いくつもの階段と廊下を通って、王がユギルを連れて行ったのは、今まで彼が来たこともなかった城の奥まった場所でした。
そのあたりにはもう出入りする貴族たちの姿もなく、しんと静まりかえった雰囲気の中に、要所要所に衛兵が立っていました。
王は一つの扉を静かにたたきました。中から返事があって、中年の侍女が顔を出し、王を見て、うやうやしくおじぎをします。
「これは陛下。ようこそおいでくださいました」
「起きているか?」
と王が尋ねます。
「はい。今日は気分がおよろしいようです」
と侍女は答えながら、王を部屋の中に招き入れました。ユギルもその後についていきます。
そこは意外なほど明るくこざっぱりした部屋でした。余計なものはほとんどなく、ただ椅子とテーブルと作り付けのワードローブがあって、大きなベッドが部屋の真ん中に置かれていました。天蓋付きの立派なベッドです。窓から春の日差しがいっぱいに差し込んでまぶしいくらいなので、ベッドには薄いカーテンが下ろされていました。
ユギルは首をかしげてカーテンの奥を見つめました。人がいるのを感じますが、その気配が普通と少し違っていたのです。象徴も見えます。それは、今にも立ち消えそうな淡いロウソクの炎でした。
侍女がベッドのカーテンを開けたとき、ユギルは思わず納得しました。そこに寝ていたのは、一人の老人だったのです。彼が今まで会ってきた誰よりも――国王よりも、ラヴィア夫人よりも年を取っています。痩せ衰え、本当に骨と皮ばかりのような姿をしていて、ベッドに横たわったまま、身動きひとつしません。目を閉じ、歯が一本もなくなった口を半開きにしている姿は、もうその老人が何を見ることもなければ、話すこともないのだと感じさせます。体も頭もすべて年老いて、寝たきりになっている老人でした。
国王は老人をのぞき込んで声をかけました。
「来たぞ、じい。気分はどうだ……?」
ユギルがこれまで聞いたこともなかったほど、優しい声です。王は布団の下から老人の手をそっと引き出しました。細い枯れ枝のような腕や手は、細かいしわでおおわれています。それを静かにさすりながら、王は話しかけ続けます。
「じい、この前話して聞かせたな。ここにいるのが占い師のユギルだ。まだ若いが、非常に優秀な占者なのだぞ。わしはもう、何度も命を助けられている。じいに会わせたくて連れてきたのだ」
けれども、どれほど話しかけられても、寝たきりになっている老人は何の反応も示しません。目は閉じたまま、口は半開きのまま、声も上げなければ、表情も手も、どこもまったく動きません。
ユギルはとまどいながら王の後ろに立ち続けていました。老人が目を開けて彼を見ることはありません――。
やがて、王はまた老人の手を静かに布団の中に戻しました。最後まで優しい口調で話しかけます。
「また来るからな、じい。達者でおれよ」
侍女が出口まで王を見送りました。それに声をかけて、王は部屋を出ます。ユギルもその後について部屋を出ました。
その時、部屋の中から声が聞こえたような気がして、ユギルは振り向きました。そこにはベッドに寝たきりの老人がいるだけです。その人が何か言うはずはありません。それでも振り向き続けるユギルの目の前で、扉が閉まりました。
「どうした?」
と王がユギルに尋ねました。少年は扉の向こうを見つめたまま答えました。
「声が聞こえた気がしたんだ……。またおいでください、って言ってたような気がする」
王は目を見張ると、一緒に扉を眺め、やがて、そうか、とつぶやきました。その顔には穏やかなほほえみがありました。
「そなたを連れてきて良かった。じいも喜んだのだろう」
ユギルは少し考えてから尋ねました。
「今のは誰だったのさ?」
「わしのじいやだ。わしがまだ若かった頃に目付役をしていたのだ。今はもうすっかり年を取ってあんなふうだが、昔はそれはそれは怖い人物でな、わしはしょっちゅう怒られておったよ」
