仙台市内ではトップクラスの、Sホテル。その一室で会った桜井肖子は、噂通りの美人だった。
社長の愛人などというと、偏見に充ちたイメージを抱かれやすいが、少なくとも彼女にはそんなマイナスの雰囲気はない。スタイルの良い長身に芥子(からし)色の部屋着をゆったりとまとい、部屋の中でも綺麗に化粧をして、金のピアスだけをさりげなくつけている。少しも媚びるところのない、知的な女らしさだった。企業の企画室で働くやり手のキャリアウーマンだと太田警部は言っていたが、なるほど、この女性にならスーツとハイヒールもよく似合うだろう。
「しをりさんのお知り合いの探偵さんですね。警察から話には伺っておりましたわ。私に何の御用でしょう」
と明子たちに言う声も落ちついていて、三十という年齢よりずっと年上に感じられた。
明子は名刺を差し出して丁寧に自己紹介し、後ろに控える助手たちも紹介してから、おもむろに切り出した。
「実は、今日はしをりさんのことを伺いにまいりました」
すると、桜井肖子は形の良い唇の端を持ち上げて、ちょっと皮肉っぽく笑った。
「私を訪ねていらっしゃるのに、他の話題がありますの?」
「いえ、あの事件のことではなく、それ以前の――生きていた頃のしをりさんがどんな女性だったか、それをお聞きしたいんです」
「私や……亨介さんのアリバイなどの話ではなくて?」
意外そうに桜井肖子が訊き返すと、明子は静かに笑ってみせた。
「僕は、しをりさんの高校時代の同級生なんです。あの頃のことは知っていても、今の彼女は知りません。あなたから見たしをりさんがどんな女性だったか、それをお聞かせいただきたいんです」
肖子は黙って明子を見つめた。明子も、まっすぐにそれを見返す。相手の本意を見抜こうとするような、束の間の沈黙の後、肖子はおもむろに彼らに部屋のソファを勧めると、自分もその前の椅子に腰を下ろした。
「……あの人は」
と話しだした口調には、遠い響きがあった。
「あの人は、とても綺麗でしたわ。それに、とても優しくて、はかなげでした。もしも激しく口論なんかしたら、心まで粉々に砕けるんじゃないかなんて思えたほど……。あんなガラス細工のような女性は、他には知りませんわ」
「しをりさんと直接会ったことが、おありなんですね」
と明子が静かに口をはさむと、肖子はちょっと不思議な微笑を見せた。
「私から会いにいったことはありません。あの人は私と亨介さんのことを承知していましたけど、でも、やっぱり私と面と向かうのは辛いだろうと思いましたから。普段は亨介さんが私たちの間を往き来していただけですわ。でも、年に二回、七月と十二月に、しをりさんのほうで私のマンションを訪ねてきていました」
「……お中元とお歳暮ですか」
と明子が言うと、肖子はうなずいた。
「いつもお世話になっております、と言って、毎年欠かさず――」
「お嫌じゃありませんでしたか?」
明子がさりげなく突っ込むと、肖子はまた、ちょっと笑った。
「あれで、あの人がもっと普通の女性で、嫉妬とか憎しみとかを見せていたら、私も嫌いになったかもしれませんわね。亨介さんは私のものだ、なんて口論になることもあったでしょうけど……あの人は、いつも本当に穏やかでしたわ。本気で、亨介さんをよろしく、と私に頼むんです。静かだけど、真剣な目で。そんなふうな人と口論や喧嘩なんて、できると思います?」
桜井肖子の表情は穏やかで、口調もあくまで静かだった。それは、そのまま彼女としをりの会話の風景だったのに違いなかった。
明子はしばらく考え込むように沈黙してから、質問を変えた。
「しをりさんが死ぬ寸前に書いた手紙のことは御存知ですね? あれをどうお思いになりました?」
すると、それまで穏やかだった肖子の表情の奥で、瞳がきらりと鋭く光った。静かに寝そべるふりをしながら、ひそかに身構えていた猫科の猛獣が、敵に向かって身じろぎするように。
「どう思うって、どんな答えがお望みなんでしょう?」
と答える口調も、一転して挑戦的になっていた。自分が、愛する男性の不利になるような証言をすると思うのか、と嘲笑するような響きさえ帯びている。
だが、明子はそんな肖子の感情には気がつかないように、淡々と言い続けた。
「あの手紙は、本当にしをりさんの書いたものだと思いますか?」
「え……?」
肖子は虚を衝かれたように、ぽかんと明子を見つめてしまった。紀子と真一も、思わず顔を見合わせてしまう。あの手紙が他人の手によるものだとは、考えてもみないことだった。
