突然階下で起こった騒ぎに、太田と明子たちは、驚いて寝室を飛び出した。声は一階から聞こえてくるらしい。
階段を半分ほど駆け下った時、逆に階段を駆け上がってくる足音がして、ひょろりと背の高い青年が現れた。
「きゃあ♥ 滝っ♥♥」
たちまち紀子が歓声を上げて飛びついたので、青年は危なくバランスを崩して階段から転げ落ちそうになった。太田の部下で紀子の恋人の、滝沢良二刑事だった。
「の、のんの……? アップルたちも。どうしてここに?」
いささか間の抜けた調子で滝沢が驚く間も、階下の騒ぎは続いていた。激しくドアを開ける音、荒々しい靴音――
「何事だ?」
一番後ろから階段を下りてきた太田が言うと、とたんに滝沢は姿勢を正した――片腕には紀子をしがみつかせたままだったが。
「ボス、例の漢方薬からシアン化ナトリウム(青酸の一種)が検出されました。医大の解剖執刀医にも確認しましたが、仏さんの胃袋からは確かに漢方薬の匂いがしたそうです。自殺しようという人間が薬を飲むなんて妙だと思ったんで、間違いはない、と言ってました。それで――」
「捜査の連中が引っ返してきたわけか」
太田が苦笑すると、滝沢は答えるように話し続けた。
「佐々野亨介の逮捕状が取れたんです。ボスがこの事件を疑っていると知って、部長が手回しよく申請してくれていたんですよ」
太田は敏腕刑事だ。太田が怪しいと睨んだ時には必ず何かがある、というのは県警でも有名な話になっていた。
滝沢が先に立って階段を下りはじめたので、一同は後に続いた。階下の怒鳴り声は聞こえなくなっていたが、代わりに激しくもみ合うような音が聞こえてくる。その音に急(せ)かされるように足早になりながら、紀子が尋ねた。
「ねえ、漢方薬って何なの?」
すると、滝沢ではなく、明子がそれに答えた。
「寝室にあった漢方薬の瓶のことだよ。滋養のために、しをりさんは毎晩寝る前にそれを飲んでいたんだ。さっき、太っ田さんが言っただろう」
「寝る前に……? あ、そっか。それなら亨介氏がその時間に家にいなくたって、しをりさんを毒殺できたわけね」
「漢方薬はニンニクや朝鮮人参のエキスが主な成分でな――」
と太田が重々しく口をはさんできた。
「――匂いも味もきついんで、付属のカプセルに自分で詰めて飲むようになっとるんだ。青酸が混入してあっても、気づかれる心配は少なかっただろう」
「毒殺にはなんとも都合のよい代物だったわけか」
と真一も言う。
「ボスは現場に入ったとたんその薬瓶が怪しいと睨んでね、僕が大急ぎで鑑識まで運んだんだ――おっと」
階段を下りきった滝沢は、ちょうど居間のドアから出てきた一団と出くわして立ち止まった。数人の背広姿の刑事に取り囲まれるようにして、手錠をかけられた青年が連れ出されてくるところだった。仕立ての良い背広がよく似合った長身の二枚目だが、その顔は、あからさまな怒りと憤りで歪められている。それが、しをりとの写真にも写っていた佐々野亨介だった。
亨介は、階段から下りてきた一行を睨むように眺めたが、その中に太田の顔を見つけたとたん、刑事たちの手を振り切るような勢いで、激しく食ってかかってきた。
「君! これはどういうことだ!? どうして僕が、しをりを殺した犯人になるんだ!? 説明をしたまえ!」
三十そこそこの若さのわりには、いやに貫祿のある口のききかたをする。明子たちは後から知ったのだが、佐々野亨介は病気で倒れた父親の後を継いで、五年ほど前から貿易会社の社長の座についていたのだ。いわゆる社長口調というもののようだった。
太田は、ずいと亨介の前に出た。それに押されるように周囲の刑事たちが思わず後ずさりかけるが、当の若社長は、動じることもなく太田を見返す。険しい顔つきの「鬼の一課長」を目の前に堂々としていられるのだから、それだけでも大した度胸と言えた。
「あなたは、奥さんに高額の生命保険をかけてましたな」
と太田はつとめて冷静な調子で話し出した。
