ウンディーネ

朝倉 玲

Asakura, Ley

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3章 佐々野邸(2)

 一歩、ドアの中に踏み込んだとたん、明子たち三人は、はっと息を呑んで立ちつくしてしまった。

「……美術館みたい」

 と紀子が呟く。

 ドアの奥には短い廊下が続き、右手の壁に、見事なアーチ型の入口がある。そのアーチ越しに、一枚の大きな絵画が彼らの目に飛び込んできたのだ。

 異様なほど荒れ狂う波の間に、一人の若く美しい女性の姿が描かれていた。白いドレスをまとい、長い金髪をなびかせ、何か見たくないものでもあるかのように、片腕を目の前にかざして顔をそむけている。下半身は半ば水の中だが、女性は救いを求めてはいない。ただ片手を拳に握って天へ突き出し、絶望するように諦めるように、その目を閉じてしまっている。

 背景には、中世ヨーロッパ風の町並と崖の上の城。空の雲も波も女性自身も、独特の、ひどく装飾的で緻密な曲線で描かれており、よく目をこらして見ると、波間には気味の悪い怪物の顔がいくつも浮かんでいる――。

 へぇ、と真一が声を上げて、絵に近づいていった。

「アール・ヌーヴォーでこんなでかいのは、ちょっと珍しいな」

「アール……って、なに? 作者の名前?」

 と紀子がうかつに聞き返して、たちまち真一から馬鹿にするような目で見られてしまった。

「アール・ヌーヴォーてのは、十九世紀末から二十世紀初めにかけて流行った美術様式だよ。生活全体を芸術性のあるデザインで飾るって思想に基づいていたから、工芸品や建築で一世を風靡(ふうび)したんだが、本の挿絵やポスターなんかでも発達したんだ。ガラス工芸のガレや、グラフィックアーティストのミュシャなんてのがよく知られてるな。ふ……ん、水彩画か」

 と、真一は改めて絵に向き直って、つくづくと眺めた。寝室の一番奥の壁に掲げられたそれは、天井から床まで届くほどの大きさがある。

「この馬鹿でかさといい、線の荒さといい、何かのイラストかポスターを拡大複写した作品のようだな。作家名は……A……Arthur……アーサー・ラッカム? 知らんな。やっぱり絵画作家じゃなさそうだ」

 ここが人の死んでいた現場だということも忘れたように、真一は絵の鑑定に夢中になっていた。元美術品泥棒の習性なのだ。――が、ふと明子の表情に気がつくと、声をかけた。

「どうした、アップル。ぼんやりして」

 明子は部屋の入口に立ちつくしたまま茫然と絵を眺めていたのだが、そう言われてはっと我に返ると、ちょっと顔を赤らめた。

「あ、いや……この絵、どこかで見たような気がしたんだけど……」

 明子は一歩二歩、絵のほうへ近づいて、改めてよく眺めると、曖昧に笑って首を振った。

「やっぱり思い出せない……気のせいかもしれないな」

「アール・ヌーヴォーの画法で描かれた作品なら、今でも時々見かけるぞ。わりとブームのようだし」

 と真一が言うと、明子はただ小さくうなずき返した。

 すると、紀子が首を傾げて言った。

「でも、この絵、確かに綺麗だけど、けっこう不気味じゃない? 波の間に変な顔も見えるし。こんな絵を寝室に飾ってたなんて、しをりさんたち、よくよくこの絵を気にいってたのかしら」

 それに答えたのは太田だった。

「その絵は、亭主の佐々野亨介が、三回目の結婚記念日に故人に贈ったものだそうだ。故人もえらく気にいっていて、ずっと大事にしていたらしい」

「ふぅん……?」

 紀子は少し不思議そうに絵を見つめ続けた。真一のほうは鑑定を終えるともう絵には興味を失ったらしく、部屋の中をきょろきょろと見回している。明子は紀子と一緒にもうしばらく女性の絵を見つめていたが、やがて、また小さく首を振ると。現場のほうに目を向けなおした。

 人目を惹く絵にばかり、まず興味が向いてしまったが、寝室のほうもなかなか広くて立派だ。

 寝室とはいっても、部屋の右半分はプライベートな居間になっていて、椅子や丸テーブルが置かれ、洋酒の瓶やティーセットの並ぶキャビネットや、珍しい茶色のグランドピアノなどが据えられている。右奥の壁は一面ガラス張りになっているので、椅子に座ったままで屋上庭園が眺められるようになっているし、正面の壁の、例の絵の右側にも大きなフランス窓があるので、そちらから街の景色を眺めることもできる。

