その夜遅く、王妃と王女の前から退出したトウガリは、道化の服を脱いで普段着姿でザカラス城の中を歩いていました。派手な化粧を落とせば、その下のトウガリの素顔は本当に平凡です。痩せた長身は目立ちますが、服装といい、彼のいる場所といい、非番になった兵士か使用人が歩いているようにしか見えません。
すると、それを追ってくるように後ろから近づいてきた人物がいました。やはり地味な服で身を包んだ、トウガリと同じくらいの年代の男です。トウガリは鋭くそれを振り向きました。
「ルマニか」
かつてトウガリがザカラスにいた時分に一緒に間者の修業をした仲間です。仕える先をザカラスからロムドに変えたトウガリを、裏切り者とザカラス兵に引き渡した人物でもあります。
そんなトウガリに、ルマニはあわてて首を振って見せました。
「おっとと、早まるなよ。こっちはもう、お前に手出しするつもりはないんだから。あれは仕事だったんだ、悪く思うな」
トウガリは返事をしませんでした。けれども、それは確かにルマニの言うとおりなのです。彼ら間者は主人の命令に従って行動する存在です。トウガリを捕まえて地下牢に放り込め、と命じたのは、先のザカラス王であり、魔法使いのジーヤ・ドゥでした。その二人はもうこの世にはいないのです。
トウガリは口を開きました。
「ちょうど良かった。調べてもらいたいことがある」
ルマニは、おや、という表情になりました。
「なんだ、またザカラス間者に返り咲きか? ハルス・トゥーガリンが戻ってくるんじゃ、俺などお払い箱かもしれんな」
「その名はロムドに行ったときに捨てた。俺はトウガリだ」
とトウガリはぶっきらぼうに答えました。つまらない嫉妬や競争心などと関わっている時間はありません。思わず肩をすくめ返したルマニに言い続けます。
「メーレーン様が毒虫のワジにもう少しで襲われるところだった。中庭の雪の上に這った後が残っていた。犬が気がついて、メーレーン様を木の上に誘ったところへ、トーマ殿下が通りかかって、難を逃れたようだ。こんな季節のこんな場所にワジが現れるはずはない。間違いなく、メーレーン様の命を狙う奴のしわざだ」
ルマニは本当に驚いた顔になりました。難しい表情で腕組みします。
「それはザカラスの仕業じゃないぞ」
「わかっている。今、メーレーン様を暗殺してザカラスの益になることは何ひとつない。ザカラスとロムドが和平を結ぶことを警戒する、どこかの国の差し金だ。それを調べてほしいんだ。同じ手はもう使ってこないだろうが、またメーレーン様の命が狙われるかもしれん」
「ロムドの王女が暗殺されれば、和平は決裂、下手をすればロムドとザカラスで全面戦争だからな。わかった、調べよう」
とルマニは答え、それから、少し口調を変えました。
「こっちからも伝言だ……。部屋に来るように、と陛下がおっしゃっている」
「アイル王が?」
今度はトウガリが驚く番でした。
「なんのために? それに、どうやって? この恰好で王の部屋を訪ねられるはずがないだろう。貴族の恰好に変装したって無理だぞ」
「俺は知らん。ただ、お前ならできるはずだ、と陛下はおっしゃっていた」
言いながら、ルマニの目が真剣そのものになりました。確かめるように、疑うように、トウガリの顔を見つめます。背が高いトウガリです。ルマニは見上げる形になってしまいます。
「本当に、ザカラスに戻ってくるつもりはないんだな? 陛下からお呼びがかかっているなら、そうとはっきり言ってくれ、トゥーガリン」
トウガリは、やれやれ、と心の中で肩をすくめました。ルマニは、かつてのライバルが古巣に戻ってきて、自分の地位を脅かすのではないかと心配しているのです。
「トゥーガリンなんて奴は知らん。俺の名前はトウガリだ――」
とトウガリは、そっけなく答えました。
ルマニと別れた後、トウガリは、秘密の通路を通って、ザカラス城の中央にあるアイル王の部屋を訪ねました。
ザカラス城は古い城なので、長いその歴史の中で、城が敵に包囲され、攻撃を受けることがたびたびありました。そんなときに王が脱出できるよう、城には通路が張り巡らされ、魔法や仕掛けで隠されているのです。通路の場所は代々の王とごく一部の者にしか伝えられませんが、薔薇色の姫君の戦いの際に、トウガリはその通り方を知ることができたのでした。
もう真夜中の時間でしたが、アイル王は服を着たままで部屋の中をうろうろしていました。トウガリが来るのを待っていたのです。その前にひざまずいて、トウガリは頭を下げました。
「何かご用でしょうか、陛下」
トウガリはもうロムドの家臣として正式に認められています。以前のように、ザカラスに仕えているふりをする必要もなかったのですが、一応、王には敬意を払って見せます。アイル王は、トウガリならば秘密の通路を知っているはずだと推理して呼びつけました。そんなふうには見えなくても、確かに非常に頭の切れる人物なのです。
アイル王はトウガリの前で落ちつきなく、そわそわと体を動かし続けていました。意味もなく両手を握ったり開いたりしている様子は、いかにも神経質そうで不安げです。いつも以上につまずきながらこんなことを言います。
「よ、用があったわけではないのだ、ト、トゥーガリン……。そ、そなたは、こ、この城で本当は何があったか、い、一部始終をよく知っている。わ、私には、ひ、人に話せないことが、あ、あまりにも多すぎる。だ、だから、わ、私の話し相手に、な、なってもらいたかったのだ……」
