ウンディーネ

朝倉 玲

Asakura, Ley

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11章 熱い涙(1)

 「それで――?」

 と憤慨したように言っているのは、佐々野亨介だった。

「僕が父の薬を病院に取りに行っていたからって、それが何だと言うんだ? 僕は母に頼まれて行っていただけだ。薬はちゃんと母に渡していたんだから、受け取っていないなんてのは、母の勘違いだぞ。だいたいその薬のカプセルとやらに、どんな意味があるって言うんだ?」

 佐々野邸の三階の寝室。時計の針は夜の八時を回っている。こんな時刻に拘置所から連れてこられた亨介は、両手に手錠をはめられたまま、憤然とした顔で窓際の椅子に座っており、その両側から太田警部と滝沢の二人に見張られていた。丸テーブルをはさんで向かい側の椅子には明子が座り、その後ろには、いつものように紀子と真一が控えている。

 明子は亨介の反論をひとしきり聞いてから、おもむろに話し出した。

「カプセルに何の意味があるのか、という質問は妥当です。しをりさんが漢方薬の瓶に混ぜられていた毒で死んだのなら、カプセルを小細工する必要なんてありませんから。でも、それと同様に、しをりさんの手に薬包紙を握らせる必要もありませんでしたよね、佐々野さん?」

 意味ありげに尋ね返された亨介は、不愉快そうに顔を歪めた。

「まるで僕がやったような言い方をするじゃないか。何度でも言うが、あれはしをりの自殺だぞ。僕には何の関係もない」

 すると、明子は亨介の顔をじっと見つめ、おもむろに、ふーっと溜息を洩らして、天井を見上げた。

「あなたがそういう人だと知っていたから、しをりさんも僕に手紙を書き送ったりしたんでしょうね……。白(しら)を切り続けたら、いつかは皆諦めるだろうと、本当に信じているんですか? 真実は、あなたが考えるよりずっと厳しいものなんですよ」

「いくら真実が厳しくとも、無実の人間を有罪にはできまい。そんなことをしたら冤罪だ。こちらだって黙ってはいないからな――」

 だが、そんな亨介の好戦的な台詞は完全に無視して、明子は話し続けていた。

「今回の事件は、初めからどこか不自然でした。まず、現場の状況がちぐはぐだった。しをりさんは手に薬包紙を握って、いかにも自殺したような恰好だったのに薬瓶の中には毒が残されていた。――いくら自殺に見せようとしたって、そんなものを残してしまったら台無しですよね。現に、あなたはこうして逮捕されてしまったし。完全に計算違いだったでしょう?」

「だから、僕は殺してなんかいないと――」

 亨介が再び憤然と反論しようとすると、明子は急にその目を真正面から見つめてきた。突き刺すように鋭く厳しいそのまなざしに、亨介は思わずたじろいで口をつぐんでしまった。

「僕はずっと考えていました」

 と明子は話し続けた。

「薬瓶に毒を入れた人物と、薬包紙を握らせて自殺に見せようとした人物は、別人じゃないか、と。そうでなければ、あの現場の不自然さは説明できないからです。毒を入れたのが、あなたのはずはない。それなら絶対に瓶を処分していたはずですからね。津田さんや桜井さんでもなかった。これはお二人と話しているうちに分かりました。では、誰が? ――実は、しをりさん自身だったんです」

 亨介は目をぱちくりさせ、頭の中でせわしく考えるような顔をしていたが、急に吹き出すと、声をたてて笑い出した。

「なんだ。怖い顔で何を言い出すのかと思えば……。結局は君もこれをしをりの自殺だと認めたんじゃないか」

「いいえ、違います」

 明子がきっぱりと首を横に振ったので、亨介はたちまち笑いをひっこめて、ぎろりと睨みつけてきた。

「なんだと? だって、たった今――」

「しをりさんが飲んだのは、薬瓶の中の毒じゃないからです。彼女が飲んだのは、あなたから渡されたカプセルです。その中に、あなたは青酸入りの漢方薬を詰めていました。カプセルを作っておいてあげたから、寝る前に飲みなさい、と言ったのでしょう? ……あの漢方薬に本来付属している透明なカプセルは、水溶性なので、液体の薬を詰めて五分も置くと、ぐにゃぐにゃに柔らかくなってしまいます。それでは時間工作には不都合なので、あなたは、胃酸でなければ溶けないオレンジ色のカプセルを、透明なカプセルと交換していたんです。それこそ、一年も前から周到に準備していたことになります。漢方薬を買ってきては、オレンジ色のカプセルと一緒に渡すのは、あなたの役目だったのでしょう? さも、しをりさんの健康を案じて親切から買ってきたような顔をして……」

