ウンディーネ

朝倉 玲

Asakura, Ley

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3章 佐々野邸(3)

 部屋の全員が注目する中、アーチ型の柱の陰からゆっくり姿を現したのは、灰緑色のニットの上下に黒いカーディガンをはおった、品のよい老女だった。顔の皺は深く体も痩せているが、灰色の髪をきちんと結い上げ、背筋をしゃんと伸ばして立っている。一同に向かって答える声も、張りがあって、はっきりしていた。

「家政婦の津田サチヨです。何か私でお役に立てることはございますか?」

 それは、明子が佐々野邸に電話をかけた時に初めに受話器を取った声だった。しをりが死んでいると警察に通報したのも、この老女だったはずだ。

 津田サチヨと面識のあった太田が、まず、明子たちをしをりの友人の私立探偵だと紹介すると、

「それは存じておりました」

 とサチヨは落ちつきはらって答えた。

「奥様は時々、この方のお話をなさいましたから。高校の時のお友達で、とても頭のよい女探偵なのだと、もう御自分のことより得意そうに……。昨夜も、奥様からこの方宛の手紙をお預かりして、帰る道すがら、ポストに投函したばかりでした」

 明子たちと太田は、はっと顔を見合わせた。太田が大急ぎで上着のポケットから水色の封筒を取り出す。

「その手紙とは、これのことかね?」

 津田サチヨは、それを一目見ただけで、すぐにうなずいた。

「それでございます。昨夜、奥様はお夕食の後にこのお部屋に引きこもって、その手紙を書いていらっしゃいました。内容までは、私は存じあげませんでしたが」「手紙を預かった時、しをりさんに何か変わった様子はありましたか?」

 と明子が傍から口をはさんできた。

「今になってみますと、少しお元気がなかったような気がするのですが、なにぶん、いつも物静かな方でしたので、その時には……。ただ、私が帰る時にその手紙を差し出されて、『忘れないで出してちょうだいね』と言われましたので、帰り道、一番初めにあったポストに手紙をお入れしました」

 サチヨは明子にも警察に対するようにきちんと答えてくれた。しをりの信じていた名探偵を、そのまま信頼しているのかもしれなかった。

 明子は二、三度軽くまばたきすると、考え込む顔になって、また質問をした。

「昨夜はこの屋敷にはしをりさんが一人きりだったそうですね。御主人の亨介氏は、自宅には戻られなかったんですか?」

 すると、津田サチヨは一瞬意味ありげな目で明子を見つめ返した。何か言いかけるように口元を動かし、そのまましばらく沈黙してから、やがて、落ちついた答えを返した。

「警察の方には何度も御説明しましたが、旦那様は毎日午後六時ごろ御帰宅なさって、外泊の日には、七時ごろに改めてお出かけになります。昨夜もそうでした。私はその後、奥様と御一緒に夕食を取って、後片付けをしてから、八時半ごろにお屋敷を失礼いたしました」

「今朝ここに出勤なさったのは何時ごろですか?」

「八時です。いつもなら玄関が開いているのに、今朝に限って鍵がかかっていたので、奥様が具合でも悪くなられているのかと思って、まっすぐここに上がってきました。そうしたら、奥様がベッドでお亡くなりになっていたんです。ひどく苦しんだようなお顔をなさっていました。私は急いで警察にお電話して、後は何もせずに待っておりました。警察が到着するまでは何もしないように、と電話で言われたからでございます……」

 サチヨは取り乱すこともなく、淡々と話を続けていた。朝から警察相手に何度も同じ話をさせられたので、驚きも悲しみも話に伴わなくなってしまったのか……。

 だが、明子は気がついていた。冷静に語っているように見える老女の手が、強く握り合わされて、小刻みに震えているのを。何かをこらえるように、苦しげに――。

 明子は改めてサチヨの顔を見つめた。几帳面そうな表情を作ったまま、これっぽっちも内心を出してはいない。明子は少し優しい目になると、静かに尋ね続けた。

「しをりさんのことでも、家の中のことでも、何か気がついたことはありませんでしたか? どんなことでもかまいませんから」

「……昨夜、お屋敷を出るとき」

 ほんの少しの沈黙の後、サチヨはまた口を開いた。

「奥様はこのお部屋でピアノを弾いてらっしゃいました。音は低くなさってましたが、いつもは御近所迷惑になるからと、夜八時過ぎにはお弾きにならなかったので、珍しく思ったのを覚えております」

