「あれ……?」
校舎の棟と棟をつなぐ長い渡り廊下の途中で、明子はふと足を止めた。廊下の隅の埃の中に、何か光るものがある。
近づいて拾い上げてみると、それは小さなペンダントだった。半透明の白い月長石に本物のプラチナの唐草飾りを絡ませ、小粒だがこれまた本物のサファイアがはめ込んであって、なかなか凝ったデザインをしている。鎖にもプラチナが使われていたが、鎖は留め具の近くで切れてしまっていた。
「こりゃ高価(たか)いよな……」
と明子は思わず呟いた。とても学生ふぜいが持ち歩くような代物ではなさそうだが……。
明子は改めてあたりを見回した。仙台市立中央高等学校。──だが、今は授業中なので、廊下を通りかかる生徒も先生もいない。明子は歴史の先生に頼まれて、資料室から世界地図を取ってきたところだったのだ。
明子は手の中でペンダントをいじってみた。小さな金具を押すと、ぱちん、と月長石の部分が蓋になって開いた。中には中年の男性の写真が入っている。ロケットになっていたのだ。
「あれ、この顔……?」
明子は思わず首をひねった。写真の顔にどことなく見覚えがある気がする。誰だっただろう……?
明子が考えこんでいると、廊下の端から呼ぶ声がした。
「アップルー、どうしたのぉ?」
明子が遅いので、同級生の一人が呼びにきていた。
明子はあわててロケットを制服のズボンのポケットに突っ込むと、地図を抱え直して走り出した。
「ごめんごめん、今行くよ!」
走りながら、明子の瞳は好奇心に輝き出していた。落とし主不明の美しいロケット。中には何となく見覚えのある男性の写真。中央高の探偵少女アップルには、実に魅力的な研究材料だった。
これは、職員室に届けたりせずに、僕の推理で持ち主を見つけ出してやろう……。
明子は心の中でわくわくとそんなことを考えていた。
その日の夕方、学校から帰った明子は、自分の部屋でさっそく調査に取りかかった。机の引き出しから、校舎の見取り図と全クラスの時間割表を取り出す。
「ええと、あれは四時限目だったから……」
すると、そこへ同じ中央高の制服に身を包んだ紀子が帰ってきた。もっとも、こちらはズボンではなく、ちゃんと規定のフレアースカートをはいている。明子は、冬にだけ許可されているスラックスを、知らんふりして一年中着用しているのだ。
紀子はすぐに興味津々で明子の机を覗き込んできた。
「兄貴様、今度は何を始めたの?……あらぁ、綺麗なペンダント!」
「東棟と中央棟の間の、二階の渡り廊下で拾ったんだ。三時限目の後の休み時間に、誰かが落としたんだと思うんだけど」
すると、紀子が首を傾げた。
「生徒とは限らないんじゃない? これ、本物の宝石よ。大人の持ち物なんじゃないのかしら」
だが、明子は即座に頭を振った。
「女の先生たちにはもう確かめた。最近何か落としたものはありませんか、ってね。全員、違ってたんだ」
言いながら、明子は全クラス分の時間割表に目を通していく。紀子は、ふうん、と一人でうなずくと、校舎の見取り図のほうを手に取って眺め始めた。
「渡り廊下っていうんなら、教室移動してた人が落としたって考えるのが妥当よね。東棟の二階には理科室と美術室と家庭科室があるし、その上の三階には、音楽室と視聴覚室があるもの。特別教室に向かう人か、逆にそこから帰ってくる人が、それを落としたんだわ」
「三時限目か四時限目に特別教室を使ってたのは、一年二組と五組、それに六組──おまえのクラスだな」
「うん。女子は隣の五組の女子と合同で家庭科だったの。でも、あたしたち一年生は二階の渡り廊下はめったに使わないわよ。一階を通って東棟まで行くから」
「なるほど……。渡り廊下を使わない点じゃ、三年八、九、十組も同じだな。なにしろ、同じ東棟に教室があるんだから。とすると、残りのクラスで特別教室を使ったのは──」
明子は時間割表の束の中から何枚か抜き出すと、机の上に置いていった。
「三年一組と二組、それに、二年二組、四組、八組の五クラスか」
「二年八組って、兄貴様のクラスじゃないの」
「ああ。三時限目に理科室で実験があったんだ……さぁて」
明子はまた机の引き出しを開けると、今度は四つ切りサイズの写真を五枚取り出した。四月始めに撮ったクラスの集合写真だ。──中央高の探偵少女は、そんなものまで全クラス分ちゃっかり集めてしまっていたのだ。
明子は例のロケットの蓋を開けると、中の写真を穴の開くほど見つめた。
「恋人かしら?」
と紀子がしごくもっともなことを言う。ロケットに男性の写真とくれば、まず恋人を考えるのが一般的なのだが……。
「この顔、なんだか見覚えがあるんだ」
と、明子は写真を見つめつづけながら言った。
「多分、恋人というよりは、血縁者なんだと思う。父親とか、おじさんとか……兄弟にしちゃ歳がいきすぎてるようだな」
「でも、そんな人の写真を入れてるってことは──」
「うん。今はいない人なのかもな。死んだ人とか、遠くに行ってしまった人とか……。よし、いくぞ」
明子はおもむろにクラス写真を一枚取り上げると、素早い目の動きで、女子生徒の顔を一つずつ眺めていった。
こんな洒落たロケットを男性が持っていたとは、ちょっと考えにくい。明子は女子生徒に狙いを絞って、ロケットの顔写真に印象の似た顔がないか捜し始めたのだ。
印象を確かめるには、むしろ短い時間で見ていくほうがはっきりする。
「これ、これ……これ、と……」
