それから半年ほどの間、ジュリアはゴーリスの元を訪ねませんでした。
慰謝料の件を巡って喧嘩別れのようになったので、ゴーリスとしても気がかりではあったのですが、それ以上に、国政に絡む職務が忙しくなっていました。
今やゴーリスは周囲の誰もが認める、国王の重臣のひとりです。彼が見つけ出してきた金の石の勇者は、今度は隣国エスタを風の犬の危機から救い、エスタ国王はそれに感謝して、ロムドと永久に同盟を結ぶと言ってきました。それがことばだけではない本物の和平条約らしい、とわかって、ロムド国民は誰もが驚嘆しました。隣国エスタとの対立は、数百年にも及ぶ歴史があります。その血みどろの争いに、ついに終止符が打たれたのです。
誰もが金の石の勇者の功労を認め、その勇者の育ての親であるゴーリスの地位もまた相対的に上がりました。国王も国政にゴーリスの意見を求めます。ゴーリスは庶民の暮らしぶりに精通していたので、その見解が高く買われたのです。いつのまにかゴーリスは、国王の片腕とも言える身分にまで上り詰めていました。
けれども、国の誰からも敬われる立場になっても、ゴーリスは相変わらずゴーリスのままでした。金の石の勇者を見つけたもう一人の功労者である、占者ユギルと共に、淡々と、そして休むことなく国王に仕え続けていました。偉ぶることもなく、派手な暮らしぶりを始めるでもなく、相変わらず偏屈で無愛想なままです。そして――相変わらず、浮いた噂ひとつありませんでした。
独身で大貴族で国王の重臣の彼には、今では途切れることもなく縁談が舞い込みますが、本人は仕事が忙しいから、と片端からはねつけていました。どれほど身分高い相手からの話であっても、相手の面子に配慮することもなく、即座に断ってしまいます。宮廷の中では、ゴーラントス卿は仕事と結婚をして一生独身のままで過ごすのだろう、とさえ噂されていました。
そんなある夜、ゴーリスの屋敷に訪問者がありました。いえ、正確には侵入者です。まだ夜更けには早い時間帯でしたが、闇に乗じて黒い服の男たちが屋敷に入りこんできて、突然ゴーリスを取り囲み、力ずくで縛り上げたのです。
さすがのゴーリスも、不意を突かれては抵抗のしようがありませんでした。屋敷の中では武器を外していたので、自慢の剣で戦うこともできず、罪人のように縄をかけられてわめきます。
「何者だ!? 俺にこんな真似をして何をするつもりだ!?」
宮廷での地位が上がると言うことは、それだけ政敵も増えると言うことです。こんな危険な事態も予測して屋敷の守りを強めておいたのに、あっさりそれを突破されてしまったことにも衝撃を受けていました。
すると、男たちの後から、ひとりの人物が部屋に入ってきました。
「何もいたしませんわ。ただ、お約束のものをいただきにまいっただけです」
ジュリアでした。栗色の豊かな髪を結い上げ、深い緑のドレスに身を包んでいます。半年前の取り乱し方が嘘のように、その晩の彼女は落ちつき払っていました。
ゴーリスは顔をしかめました。
「約束のものというのは慰謝料のことか? ならば、あなたの望むものはなんでも支払うと言っておいたはずだ。こんな大げさな真似などする必要はないだろう」
だから早く縄を解け、とゴーリスは言いましたが、ジュリアは首を振りました。穏やかにほほえみながら答えます。
「いいえ、ゴーラントス様。私がいただきたいものは、こうしなければ手に入らないのです」
ゴーリスの表情が変わりました。疑うような目で、ジュリアの表情を探ります。
「俺の命をよこせというのか? それだけは無理だと言っておいたはずだぞ」
「いいえ、そんなものは」
ジュリアは笑い声を上げました。首をかしげるようにして、囚われの剣士を見上げます。
「私がいただきたい慰謝料はあなたですわ。あなた様ご自身を私にくださいませ、ゴーラントス様。それ以外のものは、何もいりません」