「違うんですか? だって、警察の方は、しをりさんが亡くなる前の晩に書いて、ばあやさんに出させた手紙だって……受け取ったのは、確か、あなたじゃありませんでした?」
肖子に言われて、明子はうなずいた。
「そうです。そして、あの手紙に書かれていた通り、しをりさんは殺されていました。でも、僕はずっとひっかかっていたんです。しをりさんが僕の覚えている通りの女性だったら、あんな手紙を書くだろうかってね。あの手紙は、明らかに夫の亨介氏を告発しています。でも、しをりさんは亨介氏を最後まで愛していた。だとしたら、あんな手紙の書き方はしないんじゃないか――夫の名は伏せて、ただ、相談したいことがあるとでも書くほうが、いかにも彼女らしいんじゃないかと思うんです」
「じゃ、あの手紙は誰が書いたっていうの? ――まさか、誰かが亨介さんを陥れようとして!? その人がしをりさんを殺したの!?」
さすがに、肖子は頭の回転が早かった。そこまでたちまち推理すると、形の良い唇をきりっと噛んだ。
「だとしたら、断じて許しません。亨介さんやしをりさんが何をしたというの? 絶対に、真犯人を見つけなくては――!」
有言即実行。今にも犯人探しに飛び出していきそうな気配の肖子を、明子は穏やかにたしなめた。
「まあ、待ってください。今言ったのは、僕個人の、ただの推論なんですから……。でも、やっぱりあなたは、これは亨介氏の犯行ではないと信じているんですね」
すると、肖子は興奮で紅潮した顔のまま、明子を正面から見返した。
「当然ですわ。あの人はそんなことができる人間じゃありませんもの。……妻の他にも女を持っている、なんていうと、それだけで犯罪者の素地があるように言われてしまいますけど、亨介さんは自分の力量をよく知っていただけなんですわ。私たち二人を平等に愛して、それぞれに幸せにする自信があったからこそ、こういう形の関係を保っていたんです。当人たちがそれで満足していたんですから、他人様から、それをとやかく言われる筋合いはありませんわ」
自分たちはこの関係に満足していた――肖子は、亨介が警察相手に言ったのと同じ台詞を口にしていた。明子はそんな彼女をじっと見つめてから、静かに尋ねた。
「でも、あなたは結婚したくはなかったんですか?」
すると、肖子は明子を見つめ返し、急に、ぷっと吹き出して楽しげに笑い出した。
「……ごめんなさい。でも、やっと普通の質問をして下さいましたわね。それの答えなら簡単――NO、です。そう言うと皆さん、本当か、って疑いますけど、本当に私の本心ですのよ」
軽く笑いながら答える肖子の顔に、己を偽る暗さや翳(かげ)りはみじんもなかった。むしろ晴々と、彼女は言うのだった。
「亨介さんは私を心から愛してくれていますし、私もそうです。確かに、あの人にはしをりさんという女性もいたけれど、私には彼女を憎むなんてこと、とてもできませんでしたわ。本当に優しくて、しおらしくて、健気(けなげ)で……同性ながら憧れていたんですのよ。あんなかわいい女性になれたら、ってね。彼女なら亨介さんの奥さんでも許せました。それに、亨介さんは二日に一度は私と生活していましたもの。単身赴任で何ヵ月も家に戻らなかったり、多忙で家には寝に帰ってくるだけのような夫と結婚した女性から比べれば、ずっと密接な関係だと思いますわ」
肖子はそこでちょっと立ち上がり、ホテルの部屋に備えつけられた冷蔵庫から冷えたバドワイザーを四本取り出すと、明子たちに勧め、自分も缶の口金を切って一口飲んだ。
「そもそも結婚って何なんでしょう?」
と、また話し出す。
「昔は女性の職場がごく限られていたから、ほとんどの女性は、結婚して子供を産み育て、家を守ることで、自分の生活手段と存在意義を得るしかありませんでしたけど、今はもう違いますわよね。私も自分が生活できるだけのお金は自分の手で稼げますし、今の仕事にやり甲斐も感じています。だいたい、思いっきり仕事をするには、家庭なんて持たないほうが身軽じゃありません? 女性の場合、特に。もちろん、結婚して安定したい、安心したいって気持ちも分かりますけど、私は安定より自由のほうを取りたいんです。あの人は私を愛してくれていて、私の自由を損なわない形で私と生活しているんですもの。このうえ結婚なんて手続きは、私にとってもわずらわしいだけですわ――」
「……」
明子は何も言わずに肖子の話を聞いていた。傍らの紀子は何か言いたそうにちょっと身じろぎしたが、やはり黙っていた。明子が横目でそれを促すと、紀子は少しためらってから、口を開いた。
