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外伝6「マグノリア」

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3.闇

 それから三週間がたちました。

 規則正しい生活と食事で、ユギルは見違えるほどしっかりした体つきになってきました。相変わらず痩せていますが、銀髪は輝きを増し、浅黒い肌には少年らしい張りが出てきています。青と金の色違いの瞳は、相変わらず暗くすねた表情を浮かべていますが、それも、時々年相応の明るいまなざしになる瞬間がありました。

「マギー、いったいいつ教えてくれるんだよ」

 とユギルは時々マグノリアに尋ねました。大柄な女占い師は、いくら待っても占いの奥義とかいうものを教えてくれようとはしなかったのです。

 すると、女は決まって目を細めて少年を眺め、

「まだだね」

 と笑うように答えるのでした。

 

 とうとう、ユギルは待ちきれなくなりました。マグノリアは奥義など最初から教えるつもりはなかったんだろう、と考えると、いいように働かされている自分がひどく滑稽に見えてきます。

 ユギルはマグノリアが留守の隙にそこから逃げ出すことにしました。死んでいった仲間たちが、恨みを晴らしてくれ、と夜ごと夢枕に立ちます。やはり、故郷のボーチェナに戻って、きっちりけじめをつけなくてはならないとも考えました。

 ボーチェナまでは徒歩で三日ほどの道のりです。旅費が必要でした。マグノリアが占い客から受け取った代金をどこにしまっているのか、ユギルはちゃんと知っていました。それを勝手にいただいていくことに、これっぽっちの良心の呵責も感じません。誰もいない屋敷の中、ユギルは占いに使う部屋へ入りこんでいきました。

 壁の隠し扉を開けると、その奥に金庫がありました。マグノリアはここジャウルでも売れっ子の占い師です。金庫の中には、金貨や銀貨が詰まった袋がいくつも並んでいました。

 けれども、それを二つ三つちょうだいしようとした時、ふいにユギルは振り向きました。誰かから呼ばれたような気がしたのです。マグノリアではありません。いえ、人の声でさえないようでした。何かが、声にならない声で、ユギルを呼んでいました。

 人影のない部屋の中央に椅子とテーブルがあり、テーブルの上に黒い占盤が載っていました。占盤というのは、マグノリアが占いの時に使う道具です。呼び声は、そちらから聞こえてくるようでした。

 ユギルはそっと近づいて占盤をのぞき込んでみました。マグノリアは、絶対にそれに触れてはいけない、そばに寄ってもいけない、と言っていました。「それはあたし専用の占盤だからね。絶対に手を出すんじゃないよ」と。けれども、ユギルはもうここを出ていくのです。彼女の言いつけなど、もう聞く必要はないと考えました。

 占盤は黒い大理石を円盤の形に削ったもので、まるで鏡のようにユギルの顔を映しました。石の表面に意味のよくわからない線や文字のようなものがいくつも刻み込んであります。ここに象徴を映しながら、その意味する未来を読み解いていくのだと、何かの時にマグノリアは言っていました。

 象徴をね、とユギルは皮肉に笑いました。占盤など使わなくても、ユギルには象徴が見えます。その気になれば、水の上にでも何もない空中にでも、象徴を思い描いて読み解くことができるのです。占盤を使わなくてはそれができないマグノリアなど、実は占者として大したことがないんじゃないか、とも考えます。

 

 その時、占盤の上を何かが走りました。色とりどりの光の群れです。大きな強い金の光が、銀の光と星のように小さな光を従えて、占盤の表面を動いていきます。そのすぐ後を青く輝く炎と緑の光、白い翼のようなものがついて走ります。

 ユギルは、はっとしてそれを見つめました。象徴です。けれども、これほど鮮やかではっきりした象徴を見るのは生まれて初めのことでした。まるで目の前に本物の光が存在して、占盤の上を動いていくようです。

