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外伝7「二人旅」

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2.二人旅

 山の斜面を上り、沢に沿って下り、また次の尾根を上り、ビョールとサラは歩き続けました。

 ビョールは猟師なので山歩きは慣れたものですが、人間のサラも意外なほど健脚でした。ビョールはかなりの速度で進んでいるのに、遅れることもなくついてきます。しかも、ずっとしゃべり続けているのです。サラはとてもおしゃべりな女でした。

「歩くのは得意さ。なにしろ貧乏で、馬車に乗る金なんてなかったからね。どこまででも歩いていくんだ。一日中歩き続けたって、なんでもないよ」

「あたしはずっと母さんと二人暮らしだったんだよ。母さんは長くわずらってたから、治療費稼ぐのになんでもやったなぁ。男に混じって重い荷運びもやったよ。やらなかったのは泥棒と身売りくらい」

「一番きつかったのは、真冬の洗濯だったかな。川で衣類を洗うんだけどね、洗い場になってる岸には氷が張ってるんだよ。それを割って洗濯するのさ。手があかぎれだらけになって、そこから血が出るから、洗濯物がまた汚れちまうのさ。そのままにしたらお客さんにどやされちゃうからね。必死で洗い直しさ。まあ、おかげでちょっとやそっとの寒さには負けなくなったけどね」

 黙ってそれを聞きながら、ビョールは正直仰天していました。サラの話はどれも悲惨な思い出話ばかりです。なのに、この女はそれをなんでもないことのように、あっけらかんと話すのです。少しもつらそうな顔を見せません。黒い瞳は生き生きと輝き続けていて、その中を悲しみがよぎっていくこともありません。

 この女は馬鹿なんだろうか? とビョールは考えました。愚かすぎて、自分がどんな境遇にあるのか理解できないんだろうか、と。

 ビョールが返事をしなくても、サラは平気で話し続けていました。

「でも、母さんが去年の冬に急に具合が悪くなって死んじゃってね、あたしは、残った借金を返すのに家を売って、アニーの町で一番のお屋敷の住み込み女中になったんだ。ところが、ここのひとり息子がほんとに最低なヤツでさ! 若い女中って見ると手を出そうとするから、ぶん殴って逃げ出してきたのさ。お屋敷から追っ手がかかったから、あわてて山に逃げ込んで――気がついたら、こんな奥まで来てたってわけ」

 ビョールは思わず立ち止まりました。女を振り返ってしまいます。

「それでおまえはアニーに戻りたくなかったのか。戻ったら捕まるのか?」

「さあ? たぶん大丈夫だろうとは思うけどね。あのお屋敷にはもう戻る気はないし。それに――」

 珍しくサラが言いよどみました。不思議そうにビョールが見返すと、頬を染めて照れたように笑います。

「せっかくあんたが送ってくれるんだもん。こんな幸運を逃したら大変だもんね」

「なんだ。結局アニーに帰りたいのか」

 とビョールは言いました。サラはそれには答えず、ふふふっと嬉しそうに笑い返しただけでした。

 

 その夜、ビョールとサラは野宿しました。夜は冷え込むので、ビョールがたき火を起こします。そのぬくもりが届くところに、サラは毛布を絡めて横になりました。ビョールは自分の家からサラの分まで毛布を持ってきていたのです。

 赤々と燃えるたき火の光が、夜の森を照らしています。揺らめく炎の輝きを眺めながら、急にサラが言いました。

「幸せだなぁ」

 ビョールは炎のそばに座っていましたが、それを聞いて、思わずサラを見てしまいました。サラが続けます。

「夜にこんなにあったかく寝られるなんてさ。それに、あんたといれば、森の獣だって全然怖くない。山の中にいるのにこんなに安心して眠れるなんてさ――信じられないくらい幸せだよ」

 サラは本当に嬉しそうに笑っていました。少しの陰りもない、底抜けの明るさです。

 ビョールはその笑顔を見つめて言いました。

「ずいぶんと安上がりな幸せだな」

 サラはまた、ふふふっと笑いました。

「幸せなんてのはどこにでもあるもんさ。みんな、大きな幸せばっかり期待するから、なかなか幸せを実感できないんだよ。実際には、どんな時にだって小さな幸せや楽しみは必ずあるもんさ。どれほど苦しく悲惨に見えるときにだってね。あたしは、そういう小さな幸せを集めて歩くのが得意なのさ」