そんな話をしながら、王はまた先に立って歩き出していました。自分の部屋に戻るのではなく、さらに階段を上がって、城の上の方を目ざしていきます。そうしながら、王は話し続けていました。
「わしがロムドの王になったとき、わしはまだ十二歳の子どもだった。わしの兄たちが皆、病気や事故で急死したために、思いがけずわしに王冠が回ってきたが、それまでわしが王になるとは誰も思っていなかったから、わしは王の勉強など何一つしてこなかった。むろん、国政など執れるわけがない。実際の王の仕事は当時の宰相が一手に引き受けて、わしは毎日――」
「勉強したんだろ。それと、礼儀作法の稽古かい?」
とユギルは皮肉っぽく口をはさみました。
すると、王は、にやりと笑い返しました。
「いいや、城を抜け出して遊び回っておったよ。そなたも稽古をさぼりまくっておるようだがな、おそらくわしにはかなわんぞ。じいたちは、わしがあまり勉強をさぼるので、城の一番高い塔のてっぺんに閉じこめて鍵をかけたのだが、わしは部屋のカーテンでロープを作って窓から脱出してみせたからな。まあ、下の階の窓まで降りて、後は階段で逃げたのだが。さすがに塔のてっぺんは風が強くて、それは揺れてな、あおられて転落したらひとたまりもないと思って、後は二度とやらなかった」
ユギルはあきれて王を見ました。子ども時代の思いがけないやんちゃぶりに、なんだか気持ちをそがれてしまいます。
王は歩きながら話し続けていました。
「勉強はさぼったが、代わりに城下町で人の話は山ほど聞いたぞ。いろんな場所へ出かけていったし、様々な職種、あらゆる階層の人にも会ってきた。そなたのような、貧民街で育った子どもと一緒に過ごしたこともある。本も読まないわけではなかったが、それよりも何よりも、自分のこの目で国を確かめたかったのだ。良き王になるには、自分で国民の生活を確かめるのが大切だ、とじいに言われていたからだ。じいは、怒ると本当に怖くて、わしはいつも青くなって城の隅っこに隠れていたものだが、じいが怒ることはいつもそのとおりだったし、じいがわしに言うことは、いつも正論だったのだ」
いつしか王とユギルは城の塔の頂上まで来ていました。屋根のかかった見晴台になっていて、低い石壁の向こうに、城下町のディーラと、街壁を越えた先の平原が見えます。春の初めの平原は、若草と若葉のけむるような緑におおわれていました。その間に黒々と広がっているのは、種まきに備えて耕された畑です。畑の中に、赤茶色の石畳の街道がどこまでも続いています。
「美しい景色であろう?」
と王はユギルに言いました。
「じいも、わしを時々こうしてここに連れてきて、こんなふうに景色を見せてくれた。春夏秋冬、いつの季節もロムドの平原は美しくて豊かだった。それを示しながら、じいは言ったのだ。『この景色こそが一番美しいのだと思いなさい』とな。『立派な城も、きらびやかな衣装も、みんな見せかけの美しさに過ぎません。本当に何より美しいのは、豊かな土地と、そこで平和に暮らす国民の姿です。この国を支えている者が誰かをはっきり見極めなさい。それを守ることこそが国を守ることであり、王の勤めなのだと知りなさい』とな。――わしは帝王学の授業を完璧にさぼり倒したがな、退屈な教授の授業などより、じいの話の方が、よほどわかりやすくて納得がいったのだ」
ユギルは何も言えなくなって、ただ王と並んで見晴台の上から周囲の景色を眺めました。ロムドの大平原は緑豊かな土地です。なだらかな丘をいくつも連ねながら、地平線まで続いています――。
すると、王は、ぽんとユギルの肩に手を置きました。目は景色を眺めたまま、話し続けます。
