「お母様」
灯りを落とした部屋の中に、メーレーン王女が、そっと入ってきて言いました。そこはザカラス城の客室です。隣の部屋で休んでいるはずの王女が、母の寝室に忍び込んできたのでした。
メノア王妃はまだ眠っていませんでした。すぐにベッドに起き上がります。
「まあ、どうしたのです、メーレーン? 眠れないのですか?」
「お母様と少しお話ししたいことがあるのですわ……お母様のお床に入ってもよろしいですか?」
メノア王妃はまたちょっと驚きましたが、娘が考えるような表情をしているのを見て、すぐに手招きしました。
「いらっしゃい」
王女は、ぱっと顔を輝かせ、すぐに母のベッドに潜り込んできました。母の枕に顔を埋め、匂いをかいで、うふふ、と笑います。
「お母様のバラの匂い。とっても久しぶりですわ」
「寝る前の湯浴みにしか使わない香水ですからね……。こんなふうにあなたが来るなんて、何年ぶりでしょうね、メーレーン。大きくなってしまったから、こんなことももうないのだろうと思っていたのに」
そう言って、王妃もベッドに横になりました。枕に頭を載せている娘に自分の頭を並べ、顔を見合わせて、ふふふ、と笑い合います。まるで少女同士のような、いたずらめいた笑いが行き交います。
すると、王女が急に真剣な顔になりました。少しためらってから、こう切り出します。
「ねえ、お母様……お母様は、お父様以外の殿方を好きになったことはおありですか?」
メノア王妃はびっくりしました。まさかこんな話をされるとは思わなかったので、逆に聞き返します。
「どうしてそんなことを聞きたいのですか?」
王女は母の布団の中で、もじもじと毛布をもてあそんでいました。さらにためらいながら、話し出します。
「メーレーンは、金の石の勇者様が好きでした……。勇者様はとても優しいのに、同時にとても勇敢で男らしくて……勇者様がポポロをお好きなのがわかって、メーレーンは勇者様をあきらめたのですが、でも、心の中では、勇者様がやっぱりとても好きでした。ずっとずっと、死ぬまで勇者様を想い続けようと……勇者様が誰をお好きでも、メーレーンは一生勇者様を愛し続けようと、そんなふうに思っていたのですが……」
メーレーン王女はまだ十三になったばかりです。その歳で死ぬまで想い続けるとか、一生愛し続けるとか言うのはいかにも早すぎるのですが、本人はいたって大真面目でした。メノア王妃も、そんな娘を笑ったりはせずに、ただ黙って聞き続けていました。侍女たちは別室に控えているので、今、部屋の中にいるのは母と娘の二人だけです。暖炉の中で燃える火が、時折、ぱちっと小さな音を立てるだけで、他に聞こえてくる音もありません。
母の毛布を口元まで引き上げながら、王女が言いました。
「メーレーンは今日、中庭でトーマ王子にお会いしました……」
幼いほどに無邪気な顔が、真っ赤に染まっています。
「王子は木から落ちたメーレーンと犬のルーピーを助けてくださいましたわ。ご自分はメーレーンの下敷きになってしまって。でも、全然お怒りにならずに、逆にメーレーンを助け起こしてくださったんです。とても優しい方です。メーレーンよりお若いのに、とても落ち着いていらして、頼もしくて……。メーレーンは、今でも勇者様のことが大好きなのです! だけど、だけど……トーマ王子のことを思い出しても、なんだか胸がどきどきしてきてしまうんですわ。どうしてなのでしょう? こんなに簡単に、別の殿方を好きになるなんてこと、あってよろしいんでしょうか……?」
王妃は黙って王女の顔を見つめました。王女は顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな表情になっています。その顔はやっぱり年齢より幼く見えますが、そんな中にも大人びたものがうっすらと漂い始めていることに、母親は気がつきました。
王妃はにっこりとほほえみました。天使の笑顔と呼ばれる優しい表情で、王女に向かってうなずいて見せます。
「母にもありましたよ。あなたのお父様以外にも、心寄せた殿方はいました」
メーレーン王女は目をまん丸にしました。自分から聞いたこととはいえ、本当にこんな答えを聞けるとは思っていなかったのです。それはどなたですか!? と思わず聞き返してしまいます。
しーっと王妃はほほえみながら言いました。あまり大きな声を出しては、控える侍女たちに気づかれて、話を聞かれてしまいます。少女のようにいたずらっぽい笑顔で、王妃は答えました。
「いくらあなたでも、その方の名前を教えるわけにはいきませんよ。人の耳に入っては大ごとですからね……。それに、あなたの知らないお方です。まだロムドに嫁ぐ前に出会った殿方ですから」
「ど、どんな方ですの? どうしてお母様はその方と結婚なさらなかったのですか?」
急き込むように訪ねる王女に、メノア王妃はまた笑いました。優しい優しい笑顔で答えます。
「素敵な方でしたよ。私を守ってくださる――騎士でした。でも、私はもうロムドに嫁ぐことが決まっていたし、その方も、私を王女としてしか見てくださらなかったのです。いつでもそばに控えて、私を誠心誠意守ってくださったけれど――本当に献身的に、いつでも大切にしてくださるけれど――その方に、私は女性としては見ていただけなかったのですわ――」
ほほえむ王妃の顔を、ふっと淋しいものがよぎっていきました。
それを見たとたん、メーレーン王女は思わず聞き返してしまいました。
「お母様は今でもその方がお好きなのですか? お父様より?」
我知らず、不安そうな声になってしまっていました。
メノア王妃は、また穏やかな優しい笑顔に戻って答えました。
「心配はいりませんよ、メーレーン。あなたのお父様は本当に素晴らしい方です。私になどもったいないほどのね。私はいつも、心からあなたのお父様をお慕いしています……。ただ、あなたの気持ちもわかる、と言いたかっただけです」
けれども、そのことばはどこかで何かをはぐらかしているようでした。メーレーン王女は懸命に母の顔を見つめ、その目の中に真実を見つけようとしました。
「その方は? 今はどうしていらっしゃるのですか――?」
「結婚なさいましたよ。全然別の素敵な女性とね。私もロムドに嫁いで、それきり、もうお会いすることもなくなりました」
静かに王妃が答えました。さあ、この話はこれでおしまい、もう寝ましょうね、と王女に言います。娘の追及を打ち切ったのです。
かたわらで目を閉じた母の美しい顔を、メーレーン王女は見つめ続けました。母が昔好きだったという殿方が、まだすぐそこにいて、今でも母に忠誠を誓って控えているような、不思議な錯覚に襲われます……。
すると、王妃がまた目を開けました。自分を見つめていた娘に、優しくまたほほえみかけます。
「メーレーン、あなたはまだ十三です。これからいろいろな方々にお会いするでしょう。尊敬できる方にも、心からお慕いできる方にも、きっと巡り会えることでしょう。結婚するとかしないとか、そういうこととは関係なく、共に生きたいと思う方と出会って一緒に生きていくことができたら、きっと、それは幸せなことですわよね――」
だから、トーマ王子との出会いも大切になさい、と王妃は言いました。
「王子のことを良くないように言う方たちがいることは、私も知っています。でも、あなたがトーマ王子を良い方だと思うのならば、それを信じて差し上げなさい。きっと、王子は本当に優しい素晴らしい方なのでしょうから」
そんなふうに言われて、メーレーン王女はまた真っ赤になりました。優しさの中に強さを感じる母のことばです。はい、と素直にうなずき、そのまま布団の中で母にすり寄りました……。