ウンディーネ

朝倉 玲

Asakura, Ley

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10章 ウンディーネ

 仙台市民図書館は、午後という時間帯と雨降りが重なったためか、いつもより混雑していた。一昨日からの雨で外遊びのできなくなった親子連れが、公園代わりに利用しているのだろう。児童書コーナーのほうは特に賑やかだった。

 津田サチヨから話を聞いた翌日、ここにやってきた明子は、図書の検索データを頼りに『ウンディーネ』の本を捜し出していた。

 『ウンディーネ』は複数の出版社から四冊ほど出ていたが、子供の走り回っている児童書コーナーで絵本のような装丁の本を抜き出したとたん、明子は、これだ……! と呟いていた。

 記憶に残っている、美しい少女の絵の表紙。包帯を巻いた手をもどかしく思いながら、慌ててページをめくれば、あの部屋の絵画と同じ、波間のウンディーネの挿絵が、確かにある。明子は急いで近くの椅子に座ると、むさぼるように読み始めた。

 例の挿絵のページをめくると、裏には、こんな短い文章が載っていた。

  Soon she was lost to sight in the danube;

     ウンディーネは沈んだ、ドナウの底――

 

 『ウンディーネ』は、哀しくも優美な、水の精の愛の物語だった。

 作者はM.フーケーという十九世紀に活躍したドイツ後期ロマン派の作家で、挿絵をつけたアーサー・ラッカムは、二十世紀初頭のアール・ヌーヴォー派のイギリスのイラストレーター。『ウンディーネ』を二十世紀になって戯曲化したのが有名な『オンディーヌ』だ、と解説にはあった。――とはいえ、明子は『オンディーヌ』のほうも、タイトルを知っているだけで、内容まではよく知らなかったが。

 物語は、湖のほとりに住む貧しい漁師の老夫婦を、森に迷った白馬の騎士が訪ねるところから始まる。

 騎士の名前はフルトブラント。若い領主なのだが、森に棲む妖魔に惑わされて、いつの間にか、滅多に来る者もないような森の奥の湖まで迷い込んでしまったのだ。

 フルトブラントが漁師の家に身を寄せて一息ついていると、突然、悪戯っぽい笑い声が響いて、一人の少女が飛び込んできた。それはそれは美しく、妖精のように愛らしい十八歳の少女――それが、漁師の娘のウンディーネだった。とはいっても、実の娘ではない。十五年ほど前、湖で娘を失った老夫婦に、まるで代わりに与えられるように突然湖からやってきた、素性も分からない娘なのだ。

 ウンディーネは、年頃の娘にしてはひどく気まぐれで行儀も悪い悪戯っ子だったが、憎めない愛らしさと魅力があって、老夫婦はそんな彼女を心から慈しんでいた。そして、妖精のようなウンディーネとフルトブラントが恋に落ち、愛を誓うようになるまでにも、そう長い時間はかからなかった。

 すると、これまた与えられるように、森に迷った司祭がやってきて、二人の結婚式をとりおこなってくれた。テーブルにろうそくを灯(とも)し、身内の立ち会う前で指輪を交換するだけの質素な式だったが、ともかく、二人は正式な夫婦になる。

 実は、ウンディーネは地中海を治める水の王の娘だった。妖精のよう、ではなく、本物の水の妖精だったのだ。彼女たちは美しいけれども、人間のような魂をもたない。魂を得るためには、人間の男と結婚して結ばれなくてはならないのだ。わが娘に魂をもたせたいと考えた水の王は、漁師の幼い娘と交換する形で、ウンディーネを人間の世界へ送り出したのだった……

 

「これは、人魚姫と同じだな」

 と明子は呟いていた。

 アンデルセン物語の人魚姫は、嵐の海から救った王子に恋をし、人間の姿になって地上へ行くのだが、魂を得るための方法はまるで同じだった。人間の男と結婚し、神の前で永遠の愛を誓わなければならない。この『ウンディーネ』はヨーロッパの古い物語をもとに書かれたらしいが、アンデルセンも同じ物語を素材にとったのだろう。いや、アンデルセンは十九世紀後半に活躍した人物だから、あるいは、この『ウンディーネ』が直接下敷きになっているのかもしれない。

 ただ、人魚姫は恋する王子と結ばれず、彼を殺して海へ戻ることもできなくて、水の泡になる運命を選ぶのだが、ウンディーネのほうは、晴れてフルトブラントと結ばれて、本物の魂を得るのだ――

