ウンディーネ

朝倉 玲

Asakura, Ley

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4章 佐々野亨介(2)

 急にしん、となった空気を払いのけるように、紀子が小さく咳をしてから口を開いた。

「今の亨介氏の話、どう思った――?」

「しをりさんがノイローゼで、って話か? 出まかせだろう」

 真一が、にべもなく言ってのけると、滝沢も同意するようにうなずいた。

「さっきボスは話に出さなかったけど、奥さんが飲んだ青酸の入手経路が、また不自然だからな。聞いたかい? 夫婦喧嘩のはずみだって言うんだ」

「どういうこと?」

 と紀子が訊き返すと、滝沢は難しい顔つきになって話し出した。

「ほら、去年の十二月に、例の高杉社長の令嬢が死んだ事件があっただろう――?」

 あっただろう、と聞き返されるまでもない。他でもない、この北条探偵事務所が、太田や滝沢たちとも協力して解決した『クレオパトラの花園』事件のことだ。探偵事務所をここ仙台に開設して初めて手がけた大型の事件でもあり、いろいろな意味で明子たちには忘れがたい一件になっている。

「――あの事件でもシアン化ナトリウムが使われたわけだけど、新聞でそれを読んだ奥さんが、青酸と言うぐらいだから青い色をしているんじゃないか、と言い張って、旦那と口論になったというんだな。で、それなら論より証拠、と亨介は――」

「ほんとに青酸を持ってきて見せたわけぇ?」

 紀子がとんきょうな声を上げた。

「亨介の友人に科学系会社の研究所に勤めてる人がいたんで、そこから瓶ごと借り出したらしいね。翌日にはもう、その友人に返しているんだけど――」

「その前に、いくらかくすねておくのは簡単だな」

 と真一も言う。紀子は頭をひねった。

「うーん、やっぱりちょっと常識はずれね。いくら夫婦喧嘩のはずみだと言っても、ものは青酸よぉ。家庭に持ち込むのは危険すぎるわ」

「それに例の生命保険の件もあったんだろ。これだけ怪しくて、よく亨介氏を無実だと判断したもんだ。宮城県警も質が落ちたんじゃないのか?」

 皮肉たっぷりな真一の台詞(せりふ)に、滝沢はむっとしたように口を尖らせた。

「だから、僕はずっと彼を怪しいと思っていたんだって。……でも、これが奥さんの自殺だとしても、一応筋は通ったからね」

「えーっ、どうしてぇ!?」

 これまた憤慨したように紀子が声を上げると、滝沢はちょっと肩をすくめ返した。

「佐々野亨介の言っていたように、全部奥さんの考えた計画的な自殺だともとれたからね。なにしろ、死んだ奥さんは、亭主に愛人がいても愚痴ひとつこぼさない、とても献身的な女性だったようだから、亭主の会社の経営を助けるために、自分に多額の生命保険をかけさせて、丸一年たつのを待ってから自殺した、ってのも充分に考えられたんだ」

「亨介氏と青酸の色のことで口論したのも、家に青酸を持ってこさせるためのお芝居だったっていうの?」

「その可能性がないとは言えないだろう? おまけに、亨介と愛人のアリバイもしっかりしていたわけだしね。だから、僕もボスもこれが殺人だという証拠を見つけるのに必死だったんだ。でも、まさか、奥さんが殺される直前にアップルに手紙を書き送ってたとはなぁ……。虫の知らせってやつだったのかもしれないね」

 そう言って、滝沢は明子のほうを見た。友人を殺された彼女に同情するような、いたわりの目をしている。とにかく、この青年は刑事にしては優しすぎるくらい心優しい人物なのだ。

 その視線に気がついた明子は、苦笑するように曖昧な微笑を浮かべると、階上を顎で示してみせた。

「もう一度、現場に戻ってみていいかな? ちょっと確かめておきたいことがあるんだ」

 滝沢は、今さら何を? と言いたげな顔をしたが、それでも、言うとおりに明子たちと三階の寝室へ上がっていった。

 

 豪華な家具と見晴らしのよい窓に囲まれた寝室は、さっき太田と共に見た時より、いっそう静まり返っているようだった。

 明子は、しをりの死んでいたというダブルベッドへまっすぐ近寄ると、皺だらけのシーツやずり落ちた布団を指さしながら、滝沢を振り返った。

「さっき太っ田さんにも聞いたけど、ここは発見当時からこんなだったって? ってことは、しをりさんはずいぶん苦しんで死んだってことだよね」

 滝沢はちょっとためらうように、しをりの友人だった女探偵を見つめ返し、やがて黙ってうなずいた。詳しく状況を語ろうとしないのは、明子を思いやってのことらしい。

 明子は、独特の輝くような鋭いまなざしで乱れたベッドを眺め、また滝沢を振り返った。

「これだけ苦しんで転げ回ったのに、手には毒の薬包紙をしっかり握っていたわけか」

 それを聞いて滝沢は、なんだ、というように肩の力を抜いた。

「それなら、僕やボスだって気がついたよ。それだけの状況で紙を放さなかったってのは、不自然だからね。現に、故人の咽には自分で掻きむしったような爪の跡も残ってたし――あ、と、ええと――とにかく、亨介の現場工作だと思うよ。自殺に見せるための」

「うん、そうだろうね……」

 明子はうなずくと、またベッドへ目を向けて言い続けた。

「亨介氏は、今朝、家政婦のサチヨさんが出勤してくる前に自宅へ戻ってきて、合鍵で中に入ると、しをりさんが死んでいるのを確かめたんだ。それから、青酸を少ししをりさんの口の中に振り込み、手には薬包紙を握らせて、いかにも自殺したような現場を作った。――でも」

 明子はますます考え込むような目になると、ほとんど自分にしか聞こえないような声で呟いた。

「――それなら、どうして、その時に薬瓶を処分しなかったんだろう?」

 青酸が混入されたままの薬瓶を現場に放置すれば、殺人のトリックなど簡単に見破られてしまうのに。

 うっかり忘れた? 気づかれるはずがない、とたかをくくっていた? そんな単純な理由だろうか……?