 でも、と明子は続けた。

「実は、しをりさんはあなたの計画に気がついてしまっていました。そして、自分が死んだ後であなたが工作するに違いないと予想して、いろいろな手がかりを残していったんです。薬瓶に毒を入れ、僕に手紙を書き送り……これは殺人なんだ、と伝えようとしたんですよ」

 亨介は、ぽかんと明子を見つめていたが、やがて、くっくっと、また声をたてて笑い出すと、手錠をはめられた手で自分の頭を抱え込んだ。

「いや、まいった、大した推理だ……。じゃ、何かね。しをりは僕に殺されると知りながら、みすみす死んでいったと言うのか? しかも、今の話じゃ、僕の渡したカプセルが毒だと知っていたようじゃないか。毒と知りながらそれを飲むなんて、誰がそんな馬鹿な真似をすると言うんだ……! いいかね、あれはしをりの狂言殺人――つまりは、自殺なんだ。しをりは僕が肖子とつきあっているのを面白く思っていなかったんだろう。あてつけに自殺して、それを僕のしわざに見せかけようとしたんだ。薬瓶の毒も君への手紙も、皆そうだ。だいたい、手に薬包紙を握っていたことこそ、自殺だという立派な証拠だろう? 自分で毒を飲んだからこそ、その紙を手にしていたわけだからな」

 明子の後ろで、紀子と真一は心配そうな目をちらりと見交わした。確かに、亨介の言う説のほうが、筋が通っていて自然なのだ。

 毒を飲んで悶死した人間が、毒の薬包紙を握ったままだった、というのは、少し不自然には違いないが、まったくありえないことではない。オレンジ色のカププセルの件だって、確たる物証があるわけではない。だいたい、しをりが承知の上で亨介に殺されていったとする明子の推理には、どう考えても無理があるのだ。

 気がつくと、亨介の傍に立つ太田と滝沢も、同じような心配顔で明子を見守っていた。

 だが、当の明子は落ちつきはらったまま、視線を上げて、壁の絵画へと目を向けた。

「佐々野さん。あの絵の物語については聞いたことがありましたか?」

 亨介は、え? と後ろを振り返り、怪訝(けげん)そうに明子を見直した。

「ウンディーネか? もちろんだとも。しをりが一番好きな物語だったからな。男が水の妖精と人間の女の二人を同時に愛してしまう話だ。水の妖精のほうを妻にしているんだが、ある時、川の上で彼女を叱ったばかりに、妖精は水の国に帰っていく――あの絵はそういう場面だ。しをりの一番お気に入りの場面だったから、画家に模写させたんだ」

 そして、亨介は、ふっと自嘲気味な笑いを洩らした。

「二人の女を同時に愛して、あげくに妻に去られるなんて、いやに僕に似ているな……」

「当然です。しをりさんは、この物語を正確になぞるようにして死んでいったんですから」

 と明子は言い、ますます訝しそうになる亨介の顔をひたと見つめた。

「あなたは御自分にとても自信をお持ちだったようですが、六年間連れ添った奥さんの本心を本当に理解していた、と確信を込めて言い切ることができますか?あなたはしをりさんも桜井嬢も平等に愛してきたし、しをりさんの望みは何でも叶えてきた、と前におっしゃった。でも、彼女の真の望みは本当に分かっていましたか?本当に?」

 くどいほどに繰り返し尋ねてくる明子に、亨介は鼻の頭に皺を寄せたままで、答えようとはしなかった。

「……僕には分かります」

 と明子は静かに続けた。

「いえ、大抵の人なら、男でも女でも思いつくことです。しをりさんはただ、あなたにそばにいて、自分だけを愛してほしかったんですよ。でも、それが叶わなかったから、彼女はウンディーネのような人生を選んだんです……」

 明子は椅子から立ち上がると、ゆっくりウンディーネの絵の下まで歩いていった。そして、そこに描かれている女性を、自分の古い友人自身でもあるように、哀しく懐かしむ目で見上げた。

「しをりさんはもともと、このウンディーネとよく似た性格をしていました。といっても、結婚して魂を得てからのウンディーネにですが。そのうえ、亭主はウンディーネの夫のフルトブラントと同じように、妻のほかにも愛人を作ってしまった。しをりさんがウンディーネと自分自身を同一視するようになったことは容易に想像がつきます。彼女は初め、ウンディーネのように耐え続けました。夫を信じ、憎い恋敵の桜井嬢まで愛そうとして……。ところが、いつしか夫は愛人のほうに心傾いて、保険金目当てに妻を殺そうと考えるようになりました。夫に裏切られた彼女は、水の底の世界へ帰る道を選びました。――つまりは、夫に殺されることを選んだんです。でも、ウンディーネの物語はこれで終わりじゃありません。まだ続きがあるんです。御存知ですか?」

