一人の子どもがザカラス城の中庭を歩いていました。
黒髪に薄水色の目をした、十一、二歳くらいの少年です。その顔立ちは整っているのですが、いやに冷ややかな、大人のようなまなざしをしていました。世の中のいっさいに心動かされることがない、冷淡な印象を与える目です。表情も、妙に大人びていて、あまりかわいげがありません。年齢こそまったく違いますが、先日他界した先のザカラス王にそっくりです。
少年の名前はトーマ・セイ・ザカラス。アイル王の長男です。父よりも祖父の前ザカラス王によく似た面立ちの、ザカラスの皇太子でした。
トーマ王子は中庭に一人きりでいました。庭には雪が降り積もり、園丁が散策路にそって綺麗な白い道を作っていましたが、その中を何かを思う顔で黙って歩いていきます。時折冷たい風が庭の中を吹き抜けますが、マントを激しくあおられても、気にとめる様子もありません。庭は静まりかえっています。鳥の声さえ聞こえてこない静寂の中、雪の道だけが延々と続いています。この白い世界に生きているのは、王子一人だけのようにさえ感じられます……。
ところが、突然その静けさを破ったものがありました。大きな犬の鳴き声です。ワンワンワン……と激しくほえたてています。
トーマ王子は驚きました。信じられないように声が聞こえた方を振り向きます。犬の声は、なんと、自分の頭のすぐ上から聞こえてきたのです。
そこには、太い木の枝が大きく張り出していました。歩道のかたわらに生えた木から伸びているものです。葉の落ちた枝には、雪が真っ白に積もっています。
そこになぜだかピンク色も見えました。枝が大きく揺れ、積もった雪が頭の上に降りかかってきます。木の上に何かがいるのです。
すると、犬の声と一緒に、今度は人の声も聞こえてきました。あわてたように、こう叫んでいます。
「いけません! だめですわ、そんなに暴れちゃ!」
少女の声です。王子はますます驚きました。目をぱちくりさせながら木の上を見つめ続けます。声はますますあわてています。
「いけませんったら! そっちに行ったら落ちてしまう――」
きゃああっ、と突然悲鳴が響き渡りました。木の上からピンク色が降ってきます。トーマ王子の真上です。
それが人間なのだとわかったとたん、王子はとっさに両腕を広げました。落ちてくるピンク色のものを抱きとめ――止めきれなくて、そのままひっくり返りました。雪をかいて作った道に仰向けに倒れ、後頭部と背中を思いきり打ち付けてしまいます。その上に、ずっしりと重たいものがのしかかってきます。ピンク色のドレスを着た少女でした。
少女は、きょとんと王子の上に座り込んでいました。小柄で華奢な少女です。体重も、トーマ王子よりずっと軽かったのですが、それでもまともに下敷きにされると苦しくて、王子はうめきました。頭と背中も痛みます。とたんに、少女はびっくりしたように飛び上がり、王子の上から飛びのきました。
「ご、ごめんなさい! つぶしてしまいましたわ! お怪我はありません!?」
と王子をのぞき込んできます。銀に近いプラチナブロンドの巻き毛に、大きな灰色の瞳の、とてもかわいらしい少女です。
「平気だ」
とトーマ王子は起き上がりました。実際には、打ち付けた頭も背中もずきずきしていましたが、それは顔に出さずに立ち上がり、服から雪を払い落とします。
少女は雪の上に座り込んでいました。ピンク色のドレスがその回りに広がって、まるでバラの花が咲いているようです。腕の中には白と黒のぶちの子犬をしっかり抱きしめていました。自分と同い年くらいだろうか、とトーマ王子は考えました。頼りなさそうな、妙に危なっかしい雰囲気が漂っています……。
少女が王子を見上げながら言いました。
「ありがとうございました。助かりましたわ。この子が木に登って下りられなくなっていたものだから、助けに行って、滑り落ちてしまいましたの。あなたが受け止めてくださらなかったら、メーレーンもこの子も怪我をしてしまうところでした」
トーマ王子は目をまん丸にしました。そうすると、いやに大人びた顔が急に年相応な表情になります。王子は、同時にいくつものことに驚いてしまったのです。とっさにどれから口にしていいのかわからなくなって、ぽかんと少女を見つめてしまいます。