ゴーリスは呆気にとられました。目の前の女性をただ見つめてしまいます。
もう娘とは言えない歳になってしまったジュリアですが、その分、落ちつきと賢さを漂わせながら、じっと彼を見つめ返しています。その瞳の奥には、強い決心の色がありました。
ゴーリスは思わず目をそらすと、苦笑いを浮かべました。
「馬鹿なことを思いつく……。そんなことができるわけがないだろう。俺を慰謝料にもらい受けるなんてことが、どうしてできると思うのだ」
「でも、あなた様は、自分に支払えるものなら、なんでも私にくださると誓ってくださいましたわ」
ジュリアの声はあくまでも穏やかです。
馬鹿な、とゴーリスが笑い飛ばそうとしたとき、別の人物の声が部屋に響いてきました。
「おやおや、いけませんね。ゴーラントス卿ともあろうお方が、約束を反故(ほご)にすると言われるのですか?」
長い銀髪に左右色違いの瞳の青年が部屋に入ってきました。暗い灰色の衣ですっぽりと身を包んでいるので、うっかりすると、夜の暗がりに溶け込んで見逃してしまいそうなほどです。
青年を見たとたん、ゴーリスはまた顔をしかめました。
「なるほど、ユギル殿も一枚かんでいたのか。どうりで、我が家の守りがあっさりと破られたはずだ。天下の占者がついていたのではな」
「こうでもしなければ卿はお約束を守らない、と占盤に出ておりましたので」
とユギルがすまして答えます。ゴーリスはますます渋い顔になりました。
「これは貴殿には関係のない話だ。ジュリア殿から何を聞かされたかわからないが、我々二人の話に、第三者が口をはさまないでもらいたい」
けれども、いくらにらまれても、ユギルは涼しい顔のままです。
「そうはまいりません。卿はジュリア様に、確かに慰謝料としてなんでも与える、とお約束されましたし、手紙にもきちんとそう残っております。約束はお守りください、ゴーラントス卿。あなた様ご自身が、ジュリア様への慰謝料です」
「だから、何故そうなるのだ!?」
ゴーリスはたまりかねて声を上げました。
「そんなことができるわけがあるまい! 馬鹿を言うにもほどが――」
「あなたを私の故郷に連れて帰ります」
とジュリアが突然答えました。
「あなたは私のものですもの、私の好きにさせていただきますわ」
ゴーリスはまた呆気にとられてしまいました。なんと答えて良いのかわからなくなり、しばらく考え込んでから口を開きました。
「ジュリア殿、常識で考えられよ。いくらなんでも支払うと言っても、できるものとできないものがあるだろう。それに、俺は今、ディーラを離れるわけにはいかない。陛下がお許しになるはずがないのだからな」
その声は、まるで小さな子どもをあやして言い聞かせるような口調でした。ゴーリスを見上げ続けるジュリアの目の中に、悲しい色が流れました。
「本当に困ったお方だ……」
とユギルがあきれたように肩をすくめ、急に部屋の扉の外へ呼びかけました。
「ゴーラントス卿はどうしても『うん』とおっしゃいません。どういたしましょう、陛下?」
「なに!?」
ゴーリスが愕然としていると、今度はロムド国王自身が部屋の中に入ってきました。国務の場では必ずかぶっている冠を外し、ユギルと同じような暗い灰色の衣で身を包んで、お忍びの格好です。苦笑いをしながら占者に向かって言います。
「これ、ユギル。わしはこの場にはおらぬことになっているのだぞ。呼ぶのではない」
けれども、そう言いながらも、国王の口調はどこか楽しそうでした。
ゴーリスは本当に呆気にとられてしまって、しばらくは口もきけませんでした。目の前に立つ人々を眺め、その一番手前で自分に向き合っている女性を、つくづくと見つめてしまいます。
「陛下に直訴までしたのか……まったく、予想外のことばかりする人だ、あなたは」
