ユギルがマグノリアの元に来てから、いつの間にか半年が過ぎていました。
最近では、ユギルも一人で占盤を使って占えるようになっていました。マグノリアからもらったお古の占盤を使って、毎日、現在と未来を占うのが日課になっています。もう少し慣れたら、あんたにも客を占わせてあげるからね、とマグノリアには言われていました。
その日も、彼女は町一番の金持ちに呼ばれて、占いに出かけていくところでした。一張羅の占い師の服を着て、鞄に占盤を入れて馬車で出かけようとします。
「マギー」
占いの間から出たユギルはマグノリアを呼び止めました。
「今日は馬車で行かない方がいいと思うぞ。途中で事故に遭って立ち往生するって出てる。歩いていった方がいい」
「おやまぁ。弟子が師匠を占いに従わせるかい。でもまあ、確かに、最近じゃ近い未来はあんたのほうが正確になってきたからねぇ」
気を悪くした様子もなく、マグノリアは笑いました。
「いいだろ。歩いていくことにするよ。どうせガラバンさんのお屋敷は歩いていったって十五分とかからないんだ。ちょうどいい運動だ」
「俺が荷物を持っていこうか?」
とユギルは尋ねました。占盤を入れた鞄は重たそうです。すると、女は、あっはっは、と声を上げて笑いました。
「馬鹿におしでないよ、ユギル。あたしがそんな非力なわけないだろう!」
確かに、マグノリアの腕は強く太くて、石の占盤だろうがなんだろうが、軽々と運んでいくだろうと思えました。
すると、マグノリアは笑うのをやめて、つくづくとユギルを見ました。
「大きくなってきたねぇ、あんた……。出会った頃にはあんなに痩せっぽちだったのに、最近じゃずいぶん背も伸びてきたし。この分だと、間もなくあたしを追い越しそうじゃないか」
そう言われて、ユギルは肩をすくめました。
「まだまだだよ。あと十センチ以上も差があるじゃないか」
「あんたは男の子だ。そんなもん、あっという間だよ。そうしたら、あんたも一人前だ。早いよねぇ」
しみじみとそうつぶやいてから、マグノリアはまた笑いました。
「ちゃんと食べるんだよ、ユギル。育ち盛りなんだ。しっかり食べないと、大きくなれないんだからね」
まるで母親が小さな子どもに言い聞かせるような口調に、ユギルは思わず口をとがらせました。
「ちぇ、わかってるってば」
あっはっは、とまた声を上げて笑うと、マグノリアは鞄を提げて出かけていきました。
それを外まで見送って家に戻ると、ユギルはつぶやきました。
「これでよし、と」
その顔は意外なほど真剣な表情になっていました。
マグノリアはジャウルでも売れっ子の占い師ですが、その分、商売敵も大勢います。最近、その中でも特に陰湿な連中が、人を雇って彼女を襲撃しようとしていたのです。
事故で立ち往生した馬車に、そんな奴らが襲いかかってくる、と占盤はユギルに伝えていました。マグノリアが命にも関わりかねない大怪我をする、と。
けれども、狙う人々はマグノリアの馬車を目印にしています。歩いて行ったときには、道順も違うので、待ち伏せする者たちには気づかれない、と占いは告げていました。目的通りマグノリアを馬車ではなく徒歩で行かせることができて、ユギルは、ほっと一安心したのでした。
「マギーも不用心だよな。そろそろボディーガードくらい雇うべきなんだ」
そうつぶやいてから、ユギルは思わず変な顔をしました。男顔負けのたくましさのマグノリアです。ボディーガードと並んで立ちながら、逆に、それを守っている姿を想像してしまったのです。
ユギルは思わず苦笑いすると、また占いの間に戻っていきました。どうしたら危険な商売敵を払拭できるか占うために、占盤の上に彼女の未来を読み出そうとします。
占盤に象徴が浮かび上がってきました。灯火のように輝く白いマグノリアの花です。彼女自身はあんなにごつい姿をしているのに、象徴は本当に優しげで綺麗です。
と、ユギルは目を見張りました。象徴が、突然変化を始めたのです。純白の花がみるみるうちに色を変え、音もなく散り始めます。風も吹かない占盤の上で、花びらが舞い落ちていきます。それは、血のように鮮やかな紅い色に染まっていました。
「マギー!!」
ユギルは飛び上がりました。これはもうひとつ先の将来です。襲撃を避けて徒歩で客の屋敷に向かったとき、マグノリアが出会うことになっている未来の姿でした。
恐ろしい予感に息が詰まりそうになりながら、ユギルは家を飛び出し、彼女がたどったはずの道を走りました。追いつき、彼女を引き止めようとします。
その先にあるのは、襲撃されたのと同じくらい危険な未来でした。何が起こるのか、具体的にはわかりません。けれども、運命はいくつものくぐり戸を準備して、人を定めの中に誘い込もうとするのです。ユギルはまた油断してしまったのでした。
行く手で大勢の人が騒いでいるのが目に入りました。通りに馬車が停まり、そのまわりに人垣ができています。事故があったのです。
