「いらっしゃい、アップル。上がって上がって」
玄関に出てきたしをりは、珍しくはしゃいだ声だった。白いワンピースにリボンにソックスという私服姿が、いかにもお嬢様風でよく似合っている。
学校の制服を脱いで茶のブレザーにジーンズという恰好だったアップルは、しをりに腕を引かれるまま、彼女の家に上がり込んだ。
しをりの家といっても、正確には、彼女の祖父母の家になる。両親は彼女が中学二年の時に離婚していて、彼女は母方の祖父母のもとに引き取られたのだが、何か訳ありらしく、母親は東京に働きに出たまま、ほとんど仙台には帰らないという。明子もそれ以上詳しくは聞かなかったが、しをりの内向的な性格はそのあたりのことから来てるのかな、と思わないではなかった。
しをりの住む家は重厚な和風邸宅で、檜(ひのき)や欅(けやき)といった高級木材がふんだんに使われていた。が、しをりの部屋に通されたとたん、そこがピンクのカーペットを敷きつめた洋間になっていたので、明子は思わず面くらってしまった。部屋の一角には本物の黒いグランドピアノまで据えられている。
「びっくりしたでしょ、アンバランスで」
はにかむような笑顔で、しをりが言った。
「あたしがこの家に来る時に、お祖父様たちが部屋を造り直してくれたの。あたしが好きなだけピアノを弾けるようにって……」
明子が初めて自宅に遊びに来てくれたのが、よほど嬉しかったのだろう。彼女にしては本当に珍しいほど能弁になっていた。
「お祖父様は銀行の頭取をなさってたんだっけ?」
と明子が尋ねると、しをりはたちまち赤くなって、恥ずかしそうにうなずいた。彼女は正真正銘、箱入りのお嬢様なのだ。もっとも、明子にとってはそんなことは大した問題ではなかったが。
二人で宿題を片づけ、しをりの弾くピアノに耳を傾け、彼女の祖母が運んでくれたおいしいケーキと紅茶に舌鼓を打っていると、ふと、しをりが立ち上がって、一冊の本を大切そうに抱えてきた。
「ねえ、アップル。このお話は知ってる?」
外国の翻訳物らしいその本の表紙には、膝を折って座る美しい少女の絵が描かれていた。明子が首を横に振ると、しをりは熱心な口調で言った。
「これはね、水の娘の美しい恋の物語なのよ。イラストもとっても綺麗だし。あたし、この本、大好きなの」
そう言って本を愛惜しそうに抱きしめたしをりの笑顔が、それまで見たこともないほど、いきいきと輝いていたので、明子は思わず、へえ、と見とれてしまった。
「どんな話?」
と尋ねると、しをりはそれは嬉しそうに、にっこり微笑って、本の扉を開いた。
「これはね、昔のヨーロッパの物語なのよ。始まりはね――」
「あ、そうか!!」
明子は突然声を上げると、部屋の壁に掛けられた大きな水彩画を見上げた。
ここは、佐々野邸の三階の、しをりたちの寝室。
推理に行き詰まった明子は、「現場百轍(ひゃくてつ)」の原則通り、もう一度事件現場に戻り、あれこれ考え直しているうちに、また高校時代のしをりのことを思い出してしまっていたのだ。
紀子と真一は今日はいない。それぞれに、家政婦の津田サチヨや関係者の洗い直しに行っている。――この屋敷で働いていた津田サチヨは、さすがに事件の後にはもう出勤せず、自宅に引きこもっているという話だった。
人気もなく冷え切った寝室の中は、淀んだ空気と埃の匂いがする。その部屋の中央にたたずんでいた明子は、フランス窓の傍の大きな絵画をじっと見つめ続けていた。荒れ狂う波間に立つ美しい女性を描いた、例の水彩画だ。アール・ヌーヴォー様式の絵で、ポスターか挿絵を拡大複写したんだろう、と真一は言っていたのだが――
「そうだ、あの本のだったんだ……」
明子は絵を見つめたまま、呆然と呟いた。
高校時代のあの日、明子が初めて自宅に遊びに来てくれた嬉しさに、いつになくお喋りになったしをりが、大切そうに取り出して見せてくれた、あの本。あの中に描かれていたイラストの一枚が、これとまったく同じものだったのだ。水の娘の恋物語だ、と、しをりは言っていた。そうだ。この波間の女性は、その水の娘なのだ。本の題名は――物語の内容は――
明子は必死で遠い日の記憶を探った。が、のどかで平和だったあの日のことは、しをりの見せた輝くような笑顔だけが鮮烈に残っていて、それ以外のことは、物語の片鱗さえも思い出せないのだった。
何か、とても大事なことがそこに隠されているような気がして、神経がひどく苛立(いらだ)つ。どこかでしをりが、思い出してちょうだい、と懇願しているようにさえ思えてくる。
明子は爪を噛みしめて絵を見つめ続け――
「くそっ! やっぱり駄目だ!」
明子は腹立ちまぎれに、思わず傍らのグランドピアノを叩きつけてしまった。火傷を負った手に激痛が走るが、それさえ、どうでもよかった。
不協和音がピアノの中で共鳴して、虚ろな部屋に響き渡った。遠い遠い雷鳴のように……。