サラが北の峰のドワーフの洞窟を訪ねてきたのは、それから二ヶ月後のことでした。森は若葉におおわれ、山には初夏の気配が漂っていました。
ビョールに会いたい、と言うサラに、洞窟の番人のドワーフはそっけなく対応しました。帰れ帰れ、ここは人間の女が来るようなところじゃない。
ところが、サラは帰りませんでした。洞窟の入り口近くで野宿を始めて、そこから動こうとしません。番人のドワーフたちが追い払おうとすると、一度はそこを離れるのですが、またすぐに戻ってきてしまいます。
そんなことが三日続いて、四日目の早朝、洞窟の外にビョールが出てきました。サラは入り口の扉の近くで毛布をかぶって寝ていましたが、ビョールがその枕元に立つと目を開けました。男が覚えている笑顔でほほえみます。
「やっと出てきてくれた」
嬉しそうに言う明るい声も変わりません。
ビョールはとまどいながら言いました。
「何故また来た。家に帰ったはずじゃなかったのか」
サラは起き上がり、肩をすくめて見せました。
「あたしが勤めていたお屋敷で、あたしが坊ちゃんを殴って怪我させた、って憲兵に通報してたのさ。アニーの町にぐずぐずしてると捕まって牢屋に入れられちゃうからさ、また町を逃げ出してきたんだよ」
ビョールは何も言いませんでした。ただじっとサラを見つめてしまいます。やはりこの女は、つらい状況になっても少しも苦しい顔をしません。あっけらかんと話し続けます。
「別の町に行っても良かったんだけどさぁ、やっぱりあたしはあんたに会いたかったんだよね。人に聞きながら、この洞窟まで来たんだよ。峰の麓を回ってきたし、途中で旅費を稼ぐのに日雇いの仕事をしながらだったから、二ヶ月もかかっちゃったけどさ。こうやって、ほんとにまた会えたもんね。嬉しいなぁ」
ビョールはますますとまどいました。低い声で尋ねます。
「どうしてだ――俺はドワーフだぞ」
すると、サラはにっこり笑いました。そばかすの浮いた平凡そうな顔が、ビョールの目にはまぶしく映ります。
「そんなの、あんたがいい人だってことと、全然関係ないじゃないか。ドワーフと人間でも友だちになれるんだよ。結婚だってできるに決まってる」
そう言って、サラはじっとビョールを見上げました。何も返事をしようとしない男に、笑顔のままで言います。
「あたしはあんたが大好きさ。あたしをあんたの女房にしてよ」
ビョールはやっぱり答えません。サラもそれ以上は何も言わず、ただ男を見つめ続けました。明るい笑顔の中、黒い瞳だけが切なく想いを訴えています。女は本気なのです――。
「変な女だ」
とビョールはうなるように言いました。それ以外のことばが思いつきませんでした。
すると、サラがいたずらっぽく笑って聞き返しました。
「変な女は嫌い?」
ビョールは考え込みました。とまどい、ためらい、それでもとうとう本当のことを言ってしまいます。
「いや……むしろ好きかもな」
たちまち女の明るい笑い声がはじけました。
幸せそうに手を差し伸べてくるサラを、ビョールは腕の中に強く抱きしめました――
薄暗い部屋の中で、ビョールは目を覚ましました。
ドワーフの洞窟にある岩の家の中です。夜明け前の時刻だったので、窓の外はまだ真っ暗でした。――ドワーフの洞窟に太陽の光は差し込みません。代わりに洞窟を照らす太陽の石が、昼には輝き夜には暗くなって時を知らせるのです。
ビョールは岩の床に敷いた布団の上に寝ていました。久しぶりに懐かしい夢を見たのです。名残を惜しむように暗い天井を見つめてしまいます。
やがて、ビョールは自分の隣に目を移しました。並んで敷かれた布団の上にはゼンが眠っています。毛布をほとんど跳ね飛ばしているのを見て、ビョールは起き上がりました。大の字になって眠る息子に毛布をかけ直してやります。
もうとおに父親の身長を越えて大きくなってしまったゼンですが、寝顔にはまだあどけなさが漂っています。そして、まぶたを閉じた目元や笑うような口元に、サラの面影がありました。黒に近い髪の色も母親から受け継いできたものです。ビョールは、そっとほほえみました。
洞窟のドワーフたちにビョールとサラとの結婚を認めてもらうまでに半年かかりました。それからさらに一年後に、ゼンが生まれたのです。
ゼンがまだほんの赤ん坊だった頃に、サラは病でこの世を去っていきました。決して長い結婚生活ではありませんでしたが、ビョールはそれを不幸だとは思っていませんでした。
サラならば、きっとこう言ったのです。
「あたしはあんたと結婚できたし、こうしてかわいい息子も授かったんだもの。あたしは世界一幸せな女なんだよ。大事なのは人生の長さじゃないのさ。どのくらい幸せを感じながら生きられるか――そのことの方がずっと大事なんだよ。そう思わないかい、ビョール?」
妻の屈託のない笑顔が思い浮かびます。
同じ笑顔は息子のゼンに受け継がれました。いつの間にか、母と同じ前向きな考え方をするようになったゼンです。確かにサラは幸せだったんだろうな、とビョールは考えます。
ゼンはぐっすりと眠っています。けれども、こんな寝顔を見られるのもあとわずかなのだとビョールにはわかっていました。年明けと共にゼンは旅立っていくのです。
行き先なんかわかんねえ、とゼンはあっけらかんと言いました。とにかくフルートたちと一緒に行くんだ。デビルドラゴンをぶっ倒す方法が見つかるまで帰ってこねえけど、心配すんなよ、親父――。
ビョールは今度はちょっと苦笑しました。寝顔を見つめ続けながら、心の中で妻に話しかけます。
「ゼンが世界に出て行くぞ、サラ。相変わらず無鉄砲で危なっかしい奴だがな、それでも、なんとか頑張っていくだろうよ。困難に出会ったって、きっと切り抜けていくだろう。なにしろ、おまえと俺の息子だからな――」
そうそう、あたしたちの息子だもの。
どこかでサラが答えたような気がしました。明るい笑い声はずっと耳の底で聞こえ続けています。あたしたちはとても幸せだよね、といつもビョールに語りかけているのです。
未明の静けさの中、新しい年はもうすぐそこまで近づいていました。
The End
(2007年11月18日初稿/2020年3月22日最終修正)