「やっぱり何も見あたらないわねぇ」
紀子は首をねじ曲げるようにして、アパートや家々の上のほうの窓を見上げながら言った。
「怪しそうな人影もないし……。テレビで事件を知った野次馬さんが覗いていたんじゃないの?」
紀子、明子、それに真一の三人は、佐々野邸を出た後、何者かが事件現場を監視していたあたりへ来て、それらしい窓や人物を、通りから捜していたのだ。
真一は難しい顔のままで、建ち並んでいる一群のアパートを睨みつけた。
「方角や高さからいっても、このあたりに間違いはないんだが……」
アパートはどれも五階建て、六階建て。窓が、それこそ何百何千と並んでいる。
明子は諦めるように溜息をついた。
「しかたない。引き上げるとしよう」
時計は四時を回り、家やアパートの密集する住宅街には早い夕暮れが訪れ始めていた。買い物途中の主婦や学校帰りの子供たちが、通りすがりに明子たちを振り返っていく。やはり、なんとなく場所にそぐわない違和感があるらしい。
心持ち足早に車を停めた場所へ戻った三人は、今日はそこで解散することに決めた。
「ここからじゃ、おまえのアパートは遠いだろう。今夜は俺の部屋に泊まったらどうだ?」
と悪戯っぽく誘ってくる真一に、明子は大きく肩をすくめ返した。
「ここからなら実家のほうが近い。のんのとバスで帰るよ」
それを聞いた真一は、ふん、と鼻で笑うと、そのまま車に乗って自分のアパートへ帰っていった。『それでこそ、いつものアップルだな』と言外に真一に言われたような気がして、明子は思わず顔を赤らめてしまった。
すると、紀子がちょっとためらいながら話しかけてきた。
「ねぇ、兄貴様……あたし、別行動してもいいかしら。滝と約束しちゃったのよ」
「デートの迎えに来るのか」
明子は今度は思わず微笑ってしまった。佐々野亨介が逮捕されたので、滝沢も思いがけず早く帰れることになったのだろう。
「分かった。僕は先に帰ってるよ。家の鍵は持ってるし」
「ん。ごめんね。気をつけて帰って。――あ、そうそう。母さんは今日は老人介護のボランティアに行った後、テニスクラブの夜の集会に顔を出すから、遅くなるって言ってたわ」
「相変わらず張り切ってるなぁ。父さんは?」
明子の両親の家は同じ仙台市内にあるのだが、明子は二年余り前からアパートを借りて、独立して暮らしている。一方の紀子は、まだ両親と同居しているのだ。
「父さんは何も言ってなかったわ。でも、母さんの帰りが遅いのは知ってるから、外で食事して帰ってくるんじゃないかしら。家に行っても誰もいないわね」
「いいさ。何かしら食料はあるだろ。ここ何日か忙しかったから、買い物する暇がなくて、僕の部屋の冷蔵庫にはろくなものが残ってないんだ」
要するに、それが、明子が実家へ行きたい一番の理由だったのだ。紀子はちょっと笑うと、もう一度、気をつけてね、と念を押してから、佐々野邸の方角へ駆け戻っていった。そちらで滝沢と待ち合わせしているのだろう。
「さて、と……」
明子は、なんとはなしに両手をズボンのポケットに突っ込むと、夕暮れの街を、表通りのバス停めざして歩き出した。紀子や真一と監視者を捜し回った街並には、もう目もくれなかった。
だが、その時、明子がちらりとそちらを振り返ったら、一つの窓のカーテンの隙間から彼女を見下ろしている視線に気がついたかもしれない。その目は冷たく光りながら、じっと明子を見つめ続けていたのだ――
明子が実家に帰ってみると、紀子の言っていた通り、両親はまだ戻ってきていなかった。
明子はまっすぐ台所へ行くと、冷蔵庫や戸棚から適当に残り物をかき集め、冷や飯には茶漬けの素と熱い番茶をかけて、間に合わせのディナーに仕立てた。食生活にはほとんど頓着しない質(たち)なのだ。それを十分足らずで食べ終えると、一応食器など洗ってから、途中の自動販売機で買って冷やしておいた缶ジュースを冷蔵庫から取り出した。ジュースはもちろん、果汁百パーセントの林檎ジュース。彼女がアップルなどと呼ばれる所以だ。
缶ジュースの口金を切ると、明子は居間の真ん中のローソファーに寝転がって、深い溜息をついた。
「ったく……職業病だぞ」
と呟いたのは、他でもない、自分自身のことだった。
佐々野亨介は、しをりが手紙で告発した通り、殺人犯として逮捕された。今はまだ容疑を否認しているが警察の取り調べが進めば、きっと犯行を認めるだろう。
逮捕の決め手になった、毒入りの漢方薬の瓶……。あれが現場に無造作に残されていたことだって、本当はそんなに不自然なことではないのかもしれない。明子の考えるように、完璧なまでに証拠を消し、現場を工作していける犯人は、実際にはそう多くないのだ。人を殺したことに動転し、あるいは単にうっかりして、現場に決定的な証拠を残していく、というのは、現実にはけっこうあることだった。
それなのに、ひとつ理屈に合わないことがあると、事件をもう一度頭から疑ってかかってしまう。これはもう、探偵アップルの職業病と言えた。人間の起こす犯罪が、全て理屈通りに行われるわけではないことは、充分承知しているはずなのに……。
