ウンディーネ

朝倉 玲

Asakura, Ley

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6章 追跡者(1)

 11月15日。

 今にも雨の降りだしそうな空の下を、トレンチコート姿の明子が、ゆっくりと歩いていた。

 今日は七五三、しかも日曜日なので、大通りには、華やかな衣装でおめかしした子供たちが両親に手を引かれて歩く姿が目立つ。どの親子連れも、暗い曇り空に追いたてられるように少し足早になっている……。

 明子を狙った犯人を誘い出そうと街を歩き回り始めて、今日で三日目。昨日、一昨日は何の手応えもなかった。事務所を起点にしたせいかと考えて、今日は明子たちの実家から出発し、バスに乗って駅の方面へ向かっているのだが、果たして、バスに乗るあたりから、グレーのトレンチコートの男が背後に姿を見せるようになっていた。髪をオールバックになでつけ、銀縁眼鏡に口髭をたくわえて、紳士と呼んでもいいような風体をしている。紳士は明子と同じバスに乗り、バスを降りてからも、一定の間隔をおいて、ぴったりと明子の後をついてきていた。

 陸橋を渡って仙台駅へ向かうと、駅の中央口の傍らに紀子がたたずんでいた。姉の無事な姿を見つけて、ほっとしたような表情を見せる。明子は目だけでそれにうなずき返すと、後は知らんふりで駅の中へ入っていった。オールバックの紳士も、明子について駅に入っていく。紀子は少し間をおいてから、彼らの後を追った。

 明子は自動販売機で入場券を買ってホームへ向かった。行く先は特には決めていない。追跡者がどこまでついてくるか、それだけが確かめたかったのだ。駅の人込みの中で、オールバックの男は前よりも間隔を詰めていた。その後方には、紀子の姿も見え隠れしている。

 明子は、我知らず生唾を呑んでいた。今にも後ろから刃物で刺されるのでは――そんな恐怖が胸をよぎって、思わず息が詰まりそうになる。

 初めはこんな風ではなかった。敵が餌に食らいついて姿を現したことに、わくわくと好奇心さえ覚えていたのだ。だが、何に乗っても、いくら歩いても、ぴたりと後をつけられているのを肌で感じていると――自分から言い出した囮(おとり)作戦のくせに情けないのだが――抑えようもない恐怖心がこみ上げてきて、足が震え出してきた。いよいよ敵が近くに迫ってきた今は、悲鳴を上げて逃げ出さないようにしているのがやっと、という有り様だった。

 それでも、明子は必死で何食わぬ表情を作りながら一番人の流れの多い階段を下ると、ホームの適当な場所に立った。オールバックの紳士は、明子からそう遠くない位置にさりげなく立ちどまった。紀子が彼らを追い越し、明子の視界の隅に、これまた何気ない素振りでたたずむ。

 その姿が見えていれば安全だ、と自分に言い聞かせながらも、明子の心臓は激しく脈打っていた。咽はからから、包帯を巻いた両手の内側は、じっとり汗ばんでいる。なにせ、自慢じゃないが、明子は護身術というやつがまるでできない。運動神経が決定的に鈍いのだ。もしも突然襲われて、助けが間に合わなければ、明子には自分の身を守ることなどできるはずがなかった……。

 だが、追跡者は人の多い構内で襲いかかってくるつもりはないようだった。何事も起こらないまま、やがて、上り快速の到着アナウンスが響いて、電車がホームに近づいてきた。それに誘われるように、乗客がいっせいに白線近くへ動き出す。明子もつられて前へ歩き出した。明子を追い越して乗降口へ急ぐ客もいる。電車はブレーキ音を響かせながらホームに入ってきた。

 

 ――と。

 突然、明子は誰かから力まかせに背中を突き飛ばされた。

 バランスを失った明子の体が、もんどりうって線路へ落ちそうになる。

 周囲の人間の悲鳴と怒声。耳もつんざくような激しいブレーキ音。巨大な電車の正面と、その中の運転士の驚愕の表情が、ストップモーションの映像のように明子の目に灼きつく。体が、吸い込まれるように線路へ落ちていく……

 だが。

 明子の姿が電車の前に消えたと誰もが思った瞬間、ふいに、その体が、がくんと止まった。左腕を誰かに強く引き戻されて、仰向けにホームに倒れる。その前を、停まり切れなかった電車が通り過ぎ、たっぷり二十メートルも走って、やっと停車した――。

 呪縛にかかったような一瞬の後、人々は溜息をつき、また動き出した。けたたましくホイッスルを鳴らして、駅員がすっ飛んでくる。

 すると、人込みの中から突然一人の男が階段の方向へ走り出した。

 明子の腕をつかんで一緒にホームに転がっていた人物が、素早く跳ね起きた。オールバックにトレンチコートの、例の紳士だ。

「そいつだ! 捕まえろ、のんの!」

 と叫ぶ。――それは、真一の声だった。

 突然の出来事に思わず立ちすくんでいた紀子は、その声にはっと我に返った。たちまち、逃げる男に追いつき、むんずと腕を捕まえて、投げ飛ばしてしまう。はっきり言って、かなり恨みがこもっている。

 ――が、ホームのコンクリートの上に叩きつけられた男の顔を見たとたん、紀子は目を見張り、とまどったように真一たちを振り返った。

「やだ……ねえ、まだ子供よ……」

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