「人を見た目で判断するな、と言ったのもじいだった。わしはまだ子どもだったが、良い王になる素質がある、とも言われた。だから努力なさいませ、とな。そのことばに支えられて、わしは大人になっていったのだ」
王はかたわらに目を向けました。銀の髪、浅黒い肌、色違いの瞳の少年を見つめます。
「そなたは確かにその姿で苦労してきたのだろう。人はどうしてもまず見た目で相手を判断するからな。だが、そなたにはそれを越えるだけの才能もある。このロムドに、そなたに並ぶだけの占者はおらぬ。その力を、わしに貸してほしいのだ。わしはこの国を守り続けたい。そのためには、力ある者たちがどうしても必要なのだ」
ユギルはさらにことばが出なくなって、ただ王を見つめ返してしまいました。王は真剣です。とても十五の少年に向かって言っている口調と表情ではありません。
ユギルは、やがてゆっくりと王に頭を下げました。
「俺が――その力になれるのだったら――」
王はほほえんでうなずきました。
ユギルが王と別れて自分の部屋に戻ると、部屋ではラヴィア夫人が椅子に座って待っていました。
「おや、今日はずいぶん早く戻ってきたのですね」
と言われて、ユギルは部屋の入口で二の足を踏みました。まだ稽古の時間で、部屋に夫人がいることを忘れていたのです。あわてて逃げだそうとしましたが、ふと思い直すと、夫人を振り向きました。
「陛下のじいやって人に会ってきたよ」
ラヴィア夫人は、また、おや、という表情をしました。
「陛下がお連れになったのですか?」
ユギルはうなずきました。ちょっとためらってから、また尋ねます。
「あんたは、あの人のことをよく知ってるのかい?」
いつもならば「あんた、ではなく先生かラヴィア夫人ですよ!」と叱るのに、この時の老婦人はそれを言いませんでした。ただ、深いしわを刻んだ顔にほほえみを浮かべると、静かに答えます。
「もちろん、よく知ってますとも。一緒に陛下を教育してきた戦友ですから」
「戦友?」
目を丸くしたユギルに、ラヴィア夫人は声を立てて笑いました。この夫人は、年を取っていてもまだまだ元気です。
「なにしろ陛下は、子どもの時分にはそれはそれはやんちゃな方でしたからね。私もドマ殿も本当に苦労させられたものです。――ああ、ドマ殿というのが、陛下のじいやのお名前です。あなたもなかなかのものですが、ことばづかいはともかく、行儀は陛下よりあなたのほうがましなくらいです。陛下は本当に、一時たりとも目が離せませんでした」
ユギルはいっそう目を丸くしました。何と言っていいのかわからなくなります。
老婦人は穏やかに話し続けました。
「陛下は初めから今の陛下だったわけではありません。子どもの頃から大変賢い方ではありましたが、だからといって、何もせずに立派な王になれたわけではないのです。陛下は独特のやり方で国について学び、王について学んでこられた。だからこそ、今、『賢王』と呼ばれているのです」
ユギルはまた考え込み、口を開きました。
「でも、それを教えてきたのはあんたたちだったんだろう?」
老婦人はまたほほえみました。
「私たちがお教えしたのは基本だけです。それを元に、さらに学び考えてこられたのは陛下ご自身です。教育とはそういうものです。教えて作ってあげられるのは土台の部分だけ。その上に立って、さらに何を求め、何を学び、何を成し遂げていくかは、本人自身の能力と努力に委ねられるのです」
ユギルはまた何も言えなくなりました。さっき城の奥で会った寝たきりの老人の顔を、なんとなく思い出してしまいます――。
すると、ラヴィア夫人は口調を変えて椅子から立ち上がりました。
「さあ、せっかくあなたが時間のうちに戻ってきたのです。さっそくお稽古を始めましょうか」
けれども、そう言って夫人がまた顔を上げたとき、少年はとっくに部屋から逃げ出していて、もうどこにも姿がありませんでした。
おやまあ、と老婦人は頭を振りました。