 すっかり自分の考えに沈み込んでしまった明子をどう解釈したのか、滝沢と紀子は足音を忍ばせるように、そっと部屋を出ると、階下へ下りていった。

 後に残った真一は、腕を組んだまま黙って明子を見ていたが、やがて小さく溜息をつくと、やおら彼女を引き寄せて強く抱きしめた。面くらっている明子の顎を捉えて、激しく口づけをする。

「……☆※▲◎♯△!?」

 明子は混乱し、慌てて唇から唇をもぎとると、真一の体を押し返した。

「な、なにするんだ、いきなり!?」

 と真っ赤になってわめく。始めてのキスというわけでもないのに、こういうことにはいつまでも初心なのが明子だ。

 真一は、いつもの調子でちょっと片方の肩をすくめてみせた。

「おまえがあんまり落ち込んでいるからさ。気持ちは分かるが、らしくないぜ」

 何気ない口調の陰に、心配するような響きが隠れていた。明子はますます面くらうと、意味もなく前髪を掻き上げた。

「やだな……そうじゃないよ。ちょっと考えてたんだ。この事件には、まだいくつか腑(ふ)に落ちないところがあるから……。だいたい、人の死ってやつには、もう慣れっこだからね。それが昔の友人でも、僕は別に――」

 かすかに、明子の胸がちくりと痛んだような気がした。

 それにもかかわらず、なおも言いつづけようとすると、真一が遮(さえぎ)った。

「アップル」

 今度の声には、はっきりと優しさがこめられている。

「――もしかして、おまえ、自分で気がついてないんじゃないのか? 自分が落ち込んでるって」

「だから! 僕は、別にそんな……!」

 思わずむきになりかけると、急に真一が明子を指さしてきた。

「じゃ、それは何だ?」

「え……?」

 明子は一瞬戸惑い、突然、自分が泣いていることに気がついた。大粒の涙が二つ、頬の上を伝い落ちている――

「な? ば、馬鹿な……」

 明子は真っ赤になってうろたえた。だが、慌てようがこらえようが、一度こぼれ出してしまった涙は、拭うそばから勝手に溢れ出しては、頬の上を流れ落ちていく……。

 真一が腕を伸ばして、明子をまた抱きしめた。

「よくよく素直じゃない奴だな。自分が泣いていることにも気づかないなんて」

「――るさい! 素直じゃないのは生まれつきだ!」

 そう言ったとたん、明子の心の奥底で堅く閉ざされていた扉の鍵が、ついに外れた。中にしまいこまれていたものが解き放たれ、水の泡のようにゆっくりと意識の表面まで浮かび上がってくる。ふつふつと湧いてくるその感情は、哀しみ、だった。

 何年も会わずにいた、学生時代の友人。手紙ひとつ、電話一本やりとりするでもなかった。だが、会わなくても、話さなくても、心のどこかでは、ずっと彼女を友人と思いつづけていた。便りのないのを無事の知らせと思い、その幸せを信じる――そんな形の友情を、明子はしをりに抱き続けていたのだ。

 不幸な死を迎えた彼女が痛ましかった。救いを求められても力の及ばなかった己(おのれ)が口惜しかった。そんな感情が胸の奥底から次々と湧き出しては、涙となってこぼれ落ちていく――。

 明子は泣き顔を真一の胸に押しつけた。

 真一は何も言わずに明子を抱きしめていた。そんな彼の静けさと胸の暖かさが、ただ優しく心地よい……

 

 だが、果てしなく長く思えた沈黙の後――実際には、ほんの数分間のことだったのかもしれないが――押さえ込まれていた涙はようやく枯れていき、胸を焼くような哀しみも、少しは薄らいできた。

 明子は思い切って顔を上げると、頬に残っていた涙をこすって、照れくさそうに笑ってみせた。

「サンキュ……やっと落ちついたよ」

 真一は優しい目のまま、それを見下ろし、もう一度明子と唇を合わせ――

 ようとして、不意に、はっと鋭く振り返った。

「なんだ……?」

 明子もたちまち緊張して、真一の視線を追う。

 レースのカーテンを半ば引いたフランス窓の向こうに、家やビルの建ち並ぶ景色が広がっている。明子がカーテンを開けてベランダに出ると、真一もやって来て、鋭い目つきで街の一角を眺めやった。

「誰かが監視してやがった……光るものが見えたんだ。双眼鏡か望遠レンズだな。くそ、引っ込んだか」

「どの窓だ?」

「分からん。あの辺なのは間違いないが――」

「マスコミ……が現場を撮影してたのかな?」

「それなら、おあいにく。犯人はもう逮捕されちまったし、捜査も、もう終了したんだからな。だが、それにしちゃ遠かったぞ。だいたい、マスコミなら亨介氏を追っかけて警察のほうに行ってるんじゃないのか?」

「うーん……」

 明子はベランダの手すりを握りしめ、何者かの視線のあった方角を、じっと見つめ続けた。

 事件は、佐々野亨介の逮捕で一件落着。のはずなのに、それでいいはずなのに、明子の胸の中では、まだいくつかの疑問がひっかかって、低い不協和音を鳴らし続けていた。

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