仙台駅構内の鉄道警察隊の詰所で、明子、紀子、真一の三人は、明子を電車の前に突き落とそうとした犯人を囲んでいた。
子供といっても、すでに十五、六歳ぐらいの少年で、背が高く体格も良い。だが、にきびの目立つ顔には、まだ幼い表情が色濃く残っており、眼鏡の奥から、おどおどした目で紀子たちを見回していた。黒縁の丸い眼鏡は、紀子に投げ飛ばされた拍子に、片方のレンズにひびが入っている。
「まだ中学生かね」
と鉄道警察隊の警官が、しかつめらしく少年に尋ねた。命を狙われたの電車に突き落とされかけたのと、物騒な話を私立探偵が突然持ち込んできたので、さぞ迷惑に感じているのだろうが、さすがにそんなことは、おくびにも出さない。
「中学三年です……」
と少年はおとなしく答えた。学校名やクラス、自分の氏名や住所も、訊かれるままに素直に答える。やはり、少年の家は、あの日明子たちが「監視者」を捜し回った住宅街のあたりにあった。
「佐々野邸を覗いていたのは、おまえだな」
と真一が言った。つけ髭と銀縁眼鏡は外していたが、髪はオールバックのままだったので、けっこう気障(きざ)に見える。真一はこの変装でずっと明子の後をついて歩き、もしも彼女を狙う人物が現れたら、姿を見せて、明子に警告を送る手筈になっていたのだ。もちろん、いざという時には紀子と共に駆けつけて、明子を助ける段取りだった。
少年が黙ったまま何も答えないので、真一は語気を強めた。
「どうしてアップルを殺そうとした!? あの花火爆弾もおまえだろう。何故、狙った!?」
すると、少年は突然顔を上げ、まっすぐな瞳で真一たちを見返してきた。
「偉そうに何を言うんだ! おまえたちこそ人殺しのくせに!」
意外な台詞だった。真一たちは思わず目をぱちくりさせて、少年の真剣な顔を見つめてしまった。
「人殺し? ……何のことだ?」
「しらばっくれても、ちゃんと分かってるんだ。あの女性(ひと)を殺しただろう!」
「あの女性……しをりさんのことか? どうして俺たちが彼女を殺さなくちゃならないんだ?」
すると、少年は激しく頭を振り、恨みをこめたすさまじい目つきで睨みつけてきた。
「だって、おまえはあの男の愛人じゃないか!!」
と少年が指さしたのが、こともあろうに明子だったので、三人はまた、きょとんとしてしまった。
「えーと……なんだ、その……あの男っていうのは、佐々野亨介氏のことかい?」
困惑しながら明子が訊き返すと、少年は、とぼけられたと思ったのか、顔を真っ赤にしてますますいきり立った。
「決まってるじゃないか!! 他に誰がいる!!」
「ちょっと待ってよ、君。どうして兄貴様が亨介氏の愛人になるのよ――」
「奴の愛人は、桜井肖子ってOLだぞ」
口々に言う紀子と真一の言葉にも、少年は耳を貸そうとはしない。明子を睨みつけたまま、噛みつくような勢いで言う。
「ごまかそうったって、そうはいくか! おまえは佐々野亨介とキスしてたじゃないか!」
「はぁっ!? ……あ!」
明子は突然、誤解の原因に思い当たって、真っ赤になった。
あの日、佐々野邸の三階で真一が明子にキスをして抱きしめた場面を、少年は望遠レンズで目撃していたのだ。窓のカーテンに半ば隠れていた真一を亨介と勘違いした彼は、ベランダに出てきた明子をその愛人と思い込み、殺人の共犯者だと思って、つけ狙っていたのに違いなかった。
「そう……か」
と、こちらも毒気を抜かれた様子で、真一が呟く。
紀子はそんな彼らを、あらまあ、という顔で眺めると、ひとり腹を立て続けている少年に穏やかに話しかけた。
「あのね、君……それ、亨介氏じゃなかったのよ。キスしてた相手は、ここにいる、この人だったの」
「え!?」
少年はこれ以上できないほど大きく目を見張って、まじまじと真一を見つめた。警官も、いったい殺人現場で何をしていたんだ、という目つきで見てくる。明子と真一はさすがに気まずくて、しきりに前髪を掻き上げたり、頬を掻いたりしていた。
やがて、少年は力なくうなだれると、ぽつんと言った。