ユギルはそこへ駆けつけました。不安に胸を締め上げられながら、人を押しのけて前に出て行きます。知らない間に大声を上げていました。
「通して! 通してくれ――!!」
しゃにむに前へ出て行ったとき、目に入ったのは、血で赤く染まった石畳と、立ちすくむように停まっている四頭立ての馬車でした。馬車の御者らしい男が、血溜まりの中を指さしながらどなっていました。
「あっちだ! あの女がいきなり前に飛び出しきやがったんだぞ!」
だから、こっちのせいじゃない、と言いたそうな男に、通行人の一人がどなり返しました。
「馬車がはねようとした子を助けたんじゃないか! あんたが前をよく見てなかったんだよ!」
小さな女の子が声を上げて泣いています。それを別の大人が抱きしめています。集まった人々から無言の非難を受けて、御者の男が黙り込みました。
ユギルは声もなく進み出ました。血溜まりの中に倒れている人を見下ろします。それはマグノリアでした。
いくら頑丈な彼女でも、馬にまともに踏まれ、馬車の重い車輪にひかれては、無事でいることはできません。傷口から流れ出す血が通りの敷石を紅く染めています。それはあまりにも大量の出血でした。助かることなど、とても考えられないほどの――。
ユギルは彼女のかたわらにひざまずきました。蒼白になった顔をのぞき込みます。
「マギー……」
すると、その声が聞こえたように、マグノリアが目を明けました。ユギルの泣き顔を見て、おやおや、と笑うような顔をします。
「珍しいねぇ、あんたが泣くなんて……。男の子だろ、泣くんじゃないよ……」
弱々しい声ですが、いつものようにそんなことを言います。
ユギルは頭を振りました。
「俺……俺、また読み切れなかったよ……。あんたがこんなふうになるなんて、思ってもいなかった……」
涙が抑えようもなくあふれ続けます。苦い後悔と激しい怒りに体が震えます。自分自身を引き裂いてしまいたいほどでした。
すると、マグノリアが言いました。
「あんたは読めなかったかもしれないけどね……あたしには、ちゃんと見えていたんだよ……。もう何年も前からね……。あたしには、この先の未来はなかった。人生の舞台から下りなくちゃならなかったのさ……。だから、あたしは後継者を捜したのさ……あたしの後をついでくれる、若い占い師をね……」
ユギルはことばを失いました。どんどん青ざめていく女の顔を見つめ続けます。
すると、マグノリアが手を伸ばしました。少年の銀髪をそっとなでます。その指は血に紅く染まっていました。
「こんなにいい子に出会えるなんてさ……占盤も、粋な計らいをしたと思わないかい……? 占盤が、あんたを見つけた。あんたの声を、あたしのところまで届けた……。あたしたちは、巡り会うべくして、巡り会ったのさ……」
「マギー!」
ユギルは泣きながらまた頭を振りました。死にかけている女に向かってどなってしまいます。
「どうして逆らわなかったんだよ!? どうして、運命だなんてあきらめたんだ! 見えてたんだろ!? こっちの道を来たらこうなるって、あんたにはわかってたんだろう!? それなのに、なんで引き返さなかったんだよ――!?」
理不尽な怒りがこみ上げてきて、こらえようがありませんでした。また一人にされる。置いていかれて、一人ぼっちにされる。そのことに対する恨みと怒りでした。
すると、マグノリアが笑いました。銀の髪をまたなでます。
「なんだろね、この子は……またすねちまうつもりかい……? あたしにはね、あんたの将来も見えているんだよ……。あんたはやがて世界を救うよ。そのための、大きな力の一人になっていくんだ。でもね……あたしがいたら、あんたは世界に出ていくことができない。あんたは、あたしを越えて行かなくちゃいけないんだ……。だからね、あたしは引き返さなかったんだよ。あんたに、道の入口を開けてやりたかったのさ……」
ユギルは絶句しました。その髪から、女の手が力なく落ちていきます。とっさにユギルがそれを受け止めると、マグノリアはまた笑いました。
「お行き、ユギル。世界があんたを待ってるよ……。あんたは一人ぼっちじゃない。あたしはずっと、あんたを見ているからね……。たとえ死んだって、あの世の果てからだって、ずっとずっと、あんたのことを見ていてあげるからね……」
マギー、とユギルは言いました。他のことばが出てきません。マギー、マギー、と名前を呼び続けます。けれども、その声は何かの表面をかすめるだけで、本当に伝えたいことを伝えようとはしませんでした。
ユギルは泣きながら、必死で自分の中にことばを探し回り、心の一番奥深いところに、ずっとしまい続けていたことばを見つけ出しました。ようやくのことでそれを声にします。
「……お母さん……」
けれども、それに応える声はありませんでした。握りしめるユギルの手の中で、大きな節くれ立った手が冷たくなっていきます。遠い世界へ――どんなに優秀な占者であっても占うことができない、遠くはるかな世界へと、マグノリアは旅立ったのでした。