ふうん、と腕組みしてリグトをのぞき込んできました。ごつい体つきに強面(こわもて)の男ですが、意外なくらい人の良さそうな目をしていました。リグトよりもう少し色の濃い、水色の瞳です。すぐに女性をまた振り向いて言います。
「で、何者なんだ、この坊やは?」
「さあ? あたしもたった今、起きているところに会ったばかりだからわからないわ。ねえ、きみ、名前は? どこから来たの? どうして草原になんて倒れていたの?」
女性はてきぱきと尋ねながら、また茶を淹れ始めました。ローデプッカ、とつぶやき、何もなかった空間から青年のためにもう一つカップを取り出します。まるで、そこに見えない食器戸棚でもあるような仕草です――。
リグトは本当に呆気にとられていました。この女性は別空間から物を取り出しています。貴族レベルの魔法使いが使う、かなり高度な魔法です。リグトはずっと貴族の師弟のための学校に通っていたので、ほとんどの貴族の顔は見覚えていたのに、この女性は一度も見たことがありませんでした。これほどの腕前の魔法使いなら、天空王にまみえるために城に来た折りに見かけていても良さそうなものなのに。
すると、ダイダが笑い出しました。
「おい、坊やが魔法にびっくりしてるぞ。あまり脅かさない方がいいんじゃないのか?」
あら、と女性は言い、少年の顔を見て言いました。
「違う、って顔してるわよ? 魔法そのものに驚いているんじゃないわよ。もしかして、呪文が珍しいのかしら?」
それも違うよ、とリグトは言おうとしました。天空の国の魔法使いが、そんなものを珍しがるはずはありません。ところが、返事ができませんでした。一言も声が出なかったのです。
ダイダは笑い続けていました。
「そうだよなぁ。こんなへんてこなことばを言って魔法を使う人間なんて、俺たち以外にはいないもんなぁ」
「ちょっと。へんてことは何よ、ダイダ。失礼ね! あたしが編み出した呪文に文句でもあるって言うの?」
それまでの明るい顔が嘘のように、怖い顔つきで青年をにらみます。青年があわてて手を振ります。
「いやいやいや、文句なんて……! おかげで俺たちだってすごく助かっているさ。魔法を自在に使えるようになったんだからな。君のお手柄だよ、ユリスナイ」
え……? とリグトは目を見張りました。
青年は今、女性をなんと呼んだでしょう? ユリスナイ、と言ったような気がするのですが。
ユリスナイというのは、天空の民から広く信仰されている光の女神です。女神の名前をつけたんだろうか? とリグトは考え続けました。自分で自分の名前をつけるはずはないので、親が決めたのでしょうが、それにしてもずいぶん大胆だ、とあきれてしまいます。唯一無二の光の神と同じ名前だなんて、恥ずかしいとか恐れ多いとか、考えないんだろうか……。
すると、女性が言いました。
「あたしはね、どうしても魔法を使う法則が見つけたかったのよ。行き当たりばったりで、その都度何が起きるかわからないような魔法じゃなくて、自分の意志と目的に従って、きちんと言うことを聞いてくれる魔法をね」
「特に君は、だろう、ユリスナイ? 君の魔力は生まれつきものすごくて、誰にもコントロールできなかったもんな。呪文を見つけたおかげで、ようやく思い通りに使えるようになったんだろう?」
「そうよ。おかげでこうやって落ち着いてお茶も淹れられるようになったってわけ。前なら、過剰に魔法を使いすぎて家中にお茶の雨を降らせたか、お茶を熱くしすぎて蒸発させてたわね。魔法を調節できる呪文を発見した時には、本当に嬉しくて、飛び上がったわよ。でも、いいでしょ? そのおかげで、みんなだって同じ魔法の呪文が使えるようになったんだから。これって、世界の中にある力の、聖なる部分を引き出して使う呪文なのよ。言ってみれば光の魔法。悪さもしない、良い子よ」
「呪文は君の子どもかい、ユリスナイ。結婚もしてないのに早すぎないか?」
ちょっと妬けた様子でダイダが言いました。さりげなく、テーブルの上の彼女の手に自分の手を重ねようとします。その下から素早く自分の手を抜いて、ユリスナイは笑いました。
「あたしは魔法と結婚してるのよ、ダイダ。光の魔法を完成させるのは、あたしの一生の仕事。この世界には、まだまだ素敵な魔法や強力な魔法がたくさん隠れているの。それを見つけ出して、呪文にして本にまとめていくのが、私の役目なのよ」
言いながら、ちょっとずれた丸い眼鏡を直します。眼鏡の奥で、明るい瞳が笑い続けています。
ちぇっ、とダイダが言いました。
「魔法なんかと結婚しないで人間と一緒になれよ、ユリスナイ。ここにも、いい男はいるだろうが」
「いい男? それって、この坊やのこと?」
とユリスナイがからかうように答えます。言われている意味を承知の上で、わざとはぐらかしているのです。
リグトは本当に呆気にとられて、何も言えなくなっていました。この会話、この内容――この女性は自分が光の魔法の呪文を作ったと言っているのです。そんな馬鹿な、と考えます。光の魔法は何千年も前に、光の女神によって作り出されたと言われているのです。光の女神、ユリスナイによって……。
リグトは女性をまじまじと見つめました。後ろで一本に編んだ赤いお下げ髪、丸い眼鏡、そばかすの浮いた顔。チャーミングだけれど、とても女神と言える姿ではありません。服だって、デザインは古くさいのですが、当たり前の格好をしています。古くさい――何千年も昔の人々が来ていた服のような――。
リグトはベッドから飛び出しました。ガラスのはまっていない窓に飛びつき、外の景色を眺めます。首をねじると、一面の草原の向こうに、高くそびえる山が見えました。おなじみの山の形――天空の国の真ん中にあるクレラ山です。ところが、その頂上でいつも光っている天空城が見えませんでした。雲がかかっているわけでもないのに、金と銀に光る城がまったく見えません。山はただ木々の緑と岩の灰色に彩られています。
目を転じて反対側を眺めると、そこにも遠く山並みが見えていました。草原が森に変わり、その向こうに青く山々がかすんでいるのです。
リグトは思わず目眩がして、窓にしがみつきました。知りません。あんな山脈が見える景色など、自分は知りません。
世界の空を飛び回る天空の国は、はるか昔には地上にありました。地上が激しい戦いに巻き込まれた時、戦火を避けて、当時の魔法使いたちが魔法で国を空に飛ばしたのです。その時から、天空の国にクレラ山以外の山は存在しなくなっていました。あるのはただ、草原と花野と町と湖、そして川――。なのに、今この国には、見えるはずのない山脈が、遠く見えています。
膝ががくがくと震え出すのを感じながら、リグトは悟りました。
ここは、まだ地上にあった頃の天空の国なのです。魔法で空に浮かぶ前の――。リグトは、修業の塔の魔法の暴走で、何千年も昔の時代に飛ばされてきてしまったのです。
「どうしたの、きみ? 大丈夫?」
と女性が心配そうに声をかけてきました。
リグトは青ざめた顔のまま振り向き、ユリスナイと呼ばれる女性を見つめました――。