「……すみませんでした……」
そして、紀子や警官に訊かれるまま、ここに至るまでの経緯を洗いざらい語り出した――。
来春、高校を受験する彼は、部活動も終わり、毎日志望校めざして受験勉強に励んでいた。数学、英語、社会、理科、国語……単調に続く勉強の合間の息抜きは、誕生日に買ってもらった天体望遠鏡を覗くことだった。それも、夜ではなく日中に、星の代わりに他人の家の窓の中を――。
少年の家はアパートの四階にあって、特に彼の部屋からの見晴らしは良かった。覗ける窓は三階から上のものに限られていたが、窓の中の住人も、まさかそんな高い場所に人目があるとは思わないのか、けっこう好き勝手な恰好や行動をしていて、なかなか興味深いのだった。
中でも少年が一番気にいっていたのが、五、六百メートル先に建っている豪邸の三階の、洒落たフランス窓だった。外にベランダがあり、いつも白いレースのカーテンが揺れている。その窓辺に現れる若い夫人に、少年は憧れていたのだ。
彼女はいつも、白や淡いブルーの柔らかそうなワンピースを着て、長い髪を少女のように風になびかせていた。ほっそりした体をベランダの手すりに寄りかからせ、夢見るように優しげな瞳で遠くを眺める。その目が自分を見ているはずはないと分かっていても、少年は、彼女の視線がこちらを向くたびに、どきどきと胸を高鳴らせてしまった。
カーテンの奥の部屋で彼女がピアノを弾いている時には、その美しい音色が聴こえてくるような気がした。窓辺のテーブルで一人寂しくお茶を飲んでいる時には、空を飛んでいって彼女の話し相手をしたい、と本気で思った。
……時々、彼女がひどく哀しげな顔をして、窓際の椅子の中で沈み込んでいることもあった。それはそれでこのうえなく美しかったのだが、少年の胸は痛んだ。どうしたのだろう、と気がかりに思っていると、ある日、彼女の夫が部屋を出ていった後で、耐えかねたように顔を覆い、さめざめと泣く彼女の姿を目撃してしまった。
――彼女の名前は、佐々野しをり。夫の名は佐々野亨介で、貿易会社の若社長。好色な男で、愛人を囲っては公然と通っている。
母親や近所の噂でそこまでつきとめた少年は、以来、佐々野亨介を仇のように憎むことになった。なんて男だ! 人間のクズだ! 彼女をあんなに哀しませやがって! ……と。
事件のあった夜、少年は残念なことにフランス窓を見てはいなかった。風邪をひいてしまって、早くから寝ていたのだ。
翌日、母親から彼女が死んだこと――しかも殺されたのかもしれない、という噂を聞かされた少年は、目の前が真っ暗になるほどのショックを受け、たちまち犯人に思い当たった。佐々野亨介! あいつに決まってる! 彼女が邪魔になって殺したんだ……!
風邪で学校を休んでいた少年は、自分の部屋から、佐々野邸の監視を始めた。何としても犯行の証拠をつかむつもりだった。いささか正気を欠いていたのかもしれない。亨介を犯人と憎み、犯行を暴くのに夢中になっていなければ、憧れの彼女を失った哀しみと絶望に、少年の繊細な心は押しつぶされそうだったのだ。
少年の部屋からは、佐々野邸の正面は見えない。亨介が殺人の容疑で逮捕され、連行されていった後も、少年は知らずに必死で望遠鏡にかじりつき続け、そして、ついに亨介と愛人のキスシーンを目撃したのだ。――まあ、実際にはそれは真一と明子だったわけだが、真一を亨介と思い込んだ少年の目には、二人が犯行に成功したことを抱き合って喜んでいるように見えたのだった。
と、少年の監視に気づいたらしく、愛人(実は明子)が、ただならない表情でベランダに出てきた。彼が慌てて姿を隠すと、愛人は仲間を引きつれて、すぐ近所まで捜しにやってきた……。
引き上げていく愛人を、少年は自転車で追った。荷台には花火を詰め込んだ手製爆弾を積んでいた。花火爆弾は、以前、亨介に警告するつもりで――彼女を大事にしないと、ただではおかないぞ、と――作ったものだが、どうにも踏み切れなくて、そのまま部屋の押入れにしまいこんであったのだ。愛人が家に入ったのを見届けた少年は、チャイムを鳴らしてから導火線に火をつけ――あとは、例の事件だった。