「何の曲だったか分かりますか?」

「シューマンのトロイメライです。私は音楽なぞ何も存じませんが、その曲は奥様がお気に入りで、よく私にも弾いて聴かせて下ったので、覚えてしまったんでございます。あとは特に気がついたことは……」

 トロイメライ――!

 明子は心の中で叫んでいた。高校時代、しをりがよく明子に弾いてくれた曲だ。音楽室や体育館のピアノに向かい、「あたし、この曲が一番得意なの」と、はにかむように笑いながら……。

 明子が突然自分の考えにふけって黙り込んでしまったので、代わりに太田がサチヨに言った。

「ありがとう、今回はこれで充分だ。また何か用があったら呼びますから、御自分の部屋にいて下さい」

 サチヨはぺこりと頭を下げると、部屋から出ていった。静かな足音が階段を下っていく。

 それが聞こえなくなると、太田がまた口を開いた。

「今の津田サチヨだが、実は死んだ佐々野しをりにとても忠義に仕えていたらしいんだな。あの歳で一人暮らしなんで、しをりが娘か孫のように思えたんだろう。亭主が外泊の晩には、必ず故人と夕飯を一緒にする習慣だったそうだ」

「ふぅん、それで……」

 と紀子が納得したような声を上げた。明子と同じように、サチヨの内心の動揺を見抜いていたらしい。

 それから、紀子は声の調子と表情を変えて、太田に尋ねた。

「今のサチヨさんの話では、亨介氏はしょっちゅう外泊してたみたいだけど、もしかして外に恋人がいたんじゃないの?」

 すると、太田が笑った。

「相変わらず、こういうことには鋭いな。その通りだ。恋人というより愛人だな。二年余りも関係が続いとって、最近では二日に一度は愛人のマンションに泊まって、そこから出社しとったらしい。会社にも近所にもすっかり知れ渡っとったようだ」

「てことは、もちろん、しをりさんも知ってたわけよね……。どんな女性なのかしら?」

「外資系企業の企画室で働くばりばりのキャリアウーマンで、名前が桜井肖子(しょうこ)、年齢は三十歳。美人らしいな。……昨夜、佐々野亨介と桜井肖子は七時半に駅前で待ち合わせたあと、市内のレストランで夕食を取り、会員制のクラブで酒を飲んだあと、十二時近くになって肖子のマンションに戻っとる。しをりの死亡推定時刻は夜の十時から十一時の間だから、アリバイは一応成立しとるわけだ」

 一応、という部分に、太田はほんの少し含みを持たせた。

 すると、しばらく黙っていた明子が、やっとまた口を開いた。

「まだ確証はないけれど、これはやっぱり殺人だと思います――佐々野亨介氏の。彼に自殺のように偽装されるのを予想して、しをりさんは僕宛にいくつもメッセージを残していったんです」

「他の可能性って、あったの?」

 と驚くように言う紀子に、明子はちょっと苦笑した。

「なんでも疑ってかかるのが、僕らの商売だろう? 第三者が、犯行を亨介氏のしわざに見せようとして、あの手紙を偽造した可能性だってあったわけだからね。でも……」

 家政婦のサチヨに手紙を託した後で、しをりが弾いていたという『トロイメライ』。明子には、それがしをりからの必死のSOSに思えてならないのだった。

 紀子がそれに対して何か言いかけたとき、突然、階下が騒々しくなった。たくさんの靴音と共に、男たちの怒鳴り声が響いてくる。

「佐々野亨介! どこにいる――!?」

 声は、そう叫んでいた。

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