「木に登った――犬が?」
王子が真っ先に言ったのはそれでした。
「で、君も木に登ったわけ? そのドレスで?」
ええ、と少女は答えて、にっこり笑いました。無邪気なほど屈託のない笑顔が広がります。
「メーレーンも驚いてしまいましたわ。犬が木に登るだなんて話、今まで聞いたことありませんでしたもの。でも、本当にルーピーはこの木に登りましたのよ。あ、ルーピーってこの子の名前ですわ。一緒に中庭に遊びに来たら、急に木に駆け上がってしまって、助けに来てくれってメーレーンを呼びましたの」
メーレーンというのがこの少女自身の名前なのだと王子は気がつきました。ということは……
「君はメーレーン王女か! ロムド国の!」
とさらに驚きながら言います。そういえば、父の戴冠式に参列するために、ロムド王妃である叔母と一緒に城に来ると聞かされていました。
「確か、メーレーン王女はぼくより二つ年上だったはずだ! じゃ、君の歳は――」
「ええ、十三歳ですわ。なったばかりですけれど。でも、どうしてそんなにメーレーンのことをよくご存じですの? メーレーンは、あなたに初めてお会いしますのに」
トーマ王子は開いた口がふさがりませんでした。どう見ても自分より幼く見えるこの少女が年上で――いや、そんなことは大した問題ではありません。それより重要なことは、これでした。
「ぼくはザカラスの皇太子のトーマ・セイだ。ぼくの父上はこの間ザカラス王になったアイル・ロダ。ぼくは君のいとこだよ、メーレーン姫!」
「まあ!」
とメーレーン王女は頬に両手を押し当てて驚きました。灰色の大きな瞳がいっそう大きくなっています。そうしていると、かわいらしい顔がますますかわいらしく見えます。
「いとこ……? それじゃ、あなたがトーマ王子でしたの? まあ……」
そう言ったきり、王女はつくづくと少年を見つめました。
トーマ王子は思わず顔を赤らめました。転んだときに服装が乱れてしまったことが急に気になって、しわだらけになった上着をひっぱって伸ばし、襟元を正しますが、ふと気がついてメーレーン王女に手を差し伸べました。王女はまだ子犬を抱いたまま雪の上に座り込んでいたのです。
「立って、メーレーン姫。そんなところに座っていたら冷えてしまうよ」
王女は素直にその手を取って立ち上がりました。驚くほど軽い手応えが王子に伝わってきます。華奢なその姿は、立つといっそうはっきりしました。本当に、トーマ王子よりも背が低くて小柄な少女です。とても自分より年上には見えません。
王女がまだ驚いた顔をしているので、王子は咳払いをしてから言いました。
「驚くのは無理もないよね。ぼくたちは初めて顔を合わせたんだから。メーレーン姫が先月この城に滞在していたとき、ぼくは南のサータマン国を訪問中だったんだ。今月になってから城に戻ってきたんだよ――」
それがサータマンの王女を将来后に迎えるための見合いだったことは、なぜか言いたくなくて、王子はことばをにごしました。
どのみち、その縁談を積極的に進めていたのは、ザカラスとサータマンの国同士の結びつきを強めようとした祖父だったのです。その祖父が急逝して、サータマンの王女との縁談は宙に浮いて流れようとしています。正直、トーマ王子はとてもほっとしていました。見合いの席で会ったサータマンの王女は、とても太っていて醜かった上に、王子より二十歳近くも年上だったからです。
愛らしい顔立ちにプラチナブロンドの巻き毛の少女は、トーマ王子のすぐ前に立っていました。本当にまじまじと王子の顔を見つめてきます。あまり真剣に見つめられるので、王子はまた顔を赤らめ、なに? と尋ねました。
すると、少女が口を開きました。
「メーレーンは、とてもびっくりしているのですわ……。メーレーンがザカラス城にいる間、トーマ王子の話はいろいろな方から聞かされたのですけれど、皆様、王子はとても冷たくて怖い人だとおっしゃっていたんですもの。怒って、家来をすぐ牢屋に入れてしまうような、意地悪な王子なんだ、って」