 そう言って、サラは歌うような口調で続けました。

「朝、お日様が明るく世界を照らしたら、気分がいいから幸せ。ご用聞きに行った家で珍しくその家の奥さんの機嫌がよくて、おはようってあたしに挨拶してくれたから、すごく幸せ。洗濯しながら世間話できる友だちがいるから幸せ。同じように苦労してる人が他にもいて、わかり合えるから幸せ。そんな誰かの恋がうまく実って、結婚するって話が聞けたから、嬉しくてまた幸せ。――そんなもんさ。どこにだって小さな幸せならいくらでも転がってるんだ。そして、ひとつひとつはちっぽけな幸せでも、それをたんねんに拾い集めたらさ、きっと、とびきり大きな幸せにも負けないくらい、すごい幸せになるんだと、あたしは思っているんだよ」

 そして、女は炎に照らされたドワーフの若者の顔を見上げました。明るい笑顔のままで言います。

「あんたはあたしの命を助けてくれた。本当は大嫌いな人間のはずなのにさ。あんたは優しいよね。無愛想に見えるけど、本当はすごく優しいんだ。だから、あたしはすごく嬉しいんだよ。町にいる頃は、ドワーフって言うと悪い噂ばかりしか聞かなかったけど、本当のドワーフはそうじゃないんだってのもわかったしね。だから、幸せ。――あたしは、とっても幸せ」

 言うだけ言って、おしゃべりな女は口を閉じました。続いてまぶたも閉じたと思うと、あっという間に眠ってしまいます。本当に、起きている間中しゃべり続けたのです。

 ビョールはサラの顔を見つめ続けました。その安らかな寝顔は炎の輝きに赤く照らされていました。

 

 次の日の夕方、ビョールとサラはアニーの町が見える麓の丘にたどり着きました。次第に暗くなっていく景色の中に町が見えています。町のあちこちに灯りがともり始め、空が暗くなると、光の集団に変わります。アニーはこの近辺でもかなり大きな町だったのです。

「さあ、あとは自分ひとりで行けるだろう」

 とビョールは言いました。なんの感情も感じさせない、そっけないほどの口調です。

 サラは少しの間、何も言いませんでした。ビョールの隣に立って、街の灯りを眺め続けます。そうしていると、ドワーフの若者は女の胸のあたりまでしか身長がありません。

 ビョールはくるりと後ろを向きました。黙ったまま山へ戻っていこうとします。これで今度こそ本当に自分の役目は終わりだと考えていました。人間の女を同じ人間の仲間の元へ送り届けたのです。もう自分にするべきことはありませんでした。

 すると、サラがふいに声を上げました。

「ビョール!」

 何故だかその声がせっぱ詰まって聞こえて思わず振り返ると、サラが食い入るような目で自分を見つめていました。夜の中、女の瞳が夜より黒く深く見えています。

 サラが言いました。

「ビョール……! あたしを連れていってよ!」

 ドワーフの男は何も言わずに女を見つめ返しました。言われたことの意味はわかっていました。けれども、それに返事をすることがためらわれたのです。

 女は必死に言い続けました。

「あたしをあんたの住んでいるところに連れてって……! どうせアニーに戻ったって、あたしを待ってる人なんて誰もいやしないんだ。あたしは、あんたのそばにいたいよ、ビョール! あんたと一緒に連れていってよ……!」

 サラと北の峰を旅したのは、たった二日間のことでした。ビョールはろくに口もきかず、代わりにサラの方は取るに足らないようなことまで何でもかんでもしゃべり通しでした。屈託なくしゃべって、明るく笑って、またしゃべって、また笑って――そうして、二人はここまで来たのです。なんとなく、サラがこう言い出しそうな予感がビョールにはありました。

 ビョールは重々しく答えました。

「おまえは人間だ」

 おしゃべりなはずのサラが黙り込みました。深く傷ついた顔で立ちすくんだのが、夜目の利くビョールにははっきり見えました。

 それでも、ビョールは言いつづけました。

「人間は人間の中でしか暮らせない。俺はドワーフだ。おまえは人間のところへ帰れ」

 サラが青ざめました。屈託のない笑顔が消えて、黒い瞳に涙が浮かびます。ビョールは、どきりとしました。なんだか自分がひどく残酷なことをしているような気分になって、何も言えなくなってしまいます。

 すると、女はくるりと後ろを向きました。ドワーフの青年に背中を見せたまま、まっすぐ丘を駆け下っていきます。その行く手に、町の灯りがありました。

 ビョールの胸に何かが重く大きくのしかかり、それはいつまでたっても消えることがありませんでした。

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