女は悲鳴を上げて逃げ続けていました。
これまで来たこともない山奥です。まだ春も早い時期なので、森の中には下生えもほとんどありません。逃げるには楽な道ですが、追ってくるものにも彼女の姿は丸見えになっています。たちまちその距離が詰まってきます。
後ろに息づかいが迫ってきました。短いうなり声も聞こえます。猛り狂う獣の声です。
女はまた金切り声を上げました。その声が獣をいっそう逆上させているのに、声を抑えることができません。
と、女は太い木の根につまずきました。前のめりに転び、胸をしたたかに打ちつけて、一瞬息が停まります。必死で身を起こしましたが、痛くて立ち上がれません。
獣が駆け寄ってきました。一声吠えて、まっしぐらに女に飛びかかってきます。大きく開いた口に牙が光り、突き出されてくる前足には太い爪があります。目にも留まらない速さで女の体をえぐろうとします。熊です――。
その時、女が上げた悲鳴に、びぃん、と震える音が重なりました。空を切り裂いて飛んできた矢が、熊の大きな背中に命中します。
吠えて振り向いた熊の前に、ひとりの男が現れました。茶色い髪、茶色いひげのまだ若い男です。毛皮の袖無しの上着を着込んだ体は、がっしりとたくましい体格をしていますが、その身長は驚くほど低く、立ち上がった熊の半分くらいしかありません。
女は目を見張りました。生まれて初めて見ましたが、この北の峰の地下に住んでいるというドワーフに違いありません。ドワーフは手にはまだ弦の震える弓を持っています。
傷を負わされた熊が、怒り狂ってドワーフの若者に向かっていきました。鋭い爪で男を殴り倒そうとします。
とたんに、また弓弦が鳴りました。新しい矢が熊の胸に突き立ちます。女は目をぱちくりさせました。あまり素早くて、いつ男が矢をつがえて放ったのかわからなかったのです。次の瞬間、男はいきなり弓を投げ捨て、今度は腰から山刀を抜いて切りかかっていきました。血しぶきが飛び、熊がまた吠えます。
山のドワーフだわ……と女はつぶやいていました。話に聞いてはいたのです。ドワーフたちは北の峰の南東にある洞窟に暮らしていて、地下から鉱物を掘り出しては細工して暮らしている。その煙や湯気が峰の谷間から噴煙のように上がって見える。けれども、ドワーフの中には、地下で暮らさずに山で猟をする変わり種もいるのだ、と。彼らは人間嫌いなので、いくら探しても山のドワーフに出会うことはない、とも言われていました。
ドワーフの山刀がまたひらめきました。毛がちぎれ、血しぶきがあたりの木々に飛び散ります。
女は思わずまた悲鳴を上げてしまいました。彼女はこれまで町で暮らしてきて、獣をしとめる様子など見たこともありません。恐ろしさに全身が震えます。
すると、その声に熊が振り向きました。熊の体は流れ出た血でべったりと濡れています。女を見据えた獣の目は、すでに正気を失っていました。
「いかん」
と山のドワーフが言いました。うなるような低い声です。
ずんぐりとした体からは想像もつかない素早さで女の前に飛び込むと、襲いかかってきた熊に山刀を突き出します。
すさまじい悲鳴を上げて、熊が、どうと倒れました。刀は熊の心臓を貫いたのです。大きな灰色の体が一、二度けいれんしたと思うと、そのまま動かなくなってしまいます……。
男は刀の血をぬぐって鞘に戻し、先に投げ捨てた弓も拾い上げて矢筒の中に収めました。おもむろに死んだ熊をひっくり返します。かなり大きな熊なので、いい値で売れそうです。――助けた女のほうは、ちらりとも見ませんでした。
すると、女が突然金切り声を上げました。
「ちょっと、あんた! なんであたしを無視するのさ!?」