トウガリは何も言わずに王を見つめ続けました。本来、トウガリは非常に無口な男です。仕事柄、道化の時にはよくしゃべりますが、素の時には相づちもろくに打たない無愛想ぶりです。その自分を話し相手にしようとするのは人選の誤りというものでしたが、トウガリはそうは言いませんでした。王が、単純に自分の話を聞く相手を求めているのだとわかったからです。事実、アイル王はトウガリが返事もしないうちに話し出していました――。
「わ、私は怖いのだ」
とアイル王は言いました。
「ち、父上が死んで、私がザカラス王になったが、こ、国民は皆、私は王にはふ、ふさわしくないと思っている……。し、城の家臣たちはなおさらそうだ。い、今でも彼らは父上の命令を待ち続けている。こ、この国に、今、王はいない。わ、私は名ばかりのザカラス王なのだ……」
王の瞳は先のザカラス王とは色が違いました。黒に近い藍色で、それが深い苦悩に彩られていっそう暗く見えています。立派な王の服も貧弱な体は隠しきれません。いかにも頼りなさそうな王が、こんなふうに悩んでいれば、誰も信頼などしないのは当然のことでした。
王の声はますます暗くなっていきます。
「こ、この城にはまだ、先のザカラス王がいる……。ち、父上は死んで、確かに王家の墓地に埋葬されたが、み、見えない姿で今もまだ、ザ、ザカラスを支配しているのだ。そ、そして、わ、私の無能ぶりを、い、今もあざ笑っておられる」
トウガリは思わず口を尖らせました。しばらく考え込んでから、こう言います。
「ギゾン王が生きているのは、陛下の心の中だけでございましょう。先王は確かに死にましたぞ。己にふさわしい収穫を刈り取って」
「わかっている! わかっている!」
アイル王は神経質に叫びました。むやみと頭を振り回します。
「わ、私は父上の影に捕らえられているだけだ! し、死んだ父上には、も、もう何もできない! だが……この国には、父上にう、瓜二つの王子がいるのだ!」
トウガリは、はっとしました。日中、城の中庭で出会ったトーマ王子を思い出します。薄水色の目をした王子は、確かに、死んだ先王によく似ていました――。
アイル王は興奮して言い続けていました。
「あ、あれがそばにいると、わ、私は父上がいるような気がするのだ……! あれが私を見ると、ち、父上が私を見ているように思えてならない! あれも、私を馬鹿にしている。た、頼りのない王だ、父親だ……と。か、家臣の中にも、あれのほうが王にふさわしい人材だと思う者は多い。い、いつか、あれは私を王座から引きずり下ろすだろう……! わ、私が父上にそうしたように、わ、私に刃を向けて、私を殺すのだ……!」
アイル王は甲高く笑い出しました。病的な響きの笑い声です。けれども、それを聞きつけて心配して飛んでくる家臣はありませんでした。神経質な王が時々こんな発作を起こすことに、皆が慣れっこになってしまっていたのです。
トウガリは黙って王を見つめ続けました。
王を脅かしているのは、トーマ王子でも死んだ先王でもありません。アイル王自身の心の中に落ちている深い影です。
自分自身に追い詰められている王を、トウガリは、痛ましいことだ、と思います。確かに、持って生まれた性分というものもあるのですが、この弱さは、死んだ父親によって作られてしまったところも大きいのです。偉大で独裁的だった父親は、息子から自信をことごとく奪い、思いのままに動かそうとしてきました。今、その父親がいなくなり、ようやく自分らしく生きられるようになったというのに、息子はまだ父親の影響を受け続けています。そして、不安のあまり破滅の道へと転落しそうになっているのです。
笑いの発作が治まると、王はどさりとそばの椅子に座り込みました。疲れ切った様子で大きなため息をつきます。
王が何も言おうとしないのを見て、トウガリは静かに口を開きました。
「陛下は確かに父上に刃を向けられた。ですが、父上を殺してはおられませんぞ」
アイル王はまた深いため息をつきました。うつむいたまま答えます。
「そ、そうだ。金の石の勇者が私を止めたからな……」
トウガリは、今度は金の鎧兜を身につけた勇者を思い出しました。それこそ、世界を救う英雄にはとても見えない、少女のように優しげな顔をした少年です。その彼が、短剣を握るアイルに言ったのです。「だめです、殿下。自分のお父さんを殺したりしては、いけないんです」と……。
あれはそう深い意味で言ったことばではなかったのだろう、とトウガリは思います。フルートは単純に、自分の親を殺してはいけないのだ、と考えただけです。ただ、それがぎりぎりのところで、今のアイル王を救っているようでした。もしもあそこで本当に父を刺し殺していたなら、アイル王は本気で自分の息子に怯えたことでしょう。自分がしたのと同じことを、息子からされるのに違いないと考えて、殺される前に自分から王子を始末しようと考えたかもしれません。
なるほど、それであの悩み顔か、とトウガリはトーマ王子の暗い表情も思い出しました。父親の不安と疑いを、王子は感じ取っているのです。まったく痛ましいことだ、とトウガリはまた考えます。死んだ先の王の呪いが、今もまだ、このザカラスをおおっているようです。
すると、アイル王がぽつりとつぶやくように言いました。
「き、金の石の勇者は旅立ってしまった。わ、私たち親子を止めてくれる者は、いるのだろうか……?」
トウガリには、それに答えることはできません。そして、同時に、メーレーン王女暗殺の動きを今の王には相談できない、とも感じました。
王は自分自身の悩みで手一杯になっているのです。やはり、トウガリ自身が王女と王妃の安全のために動くしかないようでした。