 ……そういえば、しをりさんはピアノが得意だったな、と明子はグランドピアノを見て思い出した。同じクラスだった高校二年のときには、県のジュニアコンクールで最優秀賞をとったこともあったのだ。

 どっしりしたダブルベッドや、ロココ調のサイドテーブル、ドレッサーなどは、部屋の左半分の空間に集められていた。ベッドの上の羽毛布団は半ば床の上にずり落ち、シーツは皺だらけになっている。ここでしをりは息絶えていたのだ。

 明子は細心の注意をはらってベッドの上を観察すると、太田を振り返った。

「ここは動かしてしまいましたか?」

「いや、仏さんを運び出した時と、ほとんど変わらんはずだ。他の物も、鑑識に回した物以外ほとんど動かしとらん。――というより、先に調べた連中は、はなから自殺と決めてかかってたんで、関係なさそうな物には目も向けなかった、というのが正しいようだな」

 太田の口調には苦渋が混ざっている。「思い込みで捜査をするな」「楽な結論に飛びつくな」――太田が常々主張していることなのだが、実際の捜査現場では往々にしてその逆になってしまうのだ。

「水の入っていたコップというのは、どこに?」

 と明子はまた尋ねた。見当たらないからには、署の鑑識課へ運んでしまったのだろう。

「そこのサイドテーブルの上だ。コップからは仏さんの指紋と唇紋だけが検出されとる。コップの他に鑑識に回してあるのは、仏さんの握っていた薬包紙と食器棚に入っていた開封済みの酒が数本、それに、菓子の入った缶が二つと、漢方薬の瓶ぐらいだな」

「漢方薬?」

 明子は太田の顔を思わず見直した。

「……それ、誰が飲んでいたんですか?」

「仏さんだ。滋養のために、毎晩寝る前に飲んどったらしい」

 答えながら、太田も明子を見つめ返す。二人の間には、ある共通の見解が生まれていた。が、二人ともその時にはまだ、それを口に出そうとはしなかった。

「ねぇね、兄貴様、これ――」

 ベッドをはさんだ反対側から、紀子が呼んだ。壁に、一組の男女を写した小さな写真の額が飾ってあった。おとなしそうな美女が、背の高い二枚目の青年の腕にそっと手をかけて、はにかむように微笑んでいる。

 写真を覗き込んだ明子は、突然、胸を塞がれるような想いにかられて、あわてて目をそらした。

 あまりにも、彼女は変わっていなかったのだ。大きな伏目がちの瞳、おずおずした微笑、夢見るような顔だちと長い髪……少し大人びた以外には、高校時代と何も変わっていないしをりの姿が、そこには写っていた。

「ああ、そうか。彼女だったのか」

 と、すぐ後ろから真一の声がした。明子の肩ごしに写真を覗き込んでいたのだ。

「そういや、高校の時にいたよな。こんな、どこかのお姫様みたいな娘。おとなしいくせに、何故か目立っていたっけ」

 すると、紀子が呆れた顔をした。

「やだ、ルパンたら。今まで思い出せないでいたの? しをりさんっていったら、当時の中央高の一大アイドルだったのよ。ルパンだって三年生の時に同じクラスになってたはずだわ」

「さぁて、記憶にないな」

 と真一は素っ気なく言ってのけると、紀子に向かって意味ありげに、にやりと笑ってみせた。

「なにしろ、その頃の俺はもう一人の校内アイドルと付き合うのに忙しかったからな。他の女なんか眼中になかったさ」

 もう一人のアイドルとは、他でもない紀子のことだった。当時、真一は一学年下にいた紀子と恋人同士だったのだが……まあ、いろいろと経緯があって……今では、真一と明子、紀子と滝沢という組み合わせで落ちついている。

「あの頃は……あたしと付き合ってたからってより、女性全般に興味がなかったんでしょうよ、ルパンは」

 と紀子は顔を赤らめながら言い返した。

「女なんて相手にするのもくだらない、って感じで。あの頃のルパンがまともに認めてた女性って、それこそ、あたしと兄貴様ぐらいのものだったじゃない。それにねぇ――」

 よほど当時のことを蒸し返されたのが気に障ったのか、紀子はなおも反論を続けようとしたが、突然、真一が片手を上げてそれを制した。鋭い目つきで部屋の入口を振り返って呼びかける。

「誰だ!?」

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