明子はまた深い溜息をつくと、缶ジュースを一口あおった。甘く冷たい酸味が、口から咽を流れ落ちていく。
と、その時、玄関のチャイムが鳴った。誰かが息せき切って駆けつけてきたように、せわしなく二度三度と鳴り響く。明子は何事かとはね起きて、玄関へ飛んでいった。
だが、ドアを開けると、そこには誰も立っていなかった。とっぷりと日が暮れて夜色に染まった外のポーチに、玄関の照明の光が、ドアを開けた幅の分だけ細長くこぼれている。そして、その光のなかに、包装紙に包まれた四角い箱が、ぽつんと一つ置き去りにされていた。
「……?」
明子は箱を取り上げると、軽く振ってみた。大して重くはないが、何かがぎっしり詰まっているらしく、ごそごそと音がする。それと一緒に、シュルシュルいう低くこもった音と、きな臭い匂いも……
明子は、はっとして箱を放り出そうとした。
その瞬間、箱は、ドン、という爆発音をたてて、火柱を吹き上げていた――。
「許さない! 許さない、許さない! ぜえったいに許さないんだから!!」
紀子は、事務所の床を踏み鳴らし、目に涙さえ滲ませながら、そうわめいていた。窓ガラスには朝日が射している。
「どうして兄貴様を狙うのよ! 卑怯だわ! 絶対に、絶対に捕まえて、とっちめてやるんだから!!」
顔は少女のようにかわいらしくとも、紀子の実戦力は大の男を凌ぐほどだ。彼女がやると言うからには、本当に犯人を捕まえて懲らしめるつもりなのだろう。
デスクの椅子に座っていた明子は、熱くなっている妹をなだめるように、まあまあ、と首を振ってみせた。その両手は、病院で巻いてもらった包帯に手首まで覆われている。右手の指先が使えるのが不幸中の幸いと言えた。
「しかし、おまえもつくづく不用心だぞ」
と冷ややかに明子を睨んだのは、真一だった。口調はクールでも、内心では紀子に劣らず怒り狂っているのが、目の色で分かる。
「得体の知れない荷物を手に取るなってんだ。もしも爆発を顔や目に食らっていたら、どうするつもりだったんだ」
昨夜、北条家の玄関先に置き去りにされていた箱の中身は、大量の花火だったのだ。打ち上げ花火や吹き出し花火、ファミリー花火を紙箱いっぱいに詰め込み、導火線を一本だけ外に引き出した簡単な手製爆弾で、犯人は、チャイムを鳴らして明子を呼び出すと、導火線に火をつけて逃げていったのだ。幸い、火薬が湿っていたらしく、花火の半分は不発だったので、明子は両掌に一週間程度の軽い火傷を負っただけで済んでいた。
「ごめん。今度は気をつけるよ」
と明子は今朝から何十回目かの台詞を、もう一度二人に繰り返すと、おもむろに口調を変えて、身を乗り出した。
「でもさ、随分幼稚な手口だと思わないか? 爆弾の作り方といい、僕の呼び出し方といい」
「兄貴様ったら……」
紀子は本当に涙ぐんでしまった。こんな姉だから、紀子たちはおちおち一人にしておくこともできないのだ。商売柄、他人から恨みを買うことも多いというのに。
だが、明子はそんな紀子の気持ちに気づく様子もなく、夢中で話し続けていた。
「どうも、僕の命を狙ったというよりは、警告をしてきたんじゃないかと思うんだよ。今回の事件に関係あるんじゃないかな」
「捜査から手を引け、と?」
真一が不機嫌な顔のままで言う。
「そう。亨介が犯人なのだから、これ以上余計なことは嗅ぎ回るな、ってね。そうだとすれば、事件にはまだ裏があることになる――。でなければ、亨介氏を逮捕された腹いせだな。僕たちは、しをりさんの手紙を運んだわけだし」
危険な目に遭わされたというのに、明子はどこか楽しそうだった。少年のように瞳をきらめかせて、推理に熱中している。そんな彼女に、紀子もつい引き込まれてしまった。
「でも、あの時点であたしたちのことをを知ってた人って、ほとんどいないわよ。太っ田さんと滝と、亨介氏自身と……家政婦の津田サチヨさん……?」
「愛人の桜井肖子も、共犯の容疑を受けただろうから、俺たちのことを知ってたかもな」
と真一も言う。悔しいのだが、こんな探偵アップルの性格には、紀子も真一もかなわないのだ。いつの間にか、彼女のペースに巻き込まれてしまっている。
明子は、ふむ、と考え込んだ。
「そうだとしても、桜井嬢は警察から事情聴取を受けていたはずだから、直接の犯行は不可能だ。かといって、家政婦の津田さんというのも、いまいちピンと来ないな。例の監視者の件もあるし、別の共犯者がいるのか……」
「ねえ、このままだと兄貴様、また狙われるんじゃないの?」
紀子が心配そうに言って、警戒する目で事務所の入口を振り返った。目的が警告にしろ腹いせにしろ、こんなことで事件から手を引く探偵アップルではないのだから、その可能性は高い。
「それじゃ、狙わせてやることにしようよ」
明子はそう言うと、目を剥(む)いて驚く真一と紀子に笑ってみせた。悪戯っ子のように、楽しげに──。