明子が佐々野邸から戻ってくると、事務所の中で、津田サチヨが紀子と一緒に待っていた。
明子はずっと苛立(いらだ)っていたことも忘れ、目を見張って、ソファに座る老女を見つめてしまった。
「津田さん……どうしてここに?」
「私は昨日、旦那様と面会して、お暇をいただいてまいりました」
サチヨは痩せた上体をしゃんと伸ばし、まっすぐに明子を見ながら言った。
「これでもう、お屋敷に気づかうことは何もなくなりました。やっと私自身の言葉でお話しできます」
すると、傍らの椅子に座っていた紀子が、ちょっと戸惑うような表情で小首を傾げてみせた。
「今朝、津田さんからお話を伺おうと思って訪ねたら、どうしても兄貴様に直接話したいことがあるから、って言われちゃって……。あたしも、まだ何にも伺ってないのよ」
明子は黙ってうなずくと、サチヨの向かいの椅子に腰を下ろした。サチヨの前には茶碗が置かれているが、中身はとっくに冷めたくなっていた。紀子が素早く立ち上がり、湯呑みを取って、台所で熱いお茶を淹れ直し始めた。
サチヨは黒いセーターに黒いニットのスカートを身につけて、まるで喪服姿のようだった。前に佐々野邸で会ったときよりも顔色が悪く、急に何歳も老け込んでしまったように見える。が、その両眼だけは、以前にも増して強く毅然(きぜん)と輝いていて、明子は正直、少々面くらってしまった。
すると、サチヨが膝の上のバックの中から一通の封筒を取り出して、明子の前へ置いた。封筒は分厚く膨らんでいる。
「私が老後に備えて蓄えていたお金です。五百万あります。これで、奥様を殺した犯人を捕まえて下さい」
明子はびっくりしてサチヨを見つめ直してしまった。紀子も、台所との仕切りの陰から、目をまん丸くした顔を覗かせた。
「津田さん……」
と言いかける明子を、サチヨは強い口調で遮った。
「何もおっしゃらずに、承知して下さいまし。奥様は私にとって、たった一つの生き甲斐でした。先代の旦那様の時代から、もう二十年以上お勤めしてまいりましたが、私にあんなに優しく接して下さった方は、奥様だけです。あんまり親しくしていただいたので、この歳になって自分に身内ができたような気持ちでいたんでございます……。奥様はよく、あなたの話をなさっていました。素晴らしく頭の切れる名探偵なのだと、何度も何度も繰り返して。あなたに真相を明らかにしてもらえば、奥様も天国でお喜びになると思うのです」
紀子が台所から煎茶を運んできて、そっとサチヨと明子の前に置き、静かに自分の席へ戻っていった。
明子はしばらくサチヨの顔を見つめ続けていたが、やがて、言った。
「あなたのお気持ちは、よく分かりました。僕らも、事件の真相をはっきりさせたくて必死でいたんです。……それで、あなたは誰が真犯人だと思っていらっしゃるのですか?」
「旦那様です」
サチヨは何のためらいもなく、きっぱりと言い切った。おそらく、事件の初めからそう確信していたのだろう。ただ、今までは使用人として口に出すことができなかっただけで。
明子は少し首を傾げて、サチヨの目を見直した。
「ですが、亨介氏はもう逮捕されていますよ。それを捕まえてくれと言われても……」
「旦那様は徹底的に白を切るおつもりです。昔から、そういう方だったのです。自分に都合の悪いことは徹底的にとぼけて、相手が諦めるのを待つんです……。大旦那様がそれはお厳しい方だったので、いつの間にかそんなやり方を身につけられたようです。頭は良い方なのですが、旦那様のそういうところが私はずっと信用できないでおりました。このままでは、この事件も奥様の自殺で片づけられてしまうかもしれません。そんな……そんなことになったら……奥様が浮かばれません……」
初めて、サチヨの声が揺れた。今にも泣き出しそうに顔が歪み、唇を噛みしめて辛うじてそれをこらえる。人前では涙を見せない、というのが、長年一人で生きてきた彼女のプライドであり、ポリシーなのだろう。似たような性格の明子には、その胸の内が痛いほどよく分かるような気がした。
「……あれが奥様の自殺であるはずはありません」
とサチヨは話し続けた。
「あの事件の前々日に、奥様が私に、誕生日のプレゼントには何が欲しいか訊いて下ったからです。……私はこの十九日で六十七歳になります。奥様は、毎年私の誕生日が近づくと、何が欲しいか訊いて下さって、必ずそれをプレゼントして下さったんです」
「今年は何をお願いしました?」
と明子は尋ねた。
「膝掛けにもなるストールを、と。この歳になると、冬の寒さが身に応えますので……。奥様は笑って承知して下さいました。だから、あれは奥様の自殺のはずがないんです。奥様は決して約束を破るような方ではなかったんですから……」
サチヨは涙をこらえる声で話し続けた。いっそ大声で泣き伏すほうが楽ではないか、と思えるような痛々しさだった。
窓ガラスにばらばらと小石の当たるような音をたてて、大粒の雨が降り出した。冬将軍到来目前の十一月。外は、はっきりしない寒々しい天気が続いている。
急に会話の途絶えた部屋の中で、それまで黙っていた紀子が、そっと口を開いてサチヨに尋ねた。
「あの……実は、亨介氏が桜井さんのところへ出かけて行った後、しをりさんが泣いていた、って話を先日聞いたんですけど、本当でしょうか……?」
そのとたん、サチヨの目の中に閃いたものは、激しい『怒り』だった。
「――本当ですとも」
サチヨは、それでも、極力抑えた声で答えた。
