ウンディーネ

朝倉 玲

Asakura, Ley

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EPILOG ~通り過ぎた人影~

 半年後――。

 初夏の明るい日差しの中を、明子と真一はのんびりと歩いていた。大通りの欅(けやき)の若葉が澄んだ光と風にきらめき、歩道の上に木洩れ陽(こもれび)模様を落としている。

「次は何を買うんだ?」

 と真一が明子に声をかけた。夏本番を前に、事務所の模様替えをしようと、駅前の繁華街まで雑貨品の買物に出てきていたのだ。真一は両手にカーテンやガラス食器の紙袋を下げているし、明子も、レースのテーブルクロスや夏向けのクッションカバーの袋を抱えている。探偵業は客商売なので、少しはインテリアにも気を配るのだ。ちなみに、紀子は今日は事務所で留守番役だった。

「ええと、後は、アイスコーヒー用のボトルとガムシロップと麦茶パックか……。でも、こんなのは近所のスーパーでも買えるかな」

 と明子がメモを見ながら言う。と、その耳に近くのデパートで流す音楽が聴こえてきた。

「あ……」

 明子は思わず目を上げて、そちらを振り向いた。『トロイメライ』の曲だったのだ。

 眠くなるような優しいピアノの調べが、半年前のしをりの事件を思い出させる。

 ウンディーネ事件、と呼ばれ、あれほど世間を騒がせた出来事も、今はもう人々の記憶から消え去ろうとしている。目下の世間の関心事は、先週発覚した国会議員の不正事件と、二日前に多摩川で上がった身元不明のバラバラ死体事件だ。

 喧騒に充ちた世の中は、先月、佐々野亨介に判決が下った時にさえ、もう大して興味を示さなかった。亨介は、しをりの殺害未遂及びしをりを自殺に追いやった責任から有罪――ただし、本人に反省の色が非常に濃いので、執行猶予付きの判決を受けたのだが……。

「おい、アップル」

 真一に肘でこづかれて明子が我に返ると、真一が視線だけで行く手の雑踏を示した。

「そら、あれ――」

 そちらへ目を向けると、見覚えのある女性がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。スーツ姿にハイヒールのよく似合う長身の美女――亨介の愛人の桜井肖子だった。

 すると、肖子のほうでも明子たちに気がつき、軽く会釈すると、にこやかに近づいてきた。

「こんにちは、北条さん。お久しぶりですわね」

 何の嫌味もない爽やかな口調が見事だった。

「あなたもお元気そうですね」

 と明子が笑顔で答えると、肖子は微笑みを浮かべた口元に、ちょっと微妙な笑いを重ねた。

「ええ、おかげさまで。明るくしている以外、することもありませんもの」

 その含みのある言い方に明子が真顔になると、肖子は静かに続けた。

「私、亨介さんと別れたんです。いえ……捨てられてしまったんですわ」

 そして、驚く明子と真一の二人に、にっこりと笑いかけると、一緒にコーヒーでもいかが、と近くの喫茶店へ誘ってきた。

 

 店の奥まった席に着き、飲み物を注文すると、桜井肖子はおもむろに話し出した。

「捨てられた、なんて、ちょっと表現がどぎつかったかもしれませんわね。つまり、真相が分かってから、あの人がすっかり変わってしまったってことなんですの。ああ見えても、もともと、とても繊細な人だったから、しをりさんの告白が本当にショックだったんでしょうね。明けても暮れても、死んだしをりさんのことばかり考えて、後悔しているんです。いくら慰めても励ましても、駄目でした。私の言葉なんて、少しも届かないんですもの。何の役にも立ちませんでしたわ……」

 肖子はそう言うと、淋しげにまた微笑んだ。明子と真一は口をはさむのもはばかられる気がして、ただ黙って、彼女の話を聞いていた。

「そうなって、やっと気づきましたわ。私はしをりさんの影だったんだってことに。あの人はしをりさんにないものを私に求めたのだけど、それは、しをりさんに充たされなかったものを、正反対の私の中に求めていただけのことだったんです。あの人が愛していたのは、初めから、しをりさん一人だけ……。私は、その代用にすぎなかったんですわ」

 ウェイトレスが三人の前にコーヒーを運んできた。肖子はおもむろにポケットからシガレットケースを取り出すと、煙草に火をつけて吸い出した。……半年前には見られなかった習慣だった。

 吐き出した煙が店の天井にゆっくり溶けていくのを見ながら、肖子はまた話し出した。

「あの時、あなた方にはあんな偉そうなことを言いましたけど、亨介さんを独り占めしたかった気持ちは、私も同じだったんです。ただ、あの人がしをりさんより私を一番に愛してくれている、と思っていたから続けてこられた関係だっただけで……。とんだ誤解でしたわ」

 そして、肖子はまた、ちょっと微笑い、煙草を吸った。

「……あの日から、亨介さんは毎日酒びたりです。会社にも顔を出さないで、家に閉じこもったまま、しをりさんの思い出の中だけに生きています。私は何とかして立ち直らせようと丸四ヵ月通い続けました。食事を作りに行っては、洗濯をしたり部屋を片づけたり、少しでも気持ちが明るくなるように、ずっと話しかけたり、反対に黙ってそばに付き添ってみたり……。でも、とうとう駄目でしたわ。亨介さんは、一度だって私を見ようとはしなかったんです。それも、無視しているんじゃなくて、私がいること自体に気がついていないんですもの……。だから、辛いけど、私も諦めました。私は私だけを愛してくれる人を――この私だけを愛してくれる人を、探すことにしたんです。何年かかるか分からないけれど、その人が見つかるまでは、一生探し続けますわ。例え歳をとったって、私が死ぬその日まで、ね。いつまでも無くしたものと想ってめそめそしているより、このほうが何倍も素敵でしょう――?」

