「トゥーガリン」
トウガリが王妃や客人の前で芸を披露して、控え室にもどったとたん、突然誰かがそう呼びました。ザカラス城に到着して二日目の午後のことです。トウガリは驚き、部屋に昨日会った間者がいるのを見て顔をしかめました。
「ルマニ。この恰好の時にその名前では呼ぶな」
トウガリは赤と黄色の衣装を着て、顔には派手な道化の化粧をしています。その正体が間者であることは、誰にも秘密になっています。
トウガリが部屋のドアを閉めて鍵を下ろすのを確かめてから、ルマニは口を開きました。
「見つかったぞ、メーレーン王女を狙っていた連中が。戴冠式に出席するのにやってきたメイ国の一行に反対勢力が紛れ込んでいた」
「メイか。ロムドとザカラスに挟まれて、両国が仲よくするのを一番目障りに思っている国だな。まあ、筋というものか。で、逮捕できたんだな?」
「ああ。だが――」
ルマニがことばをにごしたので、トウガリはたちまち顔つきを変えました。道化の化粧は楽しく笑っている表情ですが、にらむような目でルマニに迫ります。
「だが――なんだ!? 気がかりでもあるのか!?」
「メイから来た家来が一人足りない。つまらない雑用係の下男なんだが、城中どこを探しても見当たらない。……俺たち間者集団全員で探しても、見つけられないんだ」
そのことばに含まれる恐ろしい危険に、トウガリは思わず息が止まりそうになりました。その行方不明の下男こそ、メーレーン王女の命を狙う刺客かもしれないのです。
「王女はどこだ?」
とルマニに聞かれて、トウガリは扉を振り向きました。
「たった今まで、広間で俺の芸を見ておられた。まだ広間にいるはずだ――」
けれども、トウガリがルマニと広間に駆けつけてみると、そこに王女の姿はありませんでした。ルマニは人前に顔を出すわけにはいかないので、トウガリがメノア王妃に尋ねました。
「これはこれは。つい先ほどまでここにおられたメーレーン様が、今は忽然と姿を消していらっしゃる。メーレーン様はどちらへ? 魔法使いに弟子入りして、姿を消す術でも習得なされたのでしょうか?」
王女の姿が見えないことを心配していると悟られてはならないので、そんな言い方でおどけて見せます。貴族や貴婦人たちが面白がって笑う中、メノア王妃がほほえみながら答えました。
「たった今、トーマ王子がここにいらしたのです。メーレーンは王子と散歩に行きましたわ――」
トーマ王子とメーレーン王女はまた城の中庭にいました。
園丁が綺麗にならした雪道を、白い息を吐きながら並んで歩いていきます。その足下に白黒ぶちの子犬がまとわりついています。
「こら、ダメよ、ルーピー」
はしゃぎすぎた子犬が王子の靴にじゃれついて歯を立てようとしたので、メーレーン王女が叱りました。ぱっと子犬が飛びのいて、しゅんと耳を伏せます。
「いいよ。大丈夫だから」
とトーマ王子は笑って言いました。言いながら、そんな自分に自分で驚いてしまいます。いつもなら、こんな無礼な真似をする犬にはすぐ腹が立ったのです。家来を呼びつけて、こんな犬は処分しろ! とどなっているところです。それなのに、今は不思議なくらい寛大な気持ちでいられるのです。メーレーン王女がそばにいるだけで――。
王女がにっこり笑いかけて、ありがとう、と言いました。その素直な感謝が嬉しくて、王子もまた笑い返します。王女は王子をとても良い人だと信じ込んでいます。そして、そんなふうに信じられると、王子自身もなぜだか本当に、自分が良い人間のような気がしてくるのです。冷酷だ、無慈悲だ、亡くなった先のザカラス王に瓜二つだ、と皆から言われる自分だというのに……。
すると、メーレーン王女が言いました。
「トーマ王子は本当にお優しいですわ。なんだか、金の石の勇者様と一緒にいるみたいです」
王子は顔つきを変えました。金の石の勇者? と聞き返します。
王女は嬉しそうにうなずきました。
「ええ。世界を救う大きな使命を持っていて、誰のことでも助けてくださいます。それはそれは勇敢でお強くて、そして、とても優しく笑ってくださるんです。ちょうど――」
ちょうどトーマ王子のように、と王女は続けようとしました。
ところが、王子は突然ぎゅっと顔を歪めました。怒った目と口調になってどなります。