 

 魂を得て、妖精から人間になったウンディーネの変わりぶりは、目を見張るばかりだった。気まぐれで悪戯な性格は跡形もなく消え、代わりに、慎ましく心優しい妻になってしまうのだ。夫のフルトブラントに自分の正体が妖精だったことさえ告げ、そのために捨てられてもしかたがない、とまで言う。フルトブラントはそんな敬虔(けいけん)な彼女に改めて心を打たれ、永遠の愛を誓って、彼女を人の住む町へと連れていく……。

 さて、町で待っていたのは、フルトブラントのかつての恋人のベルタルダ。彼女は領主の娘で、美人だが気まぐれでとても高慢な女性。昔の恋人が突然美しい妻を連れて戻ってきたのだから、心穏やかなはずはない。なんだかんだの経緯はあるのだが、ついにはフルトブラントの同情を勝ち取って、ウンディーネと共に彼の城へとついていってしまう。

 ウンディーネ、ベルタルダ、フルトブラント。三人の男女の作る三角関係は、だが、目に見えた争いなどは起こさなかった。ベルタルダがフルトブラントの愛を独占しようとどんなにわがままに振るまっても、心優しいウンディーネは文句ひとつ言わずに、じっと耐えていたからだ。そして、フルトブラントは、いつしか妻よりもベルタルダのほうを愛するようになってくる。空気のように静かに控える女性より、わがままなほどに愛をアピールしてくる女性に魅力を感じてしまうのは、いつの世にも共通な、男の哀しい性(さが)なのかもしれない……。

 ウンディーネを裏切ろうとするフルトブラントたちを、水の妖精族たちの魔手が襲う。だが、あわや二人が命を落としそうになった時、ウンディーネが白い風のように駆けつけてきて、妖精たちを追い払い、彼らを助け出してくれる。ウンディーネは心から彼らを愛していたのだ。そう、恋敵のベルタルダさえ、古くからの親友か姉妹のように思って慕いこそしれ、憎むことなど思いつきもしないのだった。

 そんなウンディーネの健気な姿に、さすがの二人も反省し、その後は三人仲良く城で暮らすようになる。フルトブラントはまた心からウンディーネを愛する夫に戻り、ベルタルダは彼らの慎ましい友人になって。そして、仲良く出かけたドナウ川の舟下りで、その悲劇は起こるのだった――。

 

 川は、水の妖精たちの天下。彼らはベルタルダがまだフルトブラントのそばにいることに怒り、泡立ち逆巻く波に姿を変えて、あれこれ舟に悪さをしかけてくる。その度にウンディーネは妖精たちを諌(いさ)めるのだが、彼らの嫌がらせはエスカレートしていくばかり。ついに堪忍袋の緒が切れたフルトブラントは、怒りを爆発させてしまう。張本人の水の精たちにではなく、妻のウンディーネへ向かって……。

 優しいウンディーネ。 何を言われても、どんなに理不尽な扱いを受けても、愛する夫を許し続けてきたウンディーネ。

 だが、そんな彼女も、たった一つだけ夫に禁を告げていた。水の上では決して彼女を非難しないこと。水の一族は誇り高いので、そんな場面を目にしようものなら、彼女を水底の世界へと連れ戻してしまうのだ。

 だが、フルトブラントはつい、それを忘れて、ウンディーネをなじってしまった。ウンディーネは哀しみながら夫に別れを告げ、ドナウの川底へ姿を消していく――

 それが、あの寝室にあった絵画、波間に沈むウンディーネの場面だった。

 

 明子は目をつぶり、目頭を指で押さえた。

 思い出した。今、はっきりと思い出した。あの日、しをりはこの物語を明子に語り、この場面まで来た時、こう言ったのだ。

「哀しいけど、でも、あたしウンディーネの生き方って本当に好きなの……。彼女はこんなに裏切られても、まだ夫を愛し続けているのよね。いつまでもいつまでも、心から……」

 そうだ。あの本は、その年にしをりの父親が贈ってきた誕生祝いだったのだ。

 離婚していた、しをりの両親。その原因が母親の浮気だったことを、明子は、ずっと後になってから知った。しかも、娘よりその婿のほうを気に入っていたしをりの祖父母は、ふしだらな娘を勘当して、孫のしをりを手元に引き取ったのだという。

 何かを想うように、心に誓うように、瞳を輝かせていたしをり。その思いがけなく強い横顔を、あの日、明子はいつまでも見つめていたのだ……。

 

「しをりさん……?」

 目を閉じたまま、明子は呟いてしまっていた。

 しをりさん……まさか、あなたは……?