「あなたと……亨介氏は、それでも良かったんでしょうけど、しをりさんは違ったと思うわ。亨介氏があなたのところへ出かけていった後、彼女は一人でそっと泣いてたっていうもの」
それを聞くと、肖子は意外そうに目を見張り、やがて、そう……と呟いた。
「やっぱり、あの人には辛かったのね……。あの人、とても綺麗で優しかったけれど、心の中で何を考えているのか、何を感じているのか、本当に分からなかったわ。すごく不思議な人だった。まるで人間じゃないみたいで。そう……泣いてたの……」
遠くそう呟いて、肖子はそのまま、もの思いにふけった。記憶の中の、はかなげな女性の姿を見つめ直すように――。
明子たちがSホテルを出た時には、すでに日はとっぷりと暮れ、夜色に染まった街を冷たい雨が洗い続けていた。
小走りに駐車場の車の中に逃げ込んだ三人は、エンジンをかけ、ルームヒーターで車内を暖めながら、話し始めた。
「結局、桜井嬢は本当にしをりさんを憎んでいなかったみたいねぇ」
と紀子が言えば、真一もうなずく。
「そんな感じだな。本気で三角関係に満足してた――いや、納得していた、ってところか。しかし、しをりさんとはえらくタイプの違う女性だな」
「だからこそ、喧嘩にもならなかったんでしょうね。――でも、兄貴様、なんであんな嘘言ったの?」
「嘘?」
考え込んでいた明子が、驚いたように目を上げた。
「あの手紙を書いたのは、しをりさんじゃなかったかもしれない、なんて言ったことよ。あの手紙は偽造じゃないって、兄貴様自身が前に言ってたじゃない。それに、筆跡鑑定でも間違いなくしをりさんの字だったって、太っ田さんから聞いてたのに。それとも、わざとああ言って、桜井嬢の本音を引き出そうとしたの?」
「いや、そういうわけでもないんだけどね……」
明子は再び考え込むような声になった。
「……僕は本当に、あの手紙をしをりさんらしくないと思っているんだ。確かに文字は本人のものだろうけど……。おまえたちだって最初に言ったじゃないか。あの手紙は冷静すぎて、なんだか不自然だ、って」
紀子と真一は、薄暗い車内で顔を見合わせた。もしも、あの文面がしをり以外の人物の考えたものだとすれば――
「誰かが、しをりさんにあの手紙を書かせた、ってこと?」
「亨介氏のはずはないな。ということは、本当に亨介氏に犯行をなすりつけようとした奴がいるってことか。それができるのは――」
「あ、その人物が桜井嬢じゃないかと、兄貴様は考えたのね!?」
やっと分かった、と言うように紀子が声を上げると、明子は静かにうなずき返した。
「この際、愛人だから、恋敵だから、なんてことは考えないで、可能性だけで当たってみたんだ。もしも、桜井嬢が亨介氏やしをりさんを憎んでいて、しかも、しをりさんにあんな手紙を書かせられるほど親しく付き合っていたなら、と考えたんだけど――」
「あの桜井嬢の反応からすると、ねぇ……」
「ちょっと考えにくそうだな」
と紀子と真一も考え込む声になってしまった。明子もまた、考え込んでしまう。
亨介は大会社の若社長なのだから、公私共に恨みを買うことも少なくはないだろう。彼を妻殺しの犯人に仕立てて、社会的に失墜させようともくろむ人間もいるかもしれない。が――
そういう人々は、あの内気で引っ込み思案のしをりに、あんな手紙を書かせられるはずがない。
と、すると……
「家政婦の、津田サチヨさん……?」
紀子が自分自身の言葉を確かめるような調子で言った。津田サチヨは、しをりを娘のように思って大切にしていた、という話だったが……。
明子は大きく溜息をついた。
「可能性で言えば、あの人が一番怪しいことになるな。しをりさんが手紙を書いて渡した時に居合わせていたのは、あの人だけだ。事件の話を訊いた時、なんだか、何かを隠しているような調子だったのも気になったし……。明日の朝になったら、もう一度、津田さんに話を聞きに行ってくれないか」
「了解」
紀子が即座に答えれば、真一も言った。
「俺はもう一度、しをりさんの交友関係を洗い直してみよう。案外、思わぬところに伏兵がいるかもしれないからな」
「Thanks」
明子はそう言って、車窓の外へ目を向けた。冷たい雨が駐車場の黒いアスファルトを叩き続け、水溜まりが街灯に鈍く光っている。
本当に津田サチヨが真犯人だろうか?
確かにあの手紙は不自然だが、それだけで亨介を無実と決めつけていいんだろうか? 青酸の入手経路や生命保険の件もあるというのに……。
明子は、夜の景色の中で、いつまでも思い悩み続けていた。