ウンディーネ

朝倉 玲

Asakura, Ley

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11章 熱い涙(3)

 長い長い手紙が終わった。

 部屋の中の人々は、誰も口をきかなかった。

 明子は椅子の中で横を向き、目頭に指を当てたまま、微動だにしない。紀子はしをりの手紙に涙をこぼしそうになって、慌てて目をこすった。亨介は――

 亨介はうつむいたまま、表情を見せていない。

 やがて、夢から覚めたように動き出したのは、太田警部だった。ゆっくりと床の上からカプセルの袋を拾い上げると、重々しく亨介に言う。

「では、こちらで指紋鑑定させていただいてかまいませんな?」

 相変わらず、亨介はうつむいたまま、何も答えない。太田は咳払いをして続けた。

「もし仮に、これが手紙の通りに――」

 すると、おもむろに亨介が口を開いた。

「その必要はありません」

 今までの傲慢な調子とはうってかわった、静かな声だった。

「調べる必要なんてありません。しをりが手紙で言っていた通りです。僕は、しをりを殺そうとしました。いえ……本当に、今の今まで、彼女は僕の渡したカプセルを飲んで死んだのだと思っていたんです……」

 部屋の中の人々は、お互いに顔を見合わせた。明子も椅子の中で目を上げ、黙って亨介を見つめていた。

 すると、亨介は明子に顔を向けた。透き通るほどに青白い顔は、だが、意外なほど穏やかな表情をしていた。

「あなたの言った通りだ。僕は一年以上前からしをりを殺そうと計画して、青酸を借り出してきたり、酸溶性のカプセルと薬のカプセルを交換したりしてきた。あの日の朝も、僕は会社へ行く途中で家に寄って、しをりが死んでいるのを確かめると、手に薬包紙を握らせ、口にも少し青酸を含ませて、直接毒を飲んで自殺したように工作したんだ。まさか……まさか、しをりが何もかも気づいていたなんて、思ってもいなかった……」

 再び、がっくりと頭をたれた亨介に、明子は静かに尋ねた。

「どうして、しをりさんを殺そうとしたんですか? そんなに保険金が欲しかったんですか?」

 すると、亨介は首を横に振り、呻(うめ)くように答えた。

「僕は、しをりが怖かったんだ……」

 人々は、また顔を見合わせてしまった。意外な答えだった。何故? と明子が重ねて尋ねると、亨介は重い口調で語り出した。

「六年前……僕としをりは恋愛結婚した。仕事の関係で彼女の祖父を訪ねた時に出会って、僕が一目惚れしたんだ。彼女は綺麗で優しくて、はかなげで……何が何でも僕が守ってやらなくては、という気持ちにさせられた……。その時の気持ちに偽りはなかったし、本当に心から彼女を愛していたから、結婚できた時には言葉にできないくらい嬉しかった。しをりを幸せにしてやろうと、信者でもないのに、神の前で心から誓ったほどだ……」

 亨介はちょっと口をつぐんだ。当時の自分の気持ちを、改めて見つめ直すように。それから、また話し出した。

「初めは僕たちは二人とも幸せだった。しをりは体が弱くて子供ができなかったが、僕は彼女さえいれば、それで充分だと思っていた。二人で旅行したり映画を見たり、語り合ったりできれば、それで充分だと……でも、そのうちに僕はだんだん、しをりが分からなくなってきたんだ。彼女は僕が何を買ってきても、何をしてやっても喜んだ。一度も嫌な顔なんてしないから、僕は逆に不安になった。心の中でしをりが本当はどう思っているのか、分からなくなったんだ……」

 しをりがそれを本当に喜んでいただろうことは、明子には想像がついた。孤独な人生を生きてきた彼女は、例え趣味に合わない物を貰ったとしても、亨介が自分を想って買ってきてくれたこと自体が嬉しくてたまらなかったのだろう。だが、それがただの愛想笑いに見えてしまった亨介の気持ちもまた、無理のないものかもしれなかった。

「しをりは本当におとなしかった……。控えめ、と言えば聞こえはいいが、彼女のは度が過ぎていた。絶対に僕に自分の気持ちや考えを言わなかったし、自分から何かをねだるようなことも、一度もなかった。僕が何を言ったって何をしたって、ただ微笑んでいるだけだ。優しい、と言ってしまうのには、何だか人間離れしているようにさえ感じられて、薄気味悪く思える時もあった……」

 そんな時、肖子に出会ったんだ、と亨介は言った。

「肖子は、しをりとはまるで正反対に、自分の意見をためらいもなく言い、自分からどんどん行動を起こすような、積極的な女だった。だが、女らしくて細やかな心遣いもできる。僕はたちまち彼女のほうに魅(ひ)かれていった……」

 そこまで話して、亨介はまたしばらく口をつぐんだ。じっと自分の膝を見つめる目は、何か別のものを見据えているようだった。

 明子たちが辛抱強く待っていると、やがて亨介がまた話し出した。その声はいっそう重く、わずかに震えていた。

「初めて肖子の部屋に泊まった次の朝、家に帰った僕は、しをりにそのことを話した。それを聞いてしをりが怒るとか泣くとか……とにかく、嫉妬してくれるんじゃないかと期待していたんだ。何でもいいから、彼女からリアクションが欲しかった。ところが、しをりは、そうですか、と一言いったきりで、後は責めるでもなじるでもなかったんだ。いつもと同じ、静かな顔で……。これが決定打だった。僕はしをりが気味悪くなった。怖くなったんだ。人間じゃないものと結婚してしまったような気がして、息が詰まりそうになったこともある。別れようか、とも何度も考えた。だが、しをりは実際に何かしたわけじゃない。二号を承認しているなんて、今時できた奥さんだ、なんて言う奴までいた。優しすぎるから別れる、なんて理由は、世間にも自分にも通用しなかった……。そのうちに、会社の経営はますます苦しくなってきて……借金に追い回される僕の心に、いつの間にか邪(よこしま)な考えが……」

 三度、亨介が沈黙した。妻を殺そうとした男の姿は、しかし、誰よりも深く傷ついているように見えて、人々は何も言えなかった。

 すると、亨介が咽を絞るような声で、でも、と言った。

「でも……しをりは、本当は僕を愛してくれていたんですね……。僕を殺したいと思うほど。自分を殺してしまうほど……」

 うつむく男の背中が、小刻みに震えていた。

「本当は、今だって愛しているんです……。ずっと

……愛していたんです……」

 熱い涙の粒が、はたはたとその膝を濡らしていくのを、人々は声もなく見守り続けた。

 遠くで、時計が十時を告げていた――。

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