素早い視線で、似て見える女生徒をチェックしていくのだが、一クラスで三人ぐらいチェックされた写真があるかと思えば、まるでチェックされない写真も出てくる。やがて、明子自身の二年八組の写真を眺めていくうち、明子の視線がぴたりと止まった。
「……しをりさん……」
と呟く。
紀子は傍らからクラス写真を覗き込んだ。姉の視線の先に、まっすぐなロングヘアに大きな伏目がちな瞳の、色白な美少女の顔があった。男と女の差は大きいが、優しげな目元や唇の形などが、確かにロケットの中の顔とよく似ている。
明子は急いでまた引き出しをかき回し、自分のクラス名簿を取り出した。橋本しをりの名前の後の保護者の欄には、名字の違う男性名が書いてあった。
「あ、そういえば、あたし聞いたことある。橋本しをりさんって、ご両親が離婚して、母方の祖父母と暮らしてるはずよ」
と紀子が言う。人物関係に強い彼女は、姉の知らなかったクラスメイトのプロフィールまで知っていたのだ。
明子は満足げにうなずいた。
「どうりで見覚えあったはずだな。明日、直接確かめてみるよ──」
翌朝、明子が登校した時、橋本しをりはクラスの自分の席にひっそりと座っていた。
日本人形のように綺麗な顔立ちと、夢見るような優しい眼差しの彼女は、いかにもたおやかで、黙って座っているだけでも、妙に目が惹きつけられる。現に何人もの男子生徒たちが、時折ちらちらと意味ありげな視線を送っているのだが、彼女は気がつく様子もなく、自分の机に向かっている。
いつもそんなふうなのだ。彼女に憧れ、何とか親しくなりたいと願っている男子生徒は、学校中に山ほどいるというのに、彼女は、男子はおろか女子のクラスメイトともほとんど口をきかずに、いつも人の輪から少し離れたところから、遠慮がちにそっと皆を眺めている。もし、誰かが話に加わらないかと誘ったり、話しかけたりすれば、ろくに答えもせずにうつむいてしまう。
もちろん、お高くとまって、すましているわけではない。極端に内気な恥ずかしがり屋なので、他人と話をするのが苦痛なのだ。
それが分かっているので、クラスメイトたちも彼女を無理に誘い出すようなことはしなかった。実際、無理やり人の輪の中に引きずり出したりしたら、彼女は翌日から学校に出てこなくなるかもしれない。だから、彼女にあこがれる男子たちも、ただそっと彼女を見守っているのだ……。
明子はしをりの席の前に立った。明子も、他のクラスメイトたちと同様、彼女と言葉をかわしたことはほとんどない。彼女の性格は知っていたから、声をかけただけで泣かれそうで、思わず緊張してしまう……。
案の定、大きな黒目がちの瞳が不安そうに明子を見上げてきた。怯える小さな動物のような目だ。明子は黙ったまま急いでポケットからロケットを取り出すと、しをりの目の前にかざしてみせた。
とたんに、しをりの表情が変わった。大きな瞳をいっそう大きく見張り、両手で自分の口を覆う。う、まずい! と明子が心に叫んだ時には、彼女の目はみるみる潤み始めていた。
だが、しをりは溢れる寸前でそれをこらえると、ゆっくりと口元から手をはずした。笑みの形に歪められた唇から、か細い声が洩れてくる。
「探してたの、それ……ずっと……でも、どうしても見つからないから、あたし……もう……」
その後はもう言葉にはならなくて、嬉し涙が目からぽろぽろこぼれだした。明子は肩の力を抜くと、優しく微笑(ほほえ)んで、しをりの前にそっとロケットを置いた。
「良かったよ、推理が当たって。もう失くさないようにね」
始業五分前のチャイムが鳴り響いて、廊下や教室がばたばたと騒がしくなり始めていた。明子も自分の席に着こうとそこから離れた。
すると、細い──だが、はっきりとした少女の声が後ろから追いかけてきた。
「どうもありがとう……」
振り返ると、しをりがロケットを大切に握りしめ、潤んだ瞳のままで、にっこり笑っていた。初めて見る、本当に嬉しそうな笑顔だった。明子も急に嬉しくなると、しをりに向かって微笑(わら)ってうなずきかえした。
そんなことがあってから、しをりは明子にだけは時々話しかけてくるようになった。明子のほうから話しかけることもあったが、そうすると、しをりは決まってびっくりしたように目を見張り、それから、幸せそうに笑った。まるで、私に話しかけて下さってありがとう、とでも言うように。これは、三年生になって二人のクラスが別々になるまで、ずっと変わることがなかった。
しをり自身のことも少しは分かるようになった。中学二年の時に両親が離婚して、母方の祖父母の家に引きとられたこと。母は東京にいて、めったに家に帰ってこないが、大阪に行った父とは年に二、三回は会えるし、しをりの誕生日には決まって素敵なプレゼントを送ってくること。あの洒落たロケットも父からの誕生祝いで、彼女にとっては命の次ほどに大切なものだったのだ。
……後になって考えてみると、あの時明子がロケットに関して立てた推理は、かなり独断に近かったのかもしれない。いくら写真の顔に見覚えがあったとしても、父や叔父などより、もっと複雑な関係の人物の可能性はあったのだ。それが、しをりの場合はたまたま一致しただけだったのだが、しをりはあの一件で明子の推理力に絶対の信頼を置くようになったようで、ことあるごとに明子を名探偵だと言って誉めていた。
明子が昼休みに本を読んでいると、しをりはよく、こう話しかけてきた。
「アップル、今日は何を読んでいるの……?」
そっと静かな声で……迷惑がられたらどうしよう、と心配するように、とても遠慮がちに…………