熊に追いかけられていた女は、地面に座り込んだまま、顔を真っ赤にしていました。長いスカートをはいてコートを着込んでいます。春先の山の中は冷え込んでいたのです。こんな格好で、よく熊から逃げていられたもんだ、とドワーフは考えました。波打つ黒髪は、必死で走り続けたせいで、まるで藪のクモの巣のようにくしゃくしゃにもつれ合っています。そばかすの浮いた顔は美人ではありませんが、生き生きと輝く黒い瞳はけっこうチャーミングです……。
「おまえは人間だろう」
とドワーフはぶっきらぼうに言いました。人間はずるがしこくて身勝手なので、あらゆる種族から嫌われています。それでも悲鳴を上げて逃げているのを無視することができなくて、つい助けてしまったのですが、これ以上相手をする義務はありません。熊にまた目を戻します。この程度なら自分ひとりでも洞窟まで運べるでしょう――。
すると、女がまた叫びました。
「そうさ、人間だよ! それくらい見てわからないの!? 話ぐらいさせてよ!」
男がそっけなくあしらっても、負けずに食いついてきます。かなり気が強い女のようです。
「話すことなどないだろう」
とドワーフの男は答えました。元々女は苦手でしたが、騒々しい女はさらに苦手です。熊の死体を担いで離れていこうとします。
女がまた、わめきました。
「あんたにはなくたって、あたしにはあるんだよ! 待ってったら!!」
ドワーフは足を止めました。こんなことなら助けるんじゃなかったな、と心の中で考えながら、迷惑そうに振り向きます。
すると、その瞳をまっすぐに見つめて、女は言いました。
「助けてくれてありがとう――。あんたはあたしの命の恩人だよ」
男は目を丸くしました。自分はドワーフです。人間がドワーフにまともに礼を言ったことが信じられませんでした。思わず見つめると、女が急に、にっこりと笑いました。本当に、全然美人ではありません。それなのに笑顔は輝くように明るくて、男は思わず目を奪われてしまいました――。
女は笑いながら言いました。
「あたしはサラ。あんたの名前は? ドワーフさん」
「ビョールだ」
男は自分でも気がつかないうちにそう名乗っていました。
早春の山は、やっと木々の芽が動き出したばかりです。淡い緑色に包まれた森の中に、光がいっぱいに差し込んで、一組の男女を照らします。息絶えた熊を担いだドワーフの男と、地面に座り込んでいる人間の女です。女は日差しに負けないほど明るい笑顔を見せています。
ビョールはとまどったように女から目をそらしました。相変わらずぶっきらぼうに尋ねます。
「何故こんなところにいた。どこから来たんだ」
このあたりは北の峰でも特に奥深くて、人間などまず入り込まない場所でした。
サラと名乗った女は肩をすくめました。ちょっとしたしぐさが妙に茶目っ気にあふれて見えます。
「迷子になっちゃってね。北の峰の西にあるアニーって町から来たんだけど」
「アニーだと? ひとりで来たのか」
とビョールは驚きました。その町ならばビョールも知っています。年に二度ほど大きな市が立つので、そこへ獲物を売りに行ったことがあるのです。峰の西の麓にある町で、ここからだと歩いて二日はかかります。
「ちょっとわけがあってね。山に逃げ込んだら、下りる道がわからなくなって、こんなとこまで来ちゃったんだよ。熊にまで出くわしちゃうし、ほんとに、どうなることかと思ったわ」
けれども、そう話す女の顔は本当に屈託がありません。今度はいたずらっぽい少女のような笑顔を浮かべます。
その女の靴やスカートの裾が泥まみれになっているのに、ビョールは気がつきました。スカートやコートには何かに引っかけたようなかぎ裂きもいくつもあります。確かにこの女は長い距離、山の中を自分の足で歩いてきたのです。
女が荷物らしい荷物も持っていないので、ビョールはまた尋ねました。
「飯は? 夜はどうした?」
まだ春も早い時期です。山の中は明け方には氷点下にまで冷え込みます。
「夜中歩いて、昼間にちょっと寝たよ。寒くて夜は寝られなかったからさ。月が明るかったから、歩くのには困らなかったね。食事? 木の実、草の実、谷川の水――ってとこかな」