「金の石の勇者がなんだと言うんだ! あんなのは、ただのごろつきじゃないか!」
ごろつき? とメーレーン王女は目を丸くしました。初めて聞くことばだったので、意味がわからなかったのです。それよりも、トーマ王子の突然の剣幕の方に驚いてしまっていました。
王子はどなり続けました。
「金の石の勇者は貧乏な下民だと聞いているぞ! このザカラス城を破壊したのだって、奴の仕業だったというじゃないか! そんな奴がどうして素晴らしいと言うんだ!? そんな奴は牢屋に入れてしまえばいいんだ!」
王女はますます目を見張りました。両手で口をおおってしまいます。その大きな灰色の瞳が、みるみるうちに涙でいっぱいになっていきました。
「ど……どうして、そんなひどいことをおっしゃいますの……? 勇者様は、本当に素晴らしい方でいらっしゃいますのよ。勇者様は闇の竜からこのお城を救ってくださったんですわ。メーレーンのことだって、命がけで助けに来てくださったのに……」
「じゃあ、この次もその勇者に助けてもらえばいいだろう!」
トーマ王子は完全に頭に来ていました。乱暴に言い捨てると、そのまま雪の中庭に王女を置き去りにして、すたすたと歩き出します。なぜだか本当に腹が立ってしかたがありません。まだ見たこともない金の石の勇者に嫉妬する気持ちです。
後ろで王女が泣き出した気配がしていましたが、王子は振り向きませんでした――。
トウガリが王女を捜してトーマ王子の部屋に来たのは、それから三十分ほど後のことでした。王女と一緒ではありませんでしたか、と言うトウガリに、王子はぶっきらぼうに答えました。
「メーレーン姫とは中庭で別れた。その後は知らないよ。戻ったんだろう」
「いえ、それが城中探してもどこにもいらっしゃらないのです。もちろん、中庭もくまなく探したのですが……」
言いながら、道化が探るような目を向けてきたので、王子はかっとしました。
「知らないと言っているだろう! どこかの木の上にでも登っているんじゃないのか!?」
失礼いたしました、とトウガリはお辞儀をして王子の部屋を退出しました。どうやら王女と喧嘩をしたらしい、と察しましたが、本当にメーレーン王女の行方はわかりません。中庭にも見当たらないのです。トウガリはあせりました。王女はどこへ行ってしまったのだろう、と考えます……。
一方、トーマ王子は怒り続けながらも、なんとなく気になって、部屋の窓から外を見下ろしました。窓から中庭は見えません。城の前庭が見えるだけです。そこを大勢の家来たちが右往左往していました。メーレーン王女を捜しているのです。庭のあちこちには雪をかいた後の雪の山がありますが、それもすべて掘り返しています。窓の外からは轟音(ごうおん)が響いていました。城の回りの水路から水を抜いている音です。
本当に行方不明になっているんだ――と王子は青ざめました。これほど大がかりな捜索をしているということは、王女がどこにも見つからないということです。そんな馬鹿な、と王子は考えました。メーレーン王女とは、ついさっき中庭で別れたばかりです。こんな短時間に、どこへ消えてしまえるというのでしょう。水路の水を抜く音に、まさか――という想いが胸をよぎっていきます。
けれども、次の瞬間、トーマ王子は、とある場所を思い出しました。まず人目にはつかないところです。ひょっとしたらあそこかもしれない、と考えます。
窓から空に目を向けると、灰色の雲がものすごい速さで空を走っていました。風が出てきているのです。城のある山の麓からは白い煙のような霧が吹き上げてきます。間もなく雪が降り出しそうでした。
行ってみよう、と王子は考え、部屋を飛び出していきました。
それは、中庭のさらに奥まった場所にある古びた壁でした。昔寺院があった場所ですが、今はすっかり崩れて、石積みの壁が残っているだけです。そこは城の中でも特に荒れ果てた一角で、近寄るものは誰もいません。雪が地面や藪の上に降り積もっています。
けれども、人々はそこにも王女を探しに来たようでした。たくさんの足跡が雪の上に残っています。壁の後ろや物陰をのぞいても王女の姿がなかったので、また別の場所へ移動していったのです。