 と、その行く手に得体の知れない影が現れました。形にならない、濃い影です。黒い渦を巻きながら、光の群れだけでなく、その周囲のあらゆるものを飲み込んでいこうとします。ユギルは眉をひそめました。影の渦は暗くて深く、どことも知れない場所につながっているように見えます。――ユギルは好奇心にかられました。本当に占盤がどこかにつながっているか確かめようと、手を伸ばして、影の渦に触れてみようとします。

 とたんに黒い火花が散り、あたりが真っ暗になりました。

 

 何も見えない暗闇の中に、さらに黒い影がよどんでいました。言いようのない恐怖感がユギルを襲います。よどんだ影が蛇のように鎌首をもたげたのです。その中に血のように赤く輝く二つの目がありました。影が大きな翼を広げたような気がします。なにもかもが、境界線もなく、あいまいとしていて、よくわかりません。けれども、影の翼は二枚ではなく、四枚あるように思えました。

 すると、どこかから声が聞こえてきました。声にならない声、この世ならぬものの声です。地の底のさらに深い場所からはい上がってくるように、ユギルに向かってこう言います。

「キサマハ、ヤガテ私ノ邪魔ヲスル者。今ノウチニ殺シテヤロウ、占イ師。オマエハ生キル望ミナド持ッテハイナイノダカラ」

 再びユギルの全身を寒気が走っていきました。圧倒的な恐怖が襲いかかり、少年の体に絡みついてきます。影が蛇のようにユギルの体を捉え、ぎりぎりと締めつけてきます。咽に絡みついた影に息ができなくなります。

 ユギルはもがき、悲鳴を上げようとしました。声が出ません。影をつかんで引きはがすこともできません。真っ暗闇の中、闇より暗い影にとらわれて、少年はただもがき続けました。

 これは死ぬな、とユギルはあえぎながら考えました。苦しくてたまりません。次第に意識がもうろうとしてきます。

 けれども、今までの人生を振り返れば、ユギルはやっぱりずっと苦しかったのでした――。

 

 ユギルはとても珍しい色合いの子どもでした。輝く淡い銀の髪、浅黒い肌、青と金の色違いの瞳。ボーチェナでは、色違いの目は悪魔の子と呼ばれます。銀の髪も浅黒い肌も、まわりの者たちとまるで違います。母親とさえ、似ても似つかなかったのです。

 母親が自分を疎ましがっていることは、物心ついた頃から気がついていました。夕方仕事に出かけて、明け方近くになって戻ってくる母親でした。幼いユギルは室内飼いにされているペットのように、昼も夜も家の中に閉じこめられていました。父親もきょうだいもなかったので、いつも一人きりでしたが、その孤独は、母親が一緒にいるとなおさら深まるような気がしました。

 母親が仕事に出かけない日、夜中の時間帯を選んで外に出してもらえることがありました。どの家も明かりが消えて、通りは静まりかえっています。月の光を浴びながら、ユギルは一人で遊びました。月の光が作る自分の影と、どこまでも鬼ごっこをしました。

 ところが、何の拍子でか、そんな彼の姿を見かけた者があったのです。ボーチェナの老貴族でした。こんな綺麗な子どもは見たことがない、ぜひ自分の屋敷に引き取って小姓として育てたい、と、母親に向かって言ってきました。

 母親は目の前に積み上げられた金貨だけを見ていて、ユギルがどんなに泣いても叫んでも、幼い息子を振り返ろうとはしませんでした。

 ユギルは、この頃にはもう、象徴や映像が見え始めていたのです。親切そうな顔をした老貴族の向こうに、残酷な笑い顔の小鬼が見えていました。鞭や焼けた鉄火箸も見えていました。この男と一緒に行けば、必ずひどい目に遭わされるとユギルにはわかっていました。それでも、どんなに懇願しても、母親は聞き入れません。一山の金貨と引き替えに、息子を男に売り渡す契約をしました。