「それって、ほんとに危険よ」
と紀子が厳しい調子で口をはさんできた。
「火薬が半分湿ってたから、大惨事にはならなかったけど、何の関係もない人が手に取ることだってあったわけだし、家が火事になった可能性だってあるわ。下手すれば、運んでる君の背中で急に爆発したかもしれないのよ」
少年は白い包帯を巻かれた明子の両手にちらりと目をやると、すみません……と蚊(か)の鳴くような声で謝った。
「火遊びすると寝小便するぞ」
と真一も、とても冗談には聞こえない怖い声で冗談を言う。これが中学生でなければ、絶対に二、三発は殴って懲らしめているところだろう。少年はますます小さくなって、うなだれた。
「で、まあ、君は亨介氏が逮捕されたのに共犯の愛人が捕まってないことを知って、自分で復讐するつもりになったわけだね」
と、当の被害者の明子だけが、平静な調子で話していた。
「僕の家――本当は実家なんだけどね、あそこのそばで、僕が出てくるのを待っていたんだろう? で、ついに僕が外出したんで、ずっと跡をつけて、復讐するチャンスを狙っていた。そうだね?」
優しいぐらいの声でそう確認されて、少年はただうなずくしかなかった。追跡する者は、自分が誰かにつけられていることには案外気づかない。少年も前を行く明子にばかり夢中で、オールバックの紳士姿の真一や紀子が自分を尾行していることは、まるで知らなかったのだ。
「僕らは私立探偵でね、しをりさんの友達だったんだ」
と明子から聞かされて、少年は完全に青菜に塩の状態になった。がっくり肩を落とし、うなだれたまま何も言えない。明子は静かに言い続けた。
「まあ、君の気持ちも分からないわけじゃないから、今回はこれでいいことにするけどね。これに懲りたら、今後は思い込みだけで行動するのはやめるんだな。君自身がひどい目に遭うことだってあるんだからね――」
そのまま声もなくうずくまる少年を、鉄道警察隊の警官に委ねると、明子たち三人は詰所を後にした。少年はこの後、警官や呼び出されてきた両親、教師たちから、みっちりと説教されることだろう。
駅を出ると、外ではついに雨が降りだしていた。みぞれにでも変わりそうな、冷たい晩秋の雨だった。
「あーあ、とんだ空騒ぎだったわね」
紀子がコートの襟を立てながらそうぼやくと、真一も肩をすくめた。
「結局は、佐々野亨介の逮捕で事件は一件落着していたわけだ。ちっ、まったく人騒がせな坊やだぜ」
そして、真一は駅のガラスドアを鏡にオールバックの髪を手櫛(てぐし)で崩したが、ふと傍らの明子の表情に気がつくと、声をかけた。
「どうかしたのか?」
「あ、うん……ちょっとね……」
明子は考え込んだまま生返事をした。先刻の少年の話を思い出していたのだ。
夫が愛人のもとに出かけていった後、一人さめざめと泣いていたという、しをり。そして、ある日ついに、夫に殺される、と手紙を書き送ってきた彼女……。
一見、何の矛盾もないようなのに、二つのしをりのイメージの間に、何故だか、どこかしっくりこないものがあった。
「愛人は――桜井肖子は、今どこにいる?」
と明子は尋ねた。
「桜井嬢? 市内のSホテルよ。亨介氏が逮捕された後、彼女も共犯の容疑で取り調べを受けたんだけど、それらしい事実は見当たらないからって、釈放されたの。でも、マスコミがうるさくって自宅に戻れないんで、こっそりホテルに泊まってるらしいわ。もちろん警察の監視付きだけどね」
と紀子が答える。このあたりの情報は、すべて恋人の滝沢の受け売りだ。
「Sホテルだな」
と明子が呟いたので、真一はちょっと眉を上げた。
「愛人に会うのか?」
「うん。――会って、話してみたいんだ」
最後の一ピースがうまくはまらないジグソーパズル。そんなもどかしさを感じさせる事件に、胸が急(せ)く。
佐々野亨介も、まだ犯行を認めてはいない。
何かある。まだ、何かある。
そんな直感を胸に、明子は足早に雨の中へ飛び出していった。