ビョールは今度はあきれました。それだけのことを、この女はなんでもないことのように、あっけらかんと話すのです。
少し考えてから、ビョールは言いました。
「ここで待っていろ」
そのまま自分より大きな熊を担いで森の奥へ姿を消していきます。あっという間のことでした。
後に残された女は、目を見張ったまま座り続けていました。
ビョールが戻ってきたのは、それから二時間ほど過ぎた頃でした。熊の死体はどこかへ置いてきたようで、代わりに大きな荷物を背負っていました。何故だか、ひどい仏頂面をしています。
サラは日だまりの木の根元に座っていました。いえ、木にもたれかかって眠っていたのです。周りにまだどんな危険な獣が潜んでいるかわからないというのに、無防備なほど安心しきった寝顔です。ビョールはまたあきれかえって女を眺めてしまいました。
すると、サラが目を覚ましました。ビョールがのぞき込んでいるのに気がつくと、またにっこりします。
「おかえり」
当然のことのように言われて、ビョールはとまどいました。
「本当に待っていたのか」
「だって、待ってろって言ったのはあんただろう?」
サラがおかしそうに言い返します。ドワーフの青年が適当なことを言って自分を置き去りにしたとは考えなかったのです。ビョールはまたしばらく女を見つめ、やがて、ぼそりと言いました。
「変な女だな、おまえは」
「うん、みんなから言われるよ。脳天気すぎるって、よく叱られるけどね。しょうがないじゃないか、生まれつきの性格だもん」
サラがあまり屈託なく開き直るので、ビョールは黙って肩をすくめました。担いできた荷物を下ろし、包みを取りだして差し出します。
包みの中から燻製肉をはさんだパンが出てきたので、サラは悲鳴のような歓声を上げました。次の瞬間には、大口を開けてかぶりつきます。――丸二日、ろくに食事もせずに山の中をさまよってきたので、実は死にそうなぐらい空腹だったのです。咽にパンを詰まらせかけて、ビョールが差し出した水筒の水で飲み下します。
すると、突然サラが泣き笑いを始めました。笑顔で涙を流し、むやみとそれをこすりながら、それでもパンを食べ続けます。ビョールが面食らっていると、サラは言いました。
「ありがとう。ほんとに生き返ったよ。あんたって本当に親切だね。ドワーフが冷たくて底意地悪いだなんて大嘘だ」
「どうかな」
ビョールは答えました。どんな顔をしていいのかわからなくなって、また仏頂面に戻ってしまいます――。
サラが食事を終えると、ビョールは言いました。
「来い」
森の中に向かって、さっさと歩き出します。サラはあわてて立ち上がって後を追いました。
「ま、待ってよ。どこへ行くの?」
「おまえの家はアニーにあるんだろう? 送ってやる」
サラは驚きました。そうすると黒い瞳がまん丸になって、また愛嬌のある表情になります。
と、その顔が急に困ったように眉をひそめました。
「えぇとさ……送ってくれるって言うなら、別の町にしてもらっちゃだめかなぁ。さっきも言ったろ? ちょっとわけありでね。アニーには戻りにくいんだけど……」
ビョールは何も言いませんでした。ただ黙って肩をすくめます。そのまま立ち去りそうな気配を感じて、サラはあわてて手を伸ばしました。男の毛皮の上着をつかんで引き止めます。
「待って! アニーでいいよ! アニーまで送って!」
ビョールは何も言わずに女を見つめました。本当だな、と聞かれているような気がして、サラは何度もうなずきました。
「ほんとほんと! アニーでいいよ! アニーに送って――ううん、送ってください!」
毛皮の上着をしっかりつかみ続けます。
ビョールは、ふいと顔をそらすと、森の奥を顎でしゃくりました。
「こっちだ」
と先に立ってまた歩き出します。その上着につかまったまま、サラは必死で後についていきました。