 その夜、ユギルは一人で家を出ました。前金をもらった母親は、上機嫌で酒を買ってきて、酔って眠ってしまっていました。その残りの金を、ユギルはすべて持ち出したのです。それで後々、母親がどうなろうが、老貴族との間でどんな騒ぎになろうが、そんなことは知ったことではありません。ただ生きのびるために、自分が自由であるために、ユギルは夜の中へ一人で逃げ出していきました。わずか五歳の夏でした――。

 

 その後、彼は大勢の大人たちからだまされました。利用され、裏切られ、見た目の珍しさから愛玩動物のように扱われましたが、そのたびに占いの力を使って最悪の事態から逃げ出してきました。

 やがて、成長するにつれて占いの力も強まってきて、ユギルはめったのことでは大人たちからだまされなくなりました。大人に頼ることなく、自分の力だけで生きる術も身につけました。スリ、万引き、泥棒……占いを利用すれば、人の隙を突いて楽に金を稼ぐことができます。

 そんなユギルに、年下の少年たちが付き従うようになりました。やはり、同じように親に捨てられたり、家を逃げ出したりしてきた子どもたちです。ユギルといれば、絶対に憲兵につかまることはありません。盗みの際に家人に見つかるようなことも起きません。いつしかユギルは不良少年たちのリーダーになり、貧民窟でも一目置かれる存在になりました。

 そこでは、誰もユギルの容姿をとやかく言うことはありませんでした。ただ、ユギルの占いの力だけが頼りにされます。ボーチェナの議会が貧民窟一掃の決議をした時にも、うまく立ち回ったつもりでした。他の不良グループの少年たちが次々に憲兵につかまっていく中、ユギルは先を読んで追っ手から逃れ、隠れ家を変え、そうして、仲間たちを守ったつもりでいました。実際には、最近になって仲間に入った男が、賞金目当てに憲兵に隠れ家の場所を教えるという、新しい裏切りが起こっていたのですが、安心しきったユギルは、さらにその先まで占ってみようとはしなかったのでした。

「どうしてさ、ユギル!? 俺たち、あんたの占いのとおりにしていたよ! なのに――なんで――!?」

 そう叫びながら、小さな仲間は死んでいきました。憲兵に連れ去られた仲間たちも、一人残らず「始末」されました。大人たちにとって、彼らは貧民窟のゴミでしかないのです。

 占いの力があったって、しょせんその程度のことなのだ、とユギルは思い知りました。裏切った男を殺せば、自分も殺されるのだと占いは告げていました。けれども、もうどうだっていい、とユギルは考えていました。どうせ自分はゴミです。生きていても、誰からも歓迎されない存在なのです。生きていくことに疲れた、とユギルは心のどこかで考えていたのでした。

 

「ソウ。オマエハ生キルコトニ疲レタ」

 と占盤から現れた闇が語りかけていました。

「ナラバ、ココデ消エルガイイ、占イ師。死ネバ、ソノ苦シミハ終ワリヲ告ゲル。安ラカナ眠リダケガ、オマエニ訪レルダロウ」

 それもいいかもしれない、とユギルは考えました。あの男を殺したところで、仲間たちが生き返ってくるわけもないのです。自分はただ、死ぬためのきっかけを求めて、あの男を殺そうとしていたのかもしれない、と考えます。

 闇は目の前にいました。血のような赤い眼で、じっとこちらを見つめています。ただ一歩、心をそちらへ進ませれば、自分の願いはかなうのだ、とユギルにはわかっていました。絡みついている闇がいっそう力を強めています。少年の細い咽を締め上げ、息の根を止めようとします――。

 

 その時、ユギルは別の声を聞きました。力強い、太い声です。

「早まるんじゃないよ、まったく。今の子どもはすぐに死に急ぐんだからさ」

 ユギルは、はっとしました。マグノリアの声です。とたんに、冷水を頭から浴びせられたように正気に返りました。自分は何を願っていたんだろう、と考えます。死ぬこと? それが自分の望んでいたことだろうか――と。

 自分に絡みつく闇が、急にまた苦しく感じられ始めました。締め上げられて、今にも息が詰まりそうです。引きはがそうにも、闇をつかむことはできません。ただもがくばかりです。

 何も見えない闇の中に、遠く遠く、かすかに小さな光が見えた気がしました。星よりも小さな金色の光です。ユギルはそちらへ手を伸ばしました。苦しさに、今にも意識がとぎれそうになります。

 嫌だ! とユギルは叫びました。嫌だ、死にたくない! 死にたくなんかない――!!