「数社を使って、総額一億五千万余りの死亡保険金を受け取れるようにしていた。しかも、加入日はちょうど一年前の一昨日だ。丸一年たてば自殺でも保険金が下りるのは、もちろん御存知ですな。……あなたの会社は、先代の放漫経営がたたって、ずっと火の車だった。あなたには桜井肖子さんという女性もいる。それで、奥さんに保険をかけた後、自殺に見せかけて――」
「僕が殺したって言うのか? はっ! 馬鹿な!」
佐々野亨介は激しく嘲笑った。
「僕はしをりを愛していたぞ。確かに僕には肖子もいるが、他人から何と言われようと、僕たち三人はこの関係に満足していたんだ。僕はしをりの望むことなら何でもかなえてやってきた。生命保険だって、しをりが希望したから入れてやっただけだ。確かに額面は大きかったが、その頃、あれの大阪の父親が亡くなったんで、それで気弱になっているんだろうと思って、好きなようにさせたんだ。……あれは生まれつき体も弱かったし、あんな性格だったから、仕事で困っている僕を助けようとして、自分から保険に入って自殺したんだ」
「では、薬瓶に毒が入っていたことは、どう説明しますかな。奥さんは手に薬包紙を握って死んでおられた。自殺するなら、わざわざ薬に混ぜたりしないで、直接、自分の口に入れるはずですぞ。現に、遺体の口からは青酸の匂いがしたという報告もある。これは、あなたが奥さんを薬に混ぜた毒で殺してから、自殺に見えるように工作したということではありませんかな」
「薬瓶の毒だなんて、僕はまったく知らないぞ! 君達が僕を犯人に仕立てようとして毒を入れたんだろう!? 冤罪(えんざい)だ! 訴えさせてもらうからな!」
亨介はまた激しくわめきたてた。何も知らない人間がこの場面を見たら、本当に亨介が冤罪を被っているように思ったかもしれない。
すると、太田がすっと一歩横に動き、後ろに立っていた明子を亨介に見せた。
「こちらにいるのは、奥さんの学生時代の友人の、北条探偵だ――」
探偵、と聞いて亨介は訝(いぶか)しそうな目を明子に向けた。
「――今日、彼女に手紙が届いた。奥さんが、昨夜死ぬ少し前に書いて出したものだ。見てみるかね?」
と太田に手紙を差し出されて、亨介はますます訝しげな顔でそれを手に取った。だが、読むうちにその顔色が変わり、目が大きく見開かれていった。
「なんだ……これは?」
うわごとのように、亨介は言った。食い入るような目で何度も文面を読み返して、また繰り返す。
「なんだ、これは? まるで僕が犯人だと……どうして、あれはこんなものを……?」
一同はそんな亨介に注目していた。本当にショックを受けているのが、傍目(はため)にもはっきりと分かった。顔面が蒼白になっている。
太田は注意深く声をかけた。
「どうやら奥さんはあなたの計画に勘づいておられたようだ。結果的には、間に合わなかったわけだが……」
すると、亨介は、きっと太田を睨みつけた。
「そんなはずはない! 僕はしをりを殺してなんていないんだ! ――あ、そうか!」
ふいに亨介は声の調子を変え、合点がいったように一人うなずいた。
「しをりは僕に殺されると思い込んでいたんだ。いや、違う、僕に殺されたことにして、自殺したんだ。だから、薬瓶に毒が入っていたり、こんな手紙を書いたり……ノイローゼだったんだな」
「ノイローゼで奥さんが殺人を装ったと言われるのか?」
太田が厳しい口調で訊き返すと、亨介は真っ正面からそれを見返した。
「だって、そうとしか思えないだろう。僕はあれを殺してなんていないわけだし。そこまで僕と肖子のことを思い悩んでいたとは思わなかった。かわいそうに」
まるで動じる様子のない京介に、太田は頭を振ると、こういう場面での決まり文句を切り出した。
「とにかく、詳しい話は署で伺うとしましょう。――行くぞ」
太田の合図を受けて刑事たちは動き出し、妙に堂々としている亨介を中央に、屋敷の外へと出ていった。パトカーのサイレンが唐突に鳴り出し、たちまち遠ざかっていく。後にぽつんと残されたのは、明子、紀子、真一、それに滝沢の四人だけだった。