アップル。
この手紙を見つけて下さったのは、きっと、あなただと思います。昔から、あなたはそういう方だったから。
誰もが見逃してしまうような事実を集めて、優しい心で真実を見抜いてしまうあなたのやり方は、私の目には、いつも魔法のように見えていました。
今、私は、あなたの魔法を信じて、ここに真実を書き残していきます。
あなたへの手紙にも書いたように、主人は私を殺そうとしています。
最初に私がそれに気がついたのは、去年の十二月のことです。アンソニーとクレオパトラの心中なんて呼ばれていた事件が世間を騒がせていた時、ふとしたことから青酸の色の話になったのですが、主人は、青酸は青い酸と書くけれど本当は白いんだ、と何度も強調して、証拠に実物を持ってきてみせるとまで言ったのです。なんとなく、ぴんときてしまいました。その少し前に、主人が私をいくつもの生命保険に加入させていたことも、心のどこかでひっかかっていたのでしょう。いつでも、主人は私のためだと言って、いろいろなことをしてくれるのですが、それは大抵は自分のためのことなのです……。
でも、私は心の中で、いつかそんな時が来るかもしれないと覚悟していたような気がします。
結婚した時にはあんなに優しかった主人も、いつの間にか私を避けるようになってしまいました。桜井さんのせいではありません。あの方が現れるよりずっと前から、私たちの心はすれ違うようになってしまっていたのです。何故なのか、私にはよく分かりません。
でも、きっと、私の中の何かが悪かったのでしょう。
桜井さんは本当に素敵な方です。いつも自信に充ちて、生き生きと輝いていて、私もこんな女性になれたらといつも思っていました。それに引きかえ、私は何のとりえもない、つまらない女です。主人が桜井さんを選んで私を捨てると決めたのなら、それもしかたのないことだと思います。思うのですが……
アップル。あなたは、私がウンディーネを真似したことに、もう気がついていますね。
でも、私は初めからあの物語を真似ていたわけじゃないのです。気がつくと、主人はフルトブラントのように、私と桜井さんの二人を愛していて、日に日に妻でないほうの女性を深く愛するようになっていたのです。私は、ウンディーネのように、誠心誠意尽くそうと思いました。そうすれば、いつかあの物語のように、主人がまた私を愛してくれるようになるんじゃないかと思ったからです。
でも、そう思うこと自体、もう純粋ではなかったのですね。
ウンディーネは妖精だったから、フルトブラントもベルタルダも心から愛することができたけれど、私は結局人間です。どんなに桜井さんが素敵な方でも――桜井さんと一緒になったほうが、主人も幸せなのだと分かっていても――私は、主人を渡したくなかったのです。いつだって、主人には私一人を愛してほしかったのです。
いっそ主人と毒を飲み合って一緒に死んでしまおうと、何度思ったことでしょう。私はウンディーネになりきれませんでした。私の中にいたのは、ベルタルダです。主人を殺してでも自分のものにしておきたいと思うほど、わがままで愚かな女なのです。
ずっと昔から、私はいつも不安でした。誰もが他人のようで、どこにいても、仮の住まいに間借りしているような気持ちがしていました。世の中で信じられた人物は、父と、アップル、あなただけでした。
でも、主人に出会って、そんな私の人生が変わったのです。主人の愛に優しく包まれて、私はやっと帰る家を見つけたように、心から安らぎました。一生この人と生きていこうと思いました。主人は、私のすべてだったのです。
でも、その主人が私を必要としなくなっています。それどころか、私を殺したいほど邪魔に思っています……
私の居場所は、もうこの世の中から無くなってしまいました。
いつか、その日が来る。主人が私を殺す日が来る。
そう覚悟しながら、一年近くが過ぎました。
そして、昨夜、私は見てしまったのです。主人が青酸を薬に混ぜて、カプセルに詰めているところを。
でも、私自身も、この日のためにずっと準備をしていたのです。
ここに、別にしておいた青酸があります。あの日、主人が家に持ってきた青酸の瓶から、こっそり取り分けて隠しておいたものです。私はこれを薬瓶に入れて、自分でカプセルに詰めて飲みます。
同封したカプセルは、主人から手渡されたものです。きっと主人の指紋が残っていると思います。
私が飲むのは自分で作ったカプセルだから、これは実は自殺なのです。主人に殺されたように見せたのは、私の精一杯の抵抗です。
もしも、アップルがこの手紙を見つけられなかったら――
主人は私を殺した犯人と思われるかもしれません。たとえ殺人犯にされても、死刑にはならないと思いますが、ある程度の罰は受けるでしょう。少なくとも、桜井さんとは別れるかも……
馬鹿ですね、女って。この期に及んで、こんなことを考えてしまうんですから。
でもアップル、あなたが真相をつきとめてこの手紙を読んでくれることを、私は本心から願っています。
あんなことを書いてしまったけれど、私は本当は、主人を殺人犯にしたくないのです。だからこそ、自分で作った毒のカプセルを飲むのですから。
愛しているんです。たとえ死んでも、死んだ後でも。
どうか、私の気持ちを察して、主人を救って下さい。それが、私を救うことにもなるのです――。
サチヨさん、この手紙は何月何日に読まれているのでしょうね。お誕生日、おめでとうございます。
プレゼントを準備する暇がなかったので、代わりに、私のワードローブに入っているピンク色のカシミアのストールをもらって下さい。新品でなくて申し訳ないのですが、私の形見と思って使ってもらえたら嬉しいのです。
亨介さん。
これが真相です。
なんて馬鹿な女なんだ、とあきれていらっしゃるでしょうね。ごめんなさい。これは、私の最初で最後のあなたへのわがままなのです。
今まで、形だけでも私を愛し続けて下さってありがとう。皮肉でも何でもなく、あなたと一緒にいた六年間は、私の人生の中で一番幸福な時でした。
あなたを愛していました。
でも、もう桜井さんと幸せになって下さい。私の保険金で借金を帳消しにしたら、あの方と二人で、初めからやり直して下さい。
さようなら。お幸せに。
本当にごめんなさい――
199×年 11月10日
しをり