 けれども、もう声は出ませんでした。うめき声さえ出せません。心の中で必死に叫び続けながら、ユギルは最後の力でもがき続けました。絡みつく闇を振りほどこうとします。

 闇が、じわりと締めつける力を強めてきました。ユギルの肺の底で、最後の空気が尽きていきます――。

 

 と、遠い光の中で誰かが振り向きました。ユギルの心の悲鳴を聞きつけたように、こちらを見て、一瞬で距離を跳び越えてきます。

 駆けつけてきたのは一人の若者でした。金の鎧兜を身にまとい、手には銀に輝く剣を握っていました。赤い眼をした闇を一瞬で叩き切り、返す刀で絡みつく闇をユギルごと切り捨てます。剣が頭から自分を切り裂くのを感じて、少年はまた声にならない悲鳴を上げました。

 が、次の瞬間、ユギルは目を見張りました。何でもありません。剣で切られたはずなのに、自分の体には傷ひとつなく、ただ、絡みついていた闇だけが、跡形もなく消え去っていました。

 ユギルの目の前で、若者が剣を下ろしました。兜からのぞく顔は、下半分が布でおおわれていて、目元だけがあらわになっています。空の色のように鮮やかな青い目が、ユギルを見て、にこりと笑いました。無事で良かった、と言っているのが、まなざしだけでわかりました。

 と、若者の姿は目の前から消えました。後にはユギルだけが残されます。

 ……今のは? とユギルは考えました。あの若者は誰だったのでしょう。すると、心の中に一つの象徴が浮かびました。輝き渡る、明るい金の光です――。

 

 とたんに、世界が明るくなり、ユギルは自分が誰かに強く抱かれているのに気がつきました。驚いて見上げると、それはマグノリアでした。繰り返しユギルに向かって呼びかけています。

「大丈夫かい!? あたしの声が聞こえるかい!? しっかり! 返事をおしよ!」

 その顔色が真っ青になっていたので、ユギルはますます驚いてしまいました。こんなに取り乱した彼女を見たのは初めてです。

「マギー、どうしたんだよ?」

 と聞き返すと、マグノリアは悲鳴のような声を上げ、そのままぺたりと床に座りこんでしまいました。腕の中に抱かれたユギルも、一緒に座らされてしまいます。

「良かった。戻ってきたね――。あのまま行きっぱなしになっちまうかと思ったよ。いったい占盤の中で何を見たんだい? こんなに闇の気配が濃いなんて、尋常じゃないよ――」

「闇の気配?」

 とユギルはまた聞き返し、次の瞬間、ぞおっと身の毛がよだつような恐怖に襲われました。自分に何が起きていたのか、ようやく気がついたのです。

 ユギルは占盤をのぞき込んだ時に、得体の知れない闇につかまってしまったのでした。すさまじく強力で深い闇です。あのままでいたら、本当に命まで奪われたかもしれません。あの若者が助けに来てくれなければ、永遠に正気に返ることはできなかったでしょう。

 蒼白になってがたがたと震えだしたユギルを、マグノリアはいっそう強く抱きしめてくれました。声も出せずにいる少年に、繰り返し繰り返し言います。

「もう大丈夫。大丈夫だよ。闇はもう行っちまったからね。もう心配はいらないよ――」

 その声が、暖かくじんわりとユギルの胸に染みていきました……。

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