トーマ王子は本当に真っ赤になりました。思わず声を荒げてしまいます。
「だ――誰がそんなことを――!!」
そんな無礼なことを言った奴はすぐに牢屋へ送り込んでやる! と口走ろうとすると、メーレーン王女がふいにほほえみました。花のように柔らかな笑顔が、にっこりと広がります。面食らってことばが出なくなった王子へ、こう続けます。
「ええ、それは間違いだったと、メーレーンは、はっきり知りました。人の噂は当てにならないものだってトウガリはよく話してくれるのですけれど、本当ですわね。だって、トーマ王子はこんなに優しくて立派な方だったんですもの。メーレーンは、とっても幸せですわ。お会いできて本当に嬉しいです」
輝くような王女の笑顔は、疑うこともなく王子を見つめ続けています。尊敬と優しさが暖かなまなざしになって伝わってきます。トーマ王子は、ますますなにも言えなくなりました。本当は皆が言っているとおりの意地悪な王子なんだよ、と心の中でつぶやいている自分がいましたが、それをことばにすることはできませんでした。
すると、そこへ、王女を呼ぶ声が聞こえてきました。
「メーレーン様……! どちらにおいでですか?」
中年の男の声です。王女はすぐに嬉しそうに返事をしました。
「はぁい、ここにおりますわ、トウガリ!」
やってきたのは赤と黄色の服を着て、青い鈴付き帽子をかぶった道化でした。一目見たら忘れられない派手な化粧をしています。少女のそばにいる少年を見ると、すぐに長身を折り曲げて、大げさなほどうやうやしくお辞儀をします。
「これはこれは、ザカラスの皇太子のトーマ殿下。このトウガリめのことは覚えておいででしょうか。里帰りをなさったメノア様に同行して、トウガリがこの城にまいりましたのは、今から四年ほど前のことになりますが。大きく立派になられましたな、トーマ殿下。祖父君のギゾン王にますます似てこられて――」
とたんに、トーマ王子は不機嫌な表情になりました。ぷい、と顔をそむけてしまいます。祖父に似ている、と言われるのは嫌だったのです。誰も彼もがそう言うので、ますます不愉快は募ります。そう、父であるアイル王でさえ……。
年に似合わないもの思う顔になってしまった王子を、トウガリはお辞儀の恰好で眺めました。王子は悩んでいるのです。顔立ちはまったく違うのに、その姿はなぜか、悩むアイル王の姿と重なって見えます。
トウガリはおもむろに王女の方を振り向きました。なにも気がつかずにいる無邪気な少女に尋ねます。
「メーレーン様はトーマ殿下に初めてお会いでしたか? 姫様とは一番年の近いいとこであられる方ですが」
「ええ。今それをうかがっていたところですわ。トーマ王子は、メーレーンとこのルーピーが木から落ちたところを助けてくださったんですのよ」
「木から落ちた?」
さすがのトウガリもこれには目を丸くしました。フルートたち金の石の勇者の一行と旅をしてから、この王女は本当に活発になっていました。それまでは自分の部屋と母親の部屋だけを行き来して満足しているような、おとなしい少女だったのに、勇者たちの影響で木登りまでしたのか、と思わず心で苦笑してしまいます。
ところが、次の瞬間、トウガリはあるものに気がつきました。道のかたわらの木に近づいて、雪の積もった地面を眺めます。
「ええ、その木ですわ。ルーピーが突然登りだしたから、メーレーンは本当にびっくりしました」
と王女が無邪気に言い続けます。
トウガリは少年と少女を振り返ると、また丁寧にお辞儀をして言いました。
「冬将軍が送りつけてくる風がとても冷とうございます。お風邪を召しては大変です。姫様も殿下も、お城の中へお入りください。メノア王妃様も姫様をお捜しですよ」
はぁい、とメーレーン王女は返事をして、言われるまま城に向かって歩き出しました。腕の中には子犬を抱いたままです。その後を仏頂面のトーマ王子がついていきます。何も話そうとしませんが、メーレーン王女の方では屈託なくあれこれと王子に話しかけます。王子が無愛想な返事をしても、まったく気にしません。
その後ろを歩きながら、トウガリは素早く周囲に目を向けました。それは警戒の視線でした――。