ジュリアはほほえみました。ことばで答えることはできません。ただ、万感を込めて男を見つめ返します。その瞳からは、今にも涙がこぼれ落ちそうになっていました。
すると、ロムド国王が言いました。
「わしはジュリア殿の訴えに基づいて、この一件を詳細に検討した。確かにジュリア殿の請求には効力がある。そなたは彼女との契約に従う義務があるのだ、ゴーラントス卿。今すぐ、ジュリア殿の請求通りに慰謝料を支払うように。それができないというのであれば、そなたは相応の罰を受けることになるぞ」
「罰……どのような」
とゴーリスが聞き返します。国王は重々しく答えました。
「王都追放だ。十年も待ち続けた婚約者をむげに見捨てるような薄情な人間を、わしの家臣に数えるわけにはいかぬ。即刻ディーラを立ち去って、地方へ下り、北の辺境で隣国からの攻撃に備えるが良い。行き先は、ジュリア殿の故郷だ――」
ゴーリスは思わず天井をふり仰ぎました。ぐるです。国王もユギルもジュリアも、全員がぐるになって、ゴーリスをなんとかひとつの結論に追い込もうとしています。
すると、国王が笑いました。王は年をとっていましたが、その声は張りがあり、意外なほど若々しく聞こえます。
「もっとも、実際にはゴーラントス卿に王都を去られるのは、ロムドにとって大きな損失なのだ。わしとしては、卿にはこのままディーラにいてもらって、卿の屋敷内で、ぜひジュリア殿への慰謝料になっていてもらいたいのだがな」
「陛下」
ゴーリスは目を閉じました。苦笑いしか出てきません。
すると、銀髪の占者が口を開きました。意外に思えるほど真剣な声で、こう言います。
「ジュリア様とご結婚ください、ゴーラントス卿。そして、幸せにおなりください。そうしていただかなければ、わたくしも陛下も、安心することができません」
ゴーリスは思わず目を開けてユギルを見ました。青年は、青と金の色違いの瞳に痛ましい色を浮かべながらゴーリスを見ていました。この二人の現在の状態は、自分の占いの結果が招いたことなのだと、占者はわかりすぎるほどに承知しているのです。
ロムド国王も静かに言いました。
「そなたもジュリア殿も、本当によく待ってくれた。これほど忠義に尽くしてくれる家臣を持てることを、わしは誇りに思っている。その忠信に報いたいのだ。過ぎてしまった十年は取り戻すことはできない。だが、この後の何十年という年月を、その空白を埋めるために使うことはできるだろう。二人共に生きていくことでな」
「陛下……」
ゴーリスは何も言えなくなって、ただつぶやくように繰り返しました。目の前に立つ女性を、また見つめてしまいます。
ジュリアはこらえきれずに泣き出していました。それでも、ゴーリスに向かってほほえんで見せます。
「半年の間、一生懸命考えました。私一人ではあなたに慰謝料の件を納得していただけないと思ったので、処罰を覚悟で、陛下やユギル様にもお力添えをお願いしました。私は、あなたと一緒に生きていきたいのです。あなたのこれからの人生を、私にくださいませ。全てよこせ、とは申しません。あなたはこの国にも、金の石の勇者にも大事な方ですから。でも、あなたの人生の一部分は、ずっと私にもいただきたいのです。私を待たせて申し訳なかったと思うならば……それが、私への償いですわ……」
ほほえむ頬の上を、大粒の涙が転がり続けます。
ジュリア、とゴーリスはつぶやきました。敬称をつけ忘れたことには気づいていません。
やがて、黒ずくめの剣士はほほえみました。罪人のように縄をかけられた自分の姿を見回して言います。
「返事をする前に、これを解いてもらっていいか? 俺は逃げも隠れもせん。それに……この格好では、あなたを抱きしめることができないからな」
ジュリアは両手で口を押さえました。見張った目から、さらに涙がこぼれ出します。それは嬉し泣きの涙でした。
縄を解かれ、部屋の真ん中で抱き合う二人を、占い師と国王は笑顔で見つめていました――。