「着いたぞ、アップル」
という真一の声に、はっと明子は我に返った。しをりの自宅へ向かう車の中で、夢に見るように、高校時代の彼女のことを思い出していたのだ。はかなげな彼女の声が、今も耳に残っているような気がする……。
明子は、ぶるんと頭を振ると、車の外へ降り立った。
「すごいお屋敷ねぇ!」
車の後部席から降りた紀子が、そう感想を洩らす。この近辺は仙台市でも指折りの高級住宅街なのだが、ずらりと建ち並ぶ、金も手間もかけた家々の中でも、しをりの家はひときわ大きく見事だったのだ。 ヨーロッパの紋章を思わせる飾りのついた門やフェンスには、つるバラが絡みつき、その向こうには広い芝生の庭と石畳の遊歩道がある。遊歩道の先にどっしりと建つ角張った三階建ての屋敷は、外壁に本物の煉瓦と白いタイルが使ってあるので、まるで外国の城のように見える。レースのカーテンの下がる窓という窓を、遅咲きのゼラニウムやベコニアの花が色とりどりに飾っているのが、目に美しい。
「しをりさんの御主人は貿易会社の跡継ぎだったな」
と明子は呟くように言った。少々ヨーロッパに傾倒しすぎてはいるが、いかにもそんな雰囲気のある屋敷だった。もしかしたら会社の広告塔を兼ねて自宅を設計したのでは、と邪推したくなるほどだ。
遊歩道を通って屋敷の中に入ると、絨毯を敷きつめた広いホールで、太田正義警部が彼らを待っていた。「太っ田さん」の仇名通り、恰幅のいい大男で、仁王のような強面(こわおもて)と有無を言わさぬ威圧感を持っている。県警一課にこの人ありと知られる鬼課長だが、旧知の明子たちにとっては、頼りになる保護者のような存在だった。
明子から例の手紙を渡された太田は、短い文面を二度三度と繰り返し読むと、丁寧にたたみ直して封筒に収め、自分の上着の内ポケットにしまった。
「参考物として警察で預かってかまわんな?」
と重々しく言う。だが、気難しげな眉の間が少し開いて明るい表情になったところを見ると、手紙が重要な物証になったのは間違いなさそうだった。
「問題の御主人は?」
と明子は声を落として尋ねた。絨毯を敷きつめた廊下が奥へ続いている広い屋敷には、人の気配はほとんど感じられない。
しかし、太田はすぐ近くのドアを指さすと、同じく声をひそめて答えた。
「そこのリビングで落ちこんどるよ。なにしろ、突然奥さんを亡くしたわけだからな」
太田の口調には軽い揶揄が含まれていた。しをりの手紙の告発どおりだとすれば、亭主の落胆ぶりは完全な演技ということになるのだ。
「亭主の佐々野亨介(ささのきょうすけ)には後で会わせてやろう。まずは現場を見るかね? めぼしい物は鑑識に回してしまったし、仏さんも解剖に運んでしまったから、特に何があるわけでもないんだが」
「お願いします」
明子が几帳面に頭を下げたので、太田は彼らの先に立って、廊下の中ほどにある階段を上り始めた。しをりが死んでいた寝室は、最上階の三階にあるのだった。
太田のすぐ後ろを上っていた紀子が、屈託なく太田に話しかけた。
「ねぇね、太っ田さん、今回は滝はいないの?」
滝、というのは、太田の直属の部下の滝沢良児という若い刑事のことで、紀子とは熱烈な恋人同士なのだ。太田はいかつい顔を思わずほころばせると、紀子を振り返った。笑うと目が糸のように細くなって、思いがけなく優しい顔つきになる。
「奴は今、用事で県警に行っとるよ。もうそろそろ戻るころだろう。……今回の事件を初めから手がけていたのは滝沢だ。奴がわしを呼び出さなかったら、この事件は仏さんの自殺で片づけけられていただろうな」
「へえぇ、滝がね」
真一が遠慮もなく意外そうな声を上げた。滝沢は、一見するとなんとも頼りなさそうな優しげな青年なのだが、最近、徐々にその実力を伸ばし始めているのだ。
太田はいつもの重々しい口調に戻って話し続けた。
「佐々野しをりが死んでいるのが発見されたのは、今朝の八時ごろだ。ネグリジェ姿でベッドに仰向けに倒れて冷たくなっとったんだが、右手には空の薬包紙を握りしめ、そばのテーブルには飲みさしの水のコップがあった。薬包紙からは青酸反応が出たし、昨夜はこの家には故人が一人きりで、誰かが外から出入りした様子もなかった。いかにも自殺らしい状況だったし、関係者も全員アリバイが証明されたんで、捜査陣は自殺と断定して昼過ぎには引き上げたんだ。滝沢だけが状況に納得がいかなくて、現場に残ってわしを呼び出したというわけだ。──実際には、この手紙が現れるまでは、殺人の証拠は何も見つかってなかったんだがな」
「滝は何を怪しいと感じたのかしら……?」
紀子が愛らしい唇に人さし指をあてて小首を傾げる。
すると、それまで黙っていた明子が、突然口を開いて尋ねた。
「しをりさんに子供はなかったんですか?」
「ああ、亭主と二人暮らしだった。日中は、年とった家政婦が通ってくるがな」
と太田は答え、考え深げな目で明子を振り返った。
「やはり、あの手紙の最後が気になったかね……。『私たちを助けてください。』……私、じゃなく、私たち、だ。いったい佐々野しをりと誰のことなのか」
「亡くなっていたのは、間違いなくしをりさん一人きりでしたね?」
と明子が念を押すように尋ねると、太田は幅広い肩をちょっとすくめ返した。
「と、思うがな。佐々野しをりが死んどると通報してきたのは家政婦だったし、むろん、亭主の佐々野亨介もぴんぴんしとる。身近な人間で死んだ者もおらんようだ」
「まさか、このあと連続殺人が起きるなんて言わないでしょうね」
と紀子が心配そうな顔をしたが、それに明確に答えられる者は誰もいなかった。
一行はホテルのロビーのような応接間のある二階を経て、すでに三階に来ていた。階段のすぐ右手にはガラス張りの大きなドアがあり、その向こうに、色づいた木立と遅咲きの花の溢れる庭が見えている。小さいながらも本物の噴水まであって、ちょろちょろと水盤から水をこぼしていた。
「ったく――屋上庭園かよ。ブルジョアも極まれりだな」
真一が口元をちょっと歪めて呟いた。やっかんでいるわけではない。彼は、繊細で洗練されたものが至上という、ちょっと偏った美的価値観をもっているので、この屋敷のような、徹底的に豪華な高級志向はどうも肌に合わないのだ。
「寝室はこっちだ」
と、太田が反対側にある木製のドアを押し開けた。