 そこまで話すと、肖子は急に煙草を灰皿に押しつけ、席から立ち上がった。

「ごめんなさい、私、もう行かなくちゃ。実はまだ仕事の途中なの。話を聞いて下さって、ありがとう」

 そして、彼女はそのまま足早に店を出ようとしたが、ふと、立ち止まると、ゆっくりと明子たちを振り返った。その瞳には、透明に光るものが揺れていた。

「結局、しをりさんは死んで本当に亨介さんを自分のものにしたんですわね……。本人は、そんなつもりなんて全然なかったんでしょうけど……」

 そう言って、肖子はもう一度微笑った。瞳の奥の哀しみを隠して、鮮やかに、艶(あで)やかに。そして、しゃんと頭を上げると、ヒールの音を軽やかに響かせながら去っていった……。

 

 事務所へ戻る車の助手席で、明子はずっと考え込んでいた。しをり、亨介、肖子……。三人が三人とも、愛を求め合う気持ちは本物だったのに、どこでそれがすれ違ってしまったのだろう……? 皆、ただ愛し愛され、幸せになりたいと思っていただけなのに……。

 気がつくと、真一が運転席から、じっと明子を見つめていた。車は信号待ちで停まっている。

 以前にもこんなことがあったような気がして、明子が思わず赤くなると、真一が茶化すように声をかけてきた。

「そうそう。元気出せって。なんだったら、もっと元気になる処へ連れてってやってもいいぜ」

「……どうせホテルだろ」

 明子が軽く睨み返すと、真一は誘うように片目をつぶってみせた。

「御名答。どうだい?」

 真一は、キスから先にはなかなか進ませてくれない恋人に、時々こんな風にお誘いをかけてくる。

「パス!」

 にべなくそう答えてしまってから、明子はふと、不安になった。自分も、こんな態度で、気がつかないうちに真一を傷つけているんじゃないだろうか……?

 だが、真一は、ふふん、と軽く笑っただけで、また運転のほうに専念してしまった。いつまでも初心で照れ屋な恋人の性格を理解した上でのことなのか、それとも、男の面子(めんつ)から、傷ついた素振りを見せないだけなのか……。真一の表情からその内心を推し量ることはできなかった。

 明子は不安ともどかしさの入りまじった曖昧な気分になると、目をそらすように窓の外を見た。車が走り出すと、ビルも店も歩道を歩く人々も、車の速度で、後ろへ後ろへと流れ出す――

 と。

 明子は、はっと振り返った。

 今、通りすぎていった人影に、見覚えがあったような気がしたのだ。白いワンピースに長い髪をなびかせ、静かに微笑むような表情で歩いていた。

「……しをりさん?」

 明子は口の中で小さく呟いた。

 だが、どんなに目をこらしても、人影は雑踏の中に紛れてしまって、もう二度とは見えなかった――。

 

 

 翌朝、明子と真一が事務所で仕事の準備を始めていると、騒々しい足音と共に紀子がドアから飛び込んできた。

「大変よ、兄貴様!! 大変!! 亨介氏が死んだわ!!」

 明子と真一はびっくりして、思わず仕事の手を止めた。紀子は興奮で顔を真っ赤にしながら、早口にまくしたてた。

「今朝、滝から連絡があったのよ! 亨介氏が自宅で死んでるのが見つかったって……! 居間のソファで冷たくなってたのを、実家から様子を見に来た人が発見したんですって! 死因は、アルコールと睡眠薬の飲み過ぎ。亨介氏は最近不眠症で睡眠薬を使ってたから、事故か自殺かは、はっきりしないらしいわ!」

「これはまた……昨日、桜井嬢から亨介氏の噂を聞いたばかりだってのに……」

 と真一は、つくづく驚いたように言ったが、ふと、明子の表情に気がつくと、目を丸くした。

「どうした、アップル? そんな幽霊でも見たような顔をして――」

 とたんに明子は我に返り、激しく頭を振った。

「そんな……そんなはずないよ! ただの見間違いだ……!! そんなのがありえたら、論理も科学も成り立たなくなっちゃうじゃないか!!」

 真一と紀子は、突然のその剣幕に呆気にとられてしまった。

 だが、叫ぶ明子の頭の中にまざまざと甦ってきたのは、『ウンディーネ』の物語の最後の場面だった。

 定めに従って地上に現れたウンディーネは、夫を抱きしめ、その瞳に毒の涙をそそぎ込んで愛のうちに彼を殺すと、立ちすくむ人々に静かに告げるのだ。あの人を、涙で殺しました、と。

 そして、その言葉はそのまま、しをりの声になって、明子の耳に聞こえてきた。

「あの人を、涙で殺しました。……愛で、殺しました……」

 

 あの人を、愛で、殺しました――。

 

――THE END――

(1998年2月14日初稿)

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