 亨介は無言で首を横に振った。物語になぞらえて、あくまで自分を犯人扱いする明子に、もう勝手にしろと言いたげな、ふてくされた顔をしている。

 明子は淡々と話し続けた。

「ウンディーネたち水の娘には、厳しい掟(おきて)がありました。夫が自分を裏切って二度目の妻を迎えた時には、再び水の底から現れて、夫をその手で殺さなければならない――そう運命づけられていたんです。夫のフルトブラントはウンディーネを失って、しばらくは失意の底にいましたが、やがて、自分を慰めてくれる愛人のベルタルダとの結婚を決意します。掟破りです。水底のウンディーネは夢で必死にそれを止めようとするのですが、フルトブラントはついに結婚式を強行してしまいます。すると、結婚式のすんだ晩、閉じられていた城の泉の蓋が開かれて、ウンディーネが夫を殺しに現れるんです――」

 明子は亨介の目の中を見透かすように見つめながら言った。

「分かりますか? しをりさんは、自分を殺したあなたを裁くために、いろいろな物を残していったんです……裏切った夫を殺すと言っても、現実にはそんなことできっこないし、しをりさんだって、そこまでは望んでいなかったはずです。彼女は、社会的にあなたを罰したいと思ったんですよ。あなたの犯罪を明らかににすることで」

 亨介は、ぱちぱちとしきりにまばたきを繰り返していたが、やがて、力なくまた笑い出した。

「まったく……僕はやってなんかいないんだ、と何百回言ったら信じてもらえるんだろうね。しをりはウンディーネになったつもりで死んでいったって? 僕に裏切られたから? 裁判の席でもその話をしてみるといい。しをりは物語の主人公になりきっていたので、物語の通り、おとなしく夫に殺されていったんです、とね。たちまち一笑に付されるさ。――君たちも、どうせならもう少し真実味のある推理をする人物を連れてきたまえ。こんな少女趣味の馬鹿げた空想につきあわされるのは、もううんざりだ」

 最後の部分は、両傍に立つ太田と滝沢へ言った不平だった。

 すると、明子が突然また話題を変えた。

「しをりさんが大切にしていたウンディーネの本なんですが――」

 と亨介に向かって言う。

「しをりさんが死んでから見当たらないんです。どこに行ったか、心当たりはありませんか?」

 亨介はすっかり辟易(へきえき)した顔で、面倒くさそうに首を振った。

「知らんな。それが何だと――」

 だが、明子は亨介の返事など聞こえなかったように話し続けた。

「ウンディーネは夫を裁くために再び地上に現れました。おそらく、しをりさんもそうしたかったんです。だから、自分を見つけてほしくて、わざと大切なウンディーネの本を自分の手で隠したんですよ――」

 明子の口調には確信が込められていた。聞いている人々は、どこかにしをりの幽霊でも潜んでいるような気分にさせられて、思わず部屋の中を見回してしまった。

 すると、明子が真一に言った。

「ルパン、あの絵を調べてみてくれ」

 真一は、すっと目を細めると、すぐにウンディーネの絵へ近寄り、額の裏側を眺めた。一人で壁から下ろすには大きすぎる絵だったが、真一は、壁に掛けたままで器用に裏板の下のほうを外し、キャンバスの裏のくぼみから一冊の本を取り出した。

「そら――あったぞ」

 それは、表紙が少し色褪せ、すりきれている『ウンディーネ』の本だった。全員が息を詰めるようにして見守る中、明子は本の間から一通の手紙を取り出した。事件の始まりに、しをりが明子へ送ってきたのと同じ、レースのような縁飾りのついた薄水色の封筒だった。

 明子は、やっぱりね、と呟くと、一同を見た。

「これは、しをりさんの遺書です。そして、この中に事件のすべての真相が書かれているんです」

 亨介は青ざめ、幽霊でも見るような目で、薄水色の手紙を見つめていた。

 明子はゆっくりと手紙の封を切った。封筒は分厚く膨らんでいる。と、その中から、小さなビニール袋に入ったオレンジ色のカプセルが、床の上に転がり出てきた。

「それ……!?」

 紀子が思わず驚きの声を上げる。

 明子は息を呑み、信じられないように足元のカプセルを眺めると、ふいに声を震わせた。

「しをりさん……あなたは……あなたって人は……」

 そして、手紙を紀子の手に押しつけると、自分は逃げるように椅子へ戻り、座り込んでしまった。

「読んでくれ。僕にはもう読めないよ……」

 紀子は戸惑って姉や人々の顔を見回したが、明子が椅子に座ったまま動かないのを見ると、思い切って便箋を開いた。

 そこには、優しい女文字で、こんな文面がつづられていた――

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