 ウンディーネの物語は、そこで終わりではない。彼女と夫には、まだもう一つ、哀しくも残酷な定めがあるのだ。そして、それは……

 

「兄貴様!?」

 耳元でふいに紀子の声がしたので、明子はびっくりして目を開けた。紀子と真一が、心配そうな顔で覗き込んでいた。

「あ、よかった。考え込んでただけなのね。気分でも悪いのかと思っちゃった――」

 明子は彼らを見上げ、夢から覚めたような目で、あたりを見回した。図書館の中は、いつの間にか人影もまばらになり、走り回っていた子供たちも姿を消して静まり返っていた。時計を見ると、夕方の六時を回っている。大きなガラス窓の外は、もう真っ暗だった。

 明子は軽く頭を振ると、改めて紀子と真一を見直した。二人は、津田サチヨの話をもとに、漢方薬のカプセルについて調べに行っていたのだが――

「その顔からすると、成果があったみたいだな」

 と明子が言うと、紀子が大きくうなずいた。

「うん、いろいろね――報告しても大丈夫?」

「ああ……」

 明子は首を回して強張った筋肉をほぐすと、椅子に座り直して脚を組んだ。それを準備完了と見て、紀子は話し出した。

「まずね、あたしとルパンは、あの漢方薬を売ってる薬屋に行って訊いてみたの。薬とセットになってるカプセルは、ずっと昔から透明だったんですって。で、次に、あたしの友達で薬剤師をしてる娘がいるから、彼女に訊いてみたんだけど、赤いカプセルってことだけじゃ、種類が多すぎてよく分かんないわけ。そしたら、ルパンが閃(ひらめ)いてね、血圧の薬にそういうカプセルは使わないかって訊いてくれて――」

「血圧の薬?」

 明子が真一の顔を見ると、彼はちょっと肩をすくめ返した。

「そら、亨介氏の父親が病気で倒れて引退してるだろう。脳溢血だったらしいんだな。それなら血圧の薬も飲んでるだろうし、亨介氏がその薬を病院に取りにいくこともあったんじゃないかと――ま、はっきり言って、かなりの当てずっぽうだったんだが」

「大当たりだったわけか」

 と明子が言うと、紀子がまた大きくうなずいた。

「血圧降下剤に、赤っぽいカプセルを使ってるのがあったの。赤というよりはオレンジに近いんだけど。中身は粉末状。カプセルのほうは水では溶けなくて、胃酸と反応して初めて溶けるんですって」

「てことは、つまり、中に酸性以外のものが入っていれば、飲まない限りカプセルはいつまでも溶けないってわけか……」

 明子は半ば考え込みながらそう言い、で? と紀子たちを促した。

「ルパンの予想通り、亨介氏の父親はそのカプセルの薬を飲んでたわ。しかも、面白いことが分かったの。亨介氏の父親は二つの病院で診察を受けたことがあって、その両方から、まったく同じ血圧降下剤を出してもらってるのよ。でも、家族の話を聞くと、薬は一つの病院からしか貰ってないって――!」

 紀子が頬を紅潮させながら報告すれば、真一も続けて言った。

「もう一方の病院で写真を見せて確かめたら、やはり薬を注文して取りに来ていたのは亨介氏だった。もう、一年以上、月に二度くらいの割りで通っていたらしい。で、これがどういう意味かってことなんだが」

 そこまで言って、真一はまた大きく肩をすくめてみせた。

「正直、俺たちにはよく分からん。亨介氏が薬のカプセルをすり替えていたらしいことまでは想像がつくんだが、何のためにそんなことをしていたのか、と言われると――」

 真一は、ふいに口をつぐんだ。明子が驚くほど厳しい顔つきをしていることに気がついたのだ。紀子も、少し不安そうに姉を見ている。単に何かを思いついたにしては、ただならない表情だ。

 すると、明子は、すっくと椅子から立ち上がって言った。

「現場に戻ろう。真相が分かった。太っ田さんに頼んで、亨介氏を連れてこさせるんだ――」

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