その壁の前に、白黒ぶちの子犬がうずくまっていました。ルーピーです。トーマ王子がやってくると、跳ね起きてワンワンと激しくほえたて、王子の服の裾をくわえて壁の前へ引っ張っていきます。
「やっぱりそうか」
とトーマ王子は言いました。人々の目にはただの壊れた壁としか映りませんが、王子には、そこにはっきりと扉が見えていたのです。ザカラス城の隠し通路の入り口のひとつですが、ザカラス王家の血を引く人間にしか見えない魔法がかけられています。メーレーン王女はザカラス王家の血縁です。この扉を見つけて、通路の中に入ってしまったのに違いありませんでした。
トーマ王子は扉に手をかけました。ひどく古びていますが、それでも、王子が触れただけで、ひとりでに開きます。魔法はまだ生き続けているのです。入り口をくぐろうとすると、クーン、と後ろでルーピーが鳴きました。悲しそうな目でトーマ王子を見上げています。
「入れないのか?」
と王子は思わず言いました。犬相手に人間のように話している自分が、なんだか滑稽な気もしますが、ルーピーの気持ちは手に取るようにわかりました。ちょっとためらってから、王子は子犬に手を差し伸べました。
「来い。ぼくと一緒なら入れるはずだ」
ワンワンワン、とたちまち子犬が駆け寄ってきました。勢いよく王子に飛びついてきます。トーマ王子はルーピーを腕に抱くと、扉をくぐって通路に入っていきました――。
中にはいると、そこにもまた、灰色の雲が走る空が広がっていました。左右に崩れかけた石の壁があって、目の前に延々と続いています。足下も、今にも崩れそうな石の床です。
そこは、今はもう使われなくなった秘密の通路でした。寺院の壁の入り口から通路を抜けて、城の外に脱出できるようになっていたのですが、寺院が別の場所に建て直されてからは、この通路も廃棄されて、ただ荒れ果てていったのです。空が見えているのは、石の天井がすっかり崩れ落ちていたからでした。通路全体が瓦礫の山のようになっています。
通路に入ったとたん、子犬のルーピーが王子の腕から飛び下りました。ワンワンほえながら走り出します。あ、おい、とあわてて王子が追いかけると、間もなく行く手から声が聞こえてきました。
「ルーピー、ルーピーですの?」
メーレーン王女の声でした。王子は驚いて、犬と一緒に声のところへ駆けつけました。
通路の真ん中に大きな穴が開いていました。すっかり老朽化した石の床が、耐えきれなくなって陥没したのです。実はこの一帯には秘密の通路が迷路のように張り巡らされています。ところどころで立体的に交差しているので、下に通路がある場所で床が落ち込んでしまったのでした。
穴の縁には真新しい崩れた痕がありました。そして、穴の中から声が聞こえ続けています。
「ルーピー! 大丈夫!? 無事ですの――!?」
トーマ王子は慎重に縁から穴の中をのぞき込みました。ピンク色のドレスとコートを着たメーレーン王女が穴の底にいました。王子を見てびっくりした顔になり、次の瞬間、ぱぁっと笑顔を輝かせます。
「トーマ王子! やっぱり来てくださったのですね?」
その本当に嬉しそうな表情に、王子は思わず顔を赤らめました。自分は期待されていたんだ、信じられていたんだ、という想いに、なんだか胸がどきどきしてしまいます。そんなとまどいを隠して、王子は王女に呼びかけました。
「大丈夫かい!? 怪我は!?」
「ありませんわ。ルーピーを探しているうちに、ここに落ちてしまいましたの。上がれなくて困っておりました」
穴は深さが二メートル以上もありました。まともに落ち込めば怪我をしたところですが、降り積もった雪がクッション代わりになって、無事でいたのです。
「待ってて! 今、引き上げてあげるから!」
と言いながらトーマ王子は周囲を見回しました。王子はロープも縄ばしごも持っていません。どうしたら穴の中から王女を助け出せるだろう、と考えます。
すると、その膝の下で、急にずずず、と不気味な音が聞こえ始めました。ルーピーが飛び上がり、うなりながら王子の服をくわえて後ずさります。その場から引き戻そうとしたのです。
とたんに、王子の下で床が崩れました。あっと思った時には、王子は子犬もろとも穴の中へと墜落していました――。