「口では何もおっしゃいませんでしたけど、お二人の仲はかなり冷えていたんです。夜のお床だって、もう一年以上も一緒にしていた形跡がありませんでした。私もお勤めは長いので、そのあたりのことは分かるんです。でも、奥様は旦那様を愛し続けていらして、旦那様が夕方出かけられると、こっそり一人で泣いていらしたんです。ええ。誰にも聞かれないように、お部屋の中で声を殺して──。旦那様に気づかれたら旦那様がお辛くなるだろうと考えていらしたんです。奥様こそどんなにかお辛い気持ちだったでしょうに。どんなに裏切られても邪険にされても、旦那様の負担にはなるまいとして、いつだって何も言わずに、たったお一人で……。あんな……あんな旦那様ですのに……」
サチヨは身を乗り出し、テーブルの上の札束の封筒を明子に押しつけるようにしながら言った。
「お願いします。奥様の無念をはらして下さいまし。旦那様の罪を立証して下さい――!」
明子の手の中に封筒を押し込もうとするサチヨの手は、汗ばんでいて熱かった。明子は、その痩せて小さな手の甲を眺め、やがて、そっと封筒を受け取った。
「分かりました。必ず真相を明らかにします。しをりさんのためにも、あなたのためにも……」
とたんに、サチヨは、ほっとしたようにソファに崩れ込み、ありがとうございます、と頭を下げた。皺だらけの頬に、ぽろりと一粒だけ涙がこぼれた。
窓の外では雨が音をたてて降っていた。紀子にサチヨを車で送るように指示しながら、明子は、ふと思い出して、サチヨに尋ねた。
「そういえば、しをりさんたちの寝室にあった、あの大きな絵なのですが、何というタイトルか御存知ですか?」
サチヨは灰色のコートをはおる手を止めて明子を見た。また、何とも言えない辛そうな色がその目に浮かぶ。
「あれは奥様の一番大切になさっていた絵です。奥様のお気に入りの御本の挿絵を、旦那様が一流の絵描きに大きく描かせて、三年目の結婚記念日に奥様にお贈りになったものなんです。奥様はそれはお喜びになって、あの絵を宝物のように大事になさっていました。あの頃はまだ桜井さんなんて方もいなくて、お二人ともそれはお幸せだったんです……。確か『ウンディーネ』という御本の絵だったと思いますが」
明子は思わず、きりっと唇を噛んだ。
『ウンディーネ』! そうだ、そんなタイトルだった。主人公の水の娘の名前なのだ。
すると、サチヨが急に思い出したように首を傾げた。
「そういえば、あの御本がない……古い御本でしたが、奥様はあれもそれは大切になさっていて、いつも枕元のサイドテーブルの棚に立ててらしたのに……」
「『ウンディーネ』の本がないんですか? ――いつから?」
明子は思わず急き込む調子になって尋ねた。
「奥様が亡くなる前までは、いつもの場所にあったように思いますが」
とサチヨが答えると、明子はちょっと目をしばたたかせ、それから、ゆっくりと椅子に倒れ込んで、片手で目を覆った。
サチヨと紀子が驚いていると、やがて、明子は顔を覆ったまま静かな声で言った。ほんの少し微笑を含んでいるような声だった。
「ありがとう、津田さん……。実は僕はずっと悩んでいたんです。しをりさんが死んでしまってから、僕の思いつくことといったら、しをりさんの思い出ばかりだったものだから、僕は推理をしているんじゃなくて感傷に浸っているだけなんじゃないか、と……。でも、これではっきりしました。しをりさんは僕に昔を思い出してもらいたがっているんです。多分……多分そこに何かが隠されているから……」
最後のほうは、話しているというよりも、もう自分自身への呟きのようになっていた。
いくつもの、しをりから明子へのメッセージ。――手紙、『トロイメライ』の曲、そして、『ウンディーネ』……どれもが彼女と明子の高校時代の思い出に結びついている。それは、言外のしをりの懇願に違いなかった。思い出して、アップル。あの頃のことを思い出して。そして、見つけ出してちょうだい。証拠を、この事件の真相を……。
『ウンディーネ』。どんな物語だったか、調べてみよう。きっと、何か手がかりがあるはずだ。そうだ、だからこそ、彼女は手紙にあんなことを書いたんだ。私を覚えて下さっていますか。そう信じて、この手紙を送ります――と。
突然また自分の考えに入り込んでしまった明子に、サチヨが狐につままれたような顔でいると、紀子が穏やかに微笑いながら話しかけた。
「気にしないで下さい、よくあることなんです。きっと、津田さんのお話から、事件を解く鍵を見つけたんだと思いますわ」
サチヨはますます目をぱちくりさせた。いったい自分の話の中の何が、と考えているようだったが、また、ふと思い出した顔になると、おそるおそる紀子に言った。
「あの……これはあまり自信がないんですが……」
何でしょう、と紀子が小首を傾げてみせると、サチヨは口ごもりながら言った。
「奥様が漢方薬を入れて飲んでいらしたカプセルなんですが、私は赤い色をしていたように覚えているんです。でも、あの日刑事さんが押収したカプセルは透明でした。あれはお薬についてくる専用のカプセルだったはずなんですが、最近、色が変わったんでしょうか……?」
「カプセルが?」
紀子は戸惑って、姉を振り返った。明子は椅子の中でちゃんと話を聞いていて、彼らに向かって大きくうなずき返した。
「分かりました。それも調べてみましょう」
そう言った明子の瞳は、希望と自信に鋭く輝き始めていた。まだ確信はない。だが、真相の片鱗のようなものが、